パンチの独り言

(5月15日〜5月21日)
(できること、無責任、流される、原点、愚策、窮屈な議論、違い)



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5月21日(日)−違い

 先天的、と言われると、昔は、落胆の色を隠せず、悩みに沈む人が、多かったと思う。ところが、最近は、様子が違うようだ。何かができなくても、それが先天性のものであれば、諦められる、というより、言い訳ができる、といった感覚に、なるらしい。不具とは、思わないようだ。
 そんな風潮からか、人との違いが、ごく当然の如くに、話題に上る。個性の違い、多様性、そんな言葉が添えられ、不具ではなく、個性と見做す、そんな考え方に、異論はあまり出て来ない。その代わり、その症状の問題より、それと引き換えに手に入れた、他にはない能力が、強調される。多様性を論じる中で、そこに違和感は漂わないが、でも、と思うことが、度々ある。確かに、人との違いが、歴然と現れれば、それは様の違い、と言えるのだろうが、そこに、長短双方の特徴が、現れる必然性はない。失うものがあれば、得るものがある筈、という考えも、所詮、期待に過ぎず、全てに当てはまる訳でも、ないだろう。にも拘らず、得たものを、と探す態度には、やはり、失ったことの異常性を、感じていることが、現れているように、思うのだ。障害にも、歴然と表面に現れるものと、そうでないものとがある。内面的なものは、当事者の悩みの深さに比べ、周囲の理解の高さは、小さなもののままだ。それでも、更なる理解を進めようと、それらを研究の対象とする人々は、解析を進める。他人に理解できぬ症状も、それを可視化することにより、悩みを共有させようとする試みも、研究者から出されるが、その様子は、依然として、疑いと不信が伴うように感じる。経験したことのないものを、仮想空間で、経験させることは、最近の流行ではあるが、この状況は、何かが大きく違っているように、見えてくる。その何かを、捉えることはできないが、違和感は、確かに残る。個性と障害には、明らかな違いがある、と。

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5月20日(土)−窮屈な議論

 死人に口無し、だから、好き放題に言える、という訳でもなく、死者に鞭する、とばかりに、更に罪を着せる、という訳でもない。だが、死に接した時に、その人への批判を口にすることは、世間的には憚られる。だから、という訳でもなかろうが、残った人々への批判は、許されるのか。
 このことについては、様々な意見があることは、承知しているつもりだ。しかし、敢えて、口にした途端に、集中砲火の如くの、罵詈雑言を浴びせられるのには、納得する気は起きない。確かに、死を選ぶ程に、追い込まれた心理に対して、更なる攻撃を加えれば、恰も、死人に口無し、のような状況に思えるだろう。だが、死んでしまったから、全てが正当化できる、というのでは、生き残った人間にとって、針の筵が続くことになる。弱者保護の観点から、被害者は、過剰と思える程に、特別扱いを受ける。だが、被害を受けたと雖も、彼らの行為には、良悪の尺度で測るべきものがある。善悪でもいいが、良し悪しで見た時に、明らかな過ちを犯すこともあり、それが他人に害を与えることもある。それでも、死んで仕舞えば、死人に口無しどころか、別の形での神聖化が行われ、全てが正しいと見做される。間違いは、間違いとして、正しく評価することが、必要な筈なのに、それが、全く別の意図から、歪曲されてしまう。このことに、異論を唱えることさえ、人道的立場から、許されないものとされる。こんな風潮に、違和感を覚える人は多いが、声を上げることは、様々な理由から、憚られるのだ。自由な発言の場、とされる場所でさえ、炎上と称される、集中攻撃に、姿を消すしかないこととなる。最近の話題でも、体罰ばかりが、取り沙汰されるが、その原因については、さらりと流される。誰が悪いか、に耳目が集まるが、その議論自体が、偏ったものだとしたら、歪みを強めるだけのことで、何の解決にもならない。自由な発言などと言われるが、実は、何とも窮屈な時代なのではないか。

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5月19日(金)−愚策

 国を挙げて、対策に取り組む。国策と呼ばれるもので、多くが恩恵をもたらすが、見込み通りにならないことも多い。そうなると、規模が大きいだけに、悪影響の幅も深さも、大きくなる。特に、人材育成を目的とするものとなると、彼らの人生をも、左右することになるだけに、だ。
 教育現場ほど、国策の影響を受ける所はない。これまでにも、様々な試みがなされ、未来の人材を、創出してきた。その全てが、成功裡に終わっていれば、何の問題も生じないが、全てとは、やはり無理なのだろう。その上、この所の国策は、無策同然と断じられることが多いから、やらないよりまし、どころか、被害甚大となったものばかり、にも見えてくる。最高学府においても、その影響は深刻で、舶来品好きの国民性でもあるまいに、海の向こうの制度を、枠組みだけ取り入れたものが、ある時期に導入された。専門性の向上を謳い、その為の資格として、博士号を掲げた制度は、対象を大きく広げる形へと、変貌した。それまで、殆ど輩出していなかった分野は、保持しない者が、審査に携わるという、不思議な状況が生まれ、懸念に包まれたが、それとて、始めてしまえば、問題なしとなってしまう。ただ、それでも、対象者が少数であれば、問題も、小さなままに抑えられる。これが、以前から、かなりの数を輩出していた分野となると、拡大の比率が同じとしても、実数は大きなものとなり、影響の大きさも、比べ物にならない程となった。人材を育成しても、その行き先がない、という状況が生まれ、その為の対策が、再び国策として進められる。だが、この図式は、最終到達点での、整備が進まない限り、成立しない。教育においては、少子化の影響が深刻となり、減少の一途となる中で、市場は開かれず、研究においても、多すぎる専門家の扱いは、困難となりつつあった。彼らの行き先は、結局、見えないものとなり、そろそろ、その存在さえ、忘れられつつある。国策の負の遺産、と呼ばれるものが、人間だけに、忘れてはならないのではないか。

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5月18日(木)−原点

 ハラスメント、という言葉には、犯罪という意味より、「イジメ」という意味が、強く込められているようだ。何故、そんなことを書くのか。本来、肉体的なもの、精神的なもの、どちらにしても、暴力を受ければ、傷害罪と呼ばれるものになる。それが、ハラスメントと括られると、様子が違う。
 ここでも、何故、と問われるかもしれない。だが、ハラスメントとなると、殆どが、民事の対象となり、刑事事件に発展することは少ない。これは、その多くが、明らかな傷害に結びつかず、警察権力の介入を、妨げていることもあるが、多くが、密室での出来事であり、それが、組織による解決を、目指さねばならない、状況を生じている。ここで、一つの問題があるとすれば、殆どの組織が、そういった犯罪を、客観的に、また、公正に取り扱うことに、慣れておらず、様々な事情に振り回された結果、冤罪を含め、不当な扱いを招くことにある。解決を急ぐあまり、十分な調査を行わない場合もあるが、被害者保護を優先するあまり、加害者にされた人間への、不当な扱いを犯してしまうこともある。何が正当か、という点に、初めから答えがある訳ではないから、徐々に、段階を追うに従い、軌道修正をかける必要が出てくる。そこでも、解決が第一と、無理強いが横行する場合が多い。では、どうすべきか。おそらく、こんな役を負わされることにこそ、大きな問題があるだろう。その為の部署を、設置すればいいとの意見も、全体として眺めれば、結局、不慣れな人々による、不確かな作業にしかならず、結局、責任転嫁のようなものに、なりかねない。力で押し切るやり方も、別のハラスメントを生じるだけで、解決どころか、問題を混迷させるだけだ。では、と考えてみると、やはり、初めの問題、つまり、ハラスメントとは何か、という問題に、戻っていきそうに思う。そろそろ、見直す必要もありそうだ。

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5月17日(水)−流される

 重要なことを、見極める力が、必要である、と言われるが、日々伝えられる情報を、眺めると、それが到底不可能と思えてくる。本質を見抜く力どころか、表面的なことばかりに、囚われ続ける人々に、見極めなど、高嶺の花としか、言いようがない。何故、こんな状況が続くのか。
 過度の残業から、自死を選んだ人の話が、毎日のように流されていた。不思議に思えるのは、命より大切なものは、という疑問であり、逃避に走るにしても、別の選択肢はなかったのか、ということだ。特に、彼女が、情報発信源として、SNSを使っていたことは、不思議を更に大きくした。欲求不満を解消する場として、多くの人々が利用する仕組みに、同じように書き込んでも、自分が落ちた穴から、抜け出せなくなる。この様子には、首を傾げるしかないが、何が違ったのか、死人に質すことはできない。その後、社会は、残業を一掃しようと、躍起になり始めており、様々な企業や組織が、解決策を模索している、と伝えられる。それはそれで、重要なことなのだろうが、何を目的とするのか、不明確なままの活動も、数多ある。その一方で、就職活動をする学生達が、対象とした企業の、残業状況を調べる姿を、報道していた。彼女らの弁では、有無ばかりが、触れられていたが、そうなる理由や原因に、思いが至ることは、決してなかった。現場が、仕組みを変えるのに必死になっているのに比べ、彼女らの熱意は、うわべだけのものに見えた。噂に振り回され、周囲との違いを気にする、そんな心情を持つ人々が、話題の中心に据えられることに、報道の目論見が、明確に現れていた。こんな連中が、世に溢れるからこそ、正しいことが、そう見極められず、誤った方に向かい続ける。そんな世の中では、本質を見抜くことなど、夢のまた夢であり、到底、手に入れることなどできない。自分を強く持つことこそが、はじめの一歩となるのだが。

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5月16日(火)−無責任

 教育現場の異変に、気付いたとしても、何の対処も施さねば、放置することと変わりがない。これは、昔から問題とされた、所謂「イジメ」の問題ではない。教育する項目に、大きな変化が起き、必要だからと、早期教育が導入される一方で、一部には、省かれるものが出ているのだ。
 必要最低限のものを、授けるのが、義務教育期間の教育の務めだろう。それを済ませば、誰もが社会に出て行くことができる訳だから、そこで必要となるものを、携えている必要がある。だが、教育の平等は、全く異なる様相を、呈している。つまり、より高度な教育を受ける機会に、貧富などの環境条件における、差別をなくそうとする、そんな動きが、高等教育で受けるべきことを、早めに済ませようとしている。だが、必要不可欠との観点からは、この考えは、根本的に間違っており、様々な水準の、人材育成との見方からも、無謀な試みと、言うしかない状況にある。本来、成長過程において、順番に積み重ねるべき事柄を、崩してまで、早めることにより、基盤を脆くした、均衡のとれていない、能力を築かせることとなる。端的に言えば、言語能力の構築において、思考の基礎となるべき言語の、不安定な構造は、確かな思考能力を養成せず、他言語という武器を身につけた、何も考えることができない、無能な人間を、作り出すことにしかならない。一方で、こんな施策のしわ寄せとして、省かれたものが、現実には、重要な要素となる為、本来、高度な学習をすべき時期に、改めて、そんなことを教え込む必要が出てくる。現場の混乱は、上も下も、著しくなりつつあり、場当たり的な対応では、修復できない状況にある。このままでは、大事なことが欠落した、能力の乏しい人間が、社会へと進出することになりかねない。さて、その責任は、誰にあるのだろうか。

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5月15日(月)−できること

 なんでも、できないより、できるに越したことはない。だから、日々努力を続けるのだ、と思えるのならいいが、中々思い通りにならず、やる気が萎えてしまう場合もある。できる人から見れば、何故、簡単なことなのに、と思えるのかもしれないが、何でもできる人など、居る筈もない。
 できないことを、悔しがるのは、構わないことと思うが、できないことを、糾弾するのは、どうだろうか。業務上、必要なことであれば、できるに越したことはない。だが、それとて、周囲との協力関係から見れば、誰かの助けを得られれば、それで構わぬ、となるのではないか。組織として見れば、確かに、全ての構成員が、同じことができれば、何の問題も生じないし、効率が落ちることもない。だが、能力の違いは、各人それぞれに、得手不得手を持つことから、補い合うという手法も、必要となる。だが、不安定な時代には、組織に属することについても、約束されるものではなく、或る日突然、外される憂き目に遭う場合も多い。そうなると、できないことは、欠点と扱われ、それが不利に働くことになる。長所を、前面に押し出せれば、欠点を補うこともできるだろうが、こういう場面での長短は、偏った扱いを受ける場合が多い。優れた面より、劣った面が、取り沙汰されることが多いのも、欠点に注目が集まるからか、逆の立場にある時に、どんな感覚を抱くのか、考えたこともないらしい。新技術が、広がるにつれて、そんな話題が、度々持ち出されるが、それとて、最先端は別として、ある程度一般化してしまえば、誰もができることとして、認識が広がる。この流れに乗れず、苦労する人が出るのは、こんな時期だろう。だが、新たな技術は、次々に登場する。今はできても、すぐに、できないことが、出てくるとしたら、できない人を、殊更に批判するのは、どうだろうか。できること、それも、他人より優れた点に、もっと目を向けたらどうか。また、そんなものを、持てるような努力を、心掛けては。

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