パンチの独り言

(5月22日〜5月28日)
(現状打破、無駄、打開策、動き続ける、伝承、馬鹿正直、天罰)



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5月28日(日)−天罰

 能無しが、巷に溢れている。こんな言葉を発したら、途端に、非難轟々となるに違いない。だが、叫び声以外に、何か論理的な反論は、聞こえないのではないか。他人の能力だけでなく、自分のものまで、正当に評価できない、そんな人々に、果たして、能力があると言えるのか。
 現実には、無能な人間を、どう操るかが、今の時代を、好き放題に生き抜く為の、重要な手立てとなっている。矢面には、その連中を壁のように立たせ、中枢の腐敗ぶりを、覆い隠そうとする。そんなやり方は、巷に溢れるどころか、国の中枢にまで、及んでいる。逆の見方をすれば、国の為という、大義においてさえ、私利私欲を表に出し、思い通りに、事を運ぼうとする、心を病んだ人々が、君臨し続ける。彼らの品格の無さは、言葉の端々に現れ、露骨な欲望の表明は、無恥極まりないものと映る。だが、自分達も、欲望を満たそうとするだけの、愚民達には、この姿は、憧れのものと映るらしい。何事にも、身近な欲望を、手に入れようとする姿に、以前なら、恥知らずとの罵声が、浴びせられたものだが、今や、憧れなのだろう。こんな状況では、欲望を貪り続ける、人非人の代表者が、国の中枢に巣食い、行く末を危ういものとする。小賢しい人々は、自分より劣る人間を、周囲に配し、全てを制御下に置こうとする。その結果、あらゆる段階で、肝心の業務は滞り続ける。以前なら、優秀なる実務者が、周囲を固めることで、無能な大臣の失敗を、覆いかくしてきたが、彼らを排除する動きを、中枢が始めてから、これも不可能となった。国を壊そうとする動きは、こんな形で、愚民達には、見えないものらしいが、それがそろそろ、表に現れ始めている。憲法を変えようとする動きは、その最たるもので、愈々、悪事が露呈しかかるが、それにしても、誰も興味を抱かないのでは、罰を受けることもないのか。

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5月27日(土)−馬鹿正直

 正直者が馬鹿を見る、という時代なのだろう。余りの茶番に、呆れを通り越して、といった感覚がある。だが、当事者達は、何かに、躍起になっている。馬鹿を見せられた、正直者が、あの時、正直に言え、と言われたのと同じように、再び、正直に口を開いたら、罵詈雑言を浴びせられた。
 政に携わる人間の、品格の無さに、もう、呆れという言葉は、似合わない。それほどに、劣悪化した人間が、無知な人々に選ばれ、国を代表する会議に、雁首を並べている。それどころか、国の運営の中枢に、異常とも思える程に、長期間に渡り、君臨している。これは、宰相に限らず、その側近と呼ばれる人物も、同様であり、彼らの発言の下品さは、丁寧な言葉を使う程に、その下らなさを際立たせる。だが、無能な連中にとって、その真意が伝わる筈もなく、劇場にも似た、筋書き通りの芝居に、拍手を送る者さえ居る。彼らに反旗を翻したように、見られている人物は、国の役所の頂点を極めていた時期に、偶々起きた、不祥事の責任を取らされ、退いた。その際にも、実態を正直に伝えよ、という上からの圧力に、素直に従ったが、従前通りには扱われず、切り捨てられた。不本意と言えば、その通りだったろう。今回のシッペ返しは、そこから生まれた、と言っても良さそうだ。だが、ここでも、単純に、正直に振舞っているだけだ。悪事を働いた輩の、正直は信用ならない、という世間の常識は、この際、傍に置いたらどうか。何しろ、関係者全てが、悪事を働いているのだ。それを覆い隠すために、詭弁を弄する人々の、正直には、事実に沿っているかどうかだけが、問題となる。その意味で、長官などという称号をいただき、政府を代表して話す人に、良心の欠片でもあるのか、怪しいものだ。本当に、全ての悪事を一掃したいなら、自らも含め、白日の下に晒される、覚悟が必要だろう。

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5月26日(金)−伝承

 歴史を受け継ぐ役割の一つに、語り部があるという。文字という媒体が、その役目を果たす筈で、口頭で伝えるのは、手間のかかること、という意見がある一方で、語りで伝えることの意味が、伝えられる。本を開く手間を省き、展示室などと訪ねた際に、気軽に聞けること、だそうだ。
 国内で、最も有名なのは、原爆に関する展示を、行っている施設だろう。他にも、戦争に関するものが多く、戦場となった場所や、多くの焼死者を出した場所でも、そのような人々が活躍する。当然、その場に留まらず、周辺の学校に出かけたり、催しに呼ばれることもあるようだ。学ぶという行為において、本を開くことは、重要な手立てに違いないが、時間を共有する中で、物事に触れることができる、機会を与えるものとして、語りに耳を傾ける、ということも、重要と見做されている。特に、経験者の話には、文字からでは伝わらない、独特の雰囲気を、感じられると言われる。ただ、その後の年数を思えば、いつまでも、可能である筈もなく、徐々に、後進に道を譲る必要が出てくる。代弁者としての、語り部の役割は、正確に伝えることに、違いないが、その対象については、どうだろうか。経験者は、自らの記憶の中で、自分が伝えたいことを、語ってきた訳だが、同じように、代弁者が、自分が伝えたいことを、語ることについては、どうか。丁度、残留孤児の話を、伝えようとして、語り部を養成しようとする、話が伝えられていた。そこでの遣り取りで、語り部達が伝えたい事柄と、残留孤児の思いが、ずれていることが、取り上げられていた。不思議に思ったのは、代弁者達が、何を伝えるべきか、考えようとすることで、経験者の話の一部を、取り上げようとしていたことだ。これでは、肝心な話の、一部にのみ光を当て、事実とは異なることに、なりかねない。語り部の役割とは何か、考えるべきだろう。

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5月25日(木)−動き続ける

 停滞を嫌う声は、相変わらず強いのだが、その理由に関しては、はっきりしない。逆の見方をすれば、いつまでも、成長が続くという考えに、大きな問題があることに、皆気づいているのに、何故、それへの期待が、あるのか、という問いにも、答えが示されることがない。
 変化に目を奪われるだけで、内容に目を向けないのは、何故なのか。こちらについては、簡単に、答えが見つかる。内容の吟味を行うと、自身の評価も明らかとなり、それが、有利に働くより、不利な要素となると、見る人が多いからだ。全体の変化を、論じている間は、自分に目を向けられることはなく、欠点が露呈することもない。それを、そのままにしておけば、居座ることが可能となり、安泰という訳だ。現状維持も、その中で、出されてきた答えであり、そこに、とっぷりと浸かることで、安心感も得られる。成長が見られず、不安に駆られる環境が、でき始めた頃から、こんな思考に走る人が、目立ち始めた。だが、人間は、自分を高める気持ちを、失ってしまっては、何も起きなくなる。現状維持は、何も起こさないこと、という理解もあるが、それは、維持さえも難しくする。努力という言葉が、嫌いならば、使わなければいい。日々、何かに興味を持ち、その対象を広げる。ごく自然に、このようなことが行えた時代と違い、今は、掛け声を出し、気合を込めなければ、そちらへと向かうこともできない。停滞期だから、という面もあるが、手持ちの材料で、全てが片付くような時代には、何かを集めようとする必要もない。だから、別のことに、興味を持つこと自体が、無駄と片付けられる。維持するにしても、そこで均衡を保つ為には、動きを止めてはいけない。こんなことさえ、わからなくなった人々に、期待するのは、難しいだろう。

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5月24日(水)−打開策

 努力は、格好悪く、評価されない、という考えが、巷に溢れると、様々な閉塞感が、強まるようだ。現状打破、などと、訴える声は強いが、その一方で、それに必要となる、地道な活動には、誰も見向きもしない。努力は無駄であり、その成果に、期待できない、という風潮が、社会全体に漂う。
 こうなると、現状維持が精々となり、別の状況を手に入れようとしても、単なる思い付きと、手間をかけない動き、ばかりが提案され、何の変化も起こせない。この悪循環を、打ち破る方法は、ただ、努力を重ねるのみ、という考えは、昔の成功の味を、知る世代に限られており、風船が弾けた後に、社会に進出した世代に、そんな感覚は、欠片もないと言われる。これでは、閉塞感を、消し去ることは不可能で、現状を、楽しむ手立てを、考えた方がいい、となってしまいそうだ。それでいい、というのなら、そのままにすればいい。だが、現状を保つことさえ、この先、難しくなることは、殆ど明白であり、このまま放置することは、決して得策ではない。だとしたら、誰かが、努力をするしかない。では、誰がその任を務めるのか。ここに、実は、大きな問題がありそうだ。努力を忌み嫌い、他者依存を続ける人々を、その気にさせることは、かなりの困難が伴う。だとしたら、外圧による促しではなく、そんな気持ちを、少しでも抱く人々の、一念発起に、期待するしかないだろう。問題は、その為にかかる時間は、強制するのに比べ、遥かに長いものとなるだけに、それまで、皆がじっと待つことができるか、という点にある。どうせ、現状維持に、甘んじるのだから、その位の我慢は、大したことない、という考えもあるのだが。

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5月23日(火)−無駄

 頑張っている人間を見ると、誰もが応援したくなるらしい。古今東西、何の変わりもなく、こんなことが、続けられてきた。ところが、最近の状況は、かなり違ったものに、なりつつある。頑張る、ということ自体、格好悪いとか、無駄に思えるとか、そんな意見を、若者達が発している。
 地道な努力は、他人に評価されるより、自らが意識することの方が、余程重要に思える。他人の目を気にしつつ、頑張る人の多くは、結局、中身が伴わず、その結果を、分析することができない。これでは、無駄と思えるのも、当然だろうが、本人達は、他の手立てを知らないし、知ろうともしない。一方、格好を気にする人々は、派手な振る舞いには、興味を示すものの、地味で目立たぬものには、見向きもしない。結果だけを追い求め、手軽に素早く、手に入るもの以外は、価値のないものと、断じてしまう。様々な分野で、頂点を極めた人々の、話を聞いたとしても、派手な結果に目を奪われ、そこに至る、地道な努力には、興味を抱かない。ここにある問題は、何だろうか。おそらく、到達点が、目の届く範囲にあり、一歩進めば、すぐに手に入るような状況以外に、頑張る気が起きない、という点に、問題があるのではないか。無駄な努力、と括られた話の多くも、それが花開く瞬間を、経験したことのない人には、見えていない事から、起きているように思える。経験値とか、成功体験とか、そんな言葉が、世に溢れるのも、そんな人を対象とした話のようだ。だが、そんな前提ばかりを、強調することで、やる気を失わせていると、何故、皆は気付かないのか。不思議な状況だが、そんな雰囲気を醸し出す、何かしら、特殊な考え方が、一般化されてしまったようだ。頑張れ、という呼びかけも、どこか憚られるものとされ、なるべく使わぬように、という配慮さえ、取り沙汰される。これも、不思議の一つだが、誰も、気付いていないようだ。

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5月22日(月)−現状打破

 順位をつけられることに、反感を抱く人は多いだろう。だが、その一方で、他人に、順位をつけていないだろうか。こんな質問に、正当な理由を、示せる人は殆ど居ない。他からの圧力に対して、過剰な反応を示すのに、他への圧力に対しては、何も感じない。何故なのか。
 兎に角、自己中心的な考え方、が大本にあるのだろう。それに加えて、被害者意識、なるものが、潜んでいるように思える。害を被る、という見方には、力の強弱が、関係すると思える。特に、弱い者が、強い者を、区分けすることに、何の問題も、感じていない、という点が、一番大きな問題と思える。更に、この問題が大きくなるのは、一度固定した順位に、変化が起きない、という点にある。固定観念とか、ステレオタイプとか、そんな形で、表現されるものが、過大に評価されている訳で、そこからの脱却は、ほぼ不可能と受け取られる。だから、他人から、そんな扱いを受けたら、二度と、そこから抜け出せないと考え、窮屈な感覚を抱くのだ。だが、そこから抜け出すのは、他人による評価の為ではなく、自分の努力の有無による、という考えに、何故至らないのだろう。多くの人は、分類されることを嫌う一方、そこに安住する、そんな傾向があるらしい。やっと、そこに至ったのだから、そこに居続けるのが、安心ということになる。安全・安心、という考えが、こんな所にも響く。変化を望めば、それは、上に行くとは限らず、下に落ちることにも、なりかねない。だから、今のままがいい、となるのだろう。こんな考えしか、抱けない人間を、相手にする必要は、ない。そんな連中は、今のままで、腐っていけばいいだけだ。努力の結果が、きちんと反映される社会に、何の問題もない、ということではないか。

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