パンチの独り言

(5月29日〜6月4日)
(平和への不安、自壊、弱虫、生き返る、騙されない、不正直、螺旋)



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6月4日(日)−螺旋

 負の連鎖が止まらない。経済成長が続いていた頃、連鎖は、正の方向に進むものと、決まっていた。人々の心情も、その流れに乗って、明るくなるものと、決まっていた。ところが、成長に陰りが見え始め、抜け駆けが、当然のように行われるようになると、負の方向へと、舵が切られた。
 心情の連鎖は、不安を抱く人々に、急速に広がる。悪い方に考えようとすれば、何事も、悲観的な筋書きを、施すことができる。豊かな時代は、遠い昔となり、貧困が、当たり前のものとなると、その深刻さが、増し続ける話が、過去から未来に渡って、紹介される。将来への不安は、負の連鎖にとって、強力な後押しとなる。その中で、不安を語っておけば、満足が得られる、と考える人々が、巷に溢れるようになる。だが、この図式において、どんな結末が訪れるか、誰も気付かないようだ。不幸な人々を、支える仕組みを、採り入れることが、最善策とばかり、次々と繰り出される、支援の数々に、不幸を掲げる人々は、もっともっととの、声を強める。冷静に考えれば、支援の原資は、という、ごく単純な疑問が、出される筈だが、不安や心配に苛まれ、貧困に喘ぐと自覚する、人々は、全く気付かず、彼らの関心を引こうと、躍起になる政治家達は、欲に駆られて、そんなものに、目を向けられない。ここに起きつつある、負の連鎖に、誰が手をつけるのか。貧困を、我が事のように語る人々は、実は、渦に巻き込まれることなく、安心できる場所で、享楽を貪り、更なる駄賃を求め、他人の災難など、気にかけることもない。国という単位において、こんな連鎖が始まってから、世界中に、暴力が広がり続けている。貧しい国も、豊かな国も、同じように、渦を巻いて、落ちていく。だが、心の問題だけに、連鎖の方向を、変えることは、実は難しくないようだ。

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6月3日(土)−不正直

 正直者の話は、まだ終わっていない。一番の要因は、不正直者が居るからだが、何奴が、嘘を吐いているのか、と考えると、全員が、そうなのでは、と思えてくる。各自それぞれに、自分の都合を振り翳し、合うことと合わないことで、全く違う話を、実しやかに述べている。
 この状況は、場外に居る人々とて、同じことだ。批判を常とする連中も、次々に明らかとなる、傲慢な行為に、苦言を呈するだけでは、物足りず、更に、批判に力を込める。つまり、それ程に、批判を繰り返すのなら、何故、在職中に、動かなかったのか、という点だ。だが、これも、他人事として、扱うことに慣れた、微温湯からの批判に過ぎない。自分が属する組織の腐敗に、声一つ上げなかった人々も、余所事となれば、大手を振って糾弾できる。この使い分けは、自分の怠慢が、露呈するまでは、通用するのだろうが、ある日を境に、それが不可能となる。そんな経過については、やはり、各人が、もっと意識せねばならない、ことなのだろう。権力に与する中で、何が正当と見るかは、勝手な判断による。逆に、権力を批判する人からは、不当だらけとの指摘があるが、どちらも、実は、ご都合主義に陥っているに、過ぎないのではないか。これこそが、茶番の根源であり、こんなことを、何度繰り返しても、結局、何も変わらない。外圧に弱い、国民性からすれば、今回の茶番も、ある意味、外圧を意識させており、ひょっとすると、あの連中全てを、転覆することに、繋がるかもしれない。ガキ大将の、幼稚な力比べで、こんなことを続けるのが、今の政治だとしたら、何と詰まらず、何と馬鹿げたことだろう。だが、それを許しているのは、誰か。自分自身が、考える必要がある。大衆政治の成れの果て、どの国でも、同じことが起こっているが、その源にも、同じものが居座っている。

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6月2日(金)−騙されない

 数字に騙される、という話もあったが、最近は、別の形で騙す話が、山のようにある。例えば、安全や安心を謳い、人々の関心を集めようとするのも、その一つで、根拠の脆弱さに比べ、掛け声の大きさは、異常とも思える。不安や心配を、煽るのも、同じ類の騙しだろう。
 大地震の後の、過剰な予測は、予知が不可能であることの、証のように思えるが、当人達は、大真面目で、解析した結果と主張する。だが、所詮、宝くじ程度の確率でしかなく、沢山買えば、必ず当たるという程度の、無知の暴露のようなものだ。一方、事故後の対策の一つに、原因究明を挙げて、答えが出ない限り、再稼働は認めぬ、との主張も、何の確証もない話を、不安という切り札を掲げ、押し切ろうとする、愚かさの表れに過ぎない。データに基づく解析、と言われるものの多くが、実は、結論ありきの妄言に過ぎず、判断力を備えぬ、愚民達の支持を得て、暴言を正論とするまやかしに、過ぎない。こんな暴挙が、横行するのも、要するに、大衆の無知が最大の問題であり、その一方で、無知な連中が、確かな判断力を備えた人々より、大きな声を上げることができ、それらを応援する、輪をかけた馬鹿者達が、加わることで、世論が構成されるという、近年の社会が抱える、病の重さがある。もし、これらを是正しようとするなら、唯一の可能性は、教育が担うしかない。その為かどうかは、定かではないものの、多くが進む高校で、統計に関する教育が、行われている。だが、現場では、おざなりの教育か、点数を稼ぐための技術の伝授だけで、本質的なことは行われていない。この状況は、これまでにもあり、理念と現実の乖離は、常に問題とされてきた。教育が、机上の空論でしかなく、現実との結び付きを、想起させないものであることが、最大の問題であり、その責任は、現場の人間にある。点数稼ぎは、目に見える形で、効果を上げられるが、真の教育は、将来への備えに過ぎず、目に見えてこないからだろう。にしても、劣った人間を、育て続けるのは、国の借金より、遥かに重大な罪悪ではないか。

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6月1日(木)−生き返る

 地方活性化、について、社会全体が、大いなる誤解を、しているような気がする。要するに、金さえ注ぎ込めば、活性が得られる、という考えだ。成長期に、次の成長の芽生えを、資金注入で、促してきた歴史は、いつまでも、夢物語のように、語られ続けている。
 しかし、成長の鈍化が始まり、それが停滞へと繋がった挙句、下降期へと移った頃から、金で片付く話は、殆ど聞かれず、溝に捨てるようなもの、といった表現が、屡々用いられてきた。だが、学ぶことなく、懲りない人々が、次々に手を出す、活性化という試みには、依然として、資金が重要との考えが、蔓延っている。これ程に、失敗の山が、堆く積まれても、何の知恵も生まれず、新たな試みが、創り出される気配も見えない。何故、同じ過ちを繰り返し続けるのか。答えは、簡単なものだろう。工夫もなく、掛け声ばかりであるだけでなく、補助金などを、貪る人々が、いつまでも居座り続けるからだ。その結果、初めから、諦めが漂うものが、提案されるまでに至り、まるで、袋小路に、迷い込んだような状況となる。地域の元気を、取り戻す為の方策、と言っても、様々なものがあり、それを見出さねば、解決の糸口は、見つかりそうもない。だが、地域の特徴を、見直すこともせず、他で得られた、数少ない成功例の、焼き直しを出し続ける。こんなことで、何ができるのか、という批判も、頑張りに対する冷水と、逆に、攻撃を受ける始末なのだ。努力や頑張りへの、評価を高くおくのは、勝手なことだが、それが成果を、産み出すとは思えぬ。地産地消との結び付きを、引き合いに出す提案も、その「心」を、取り違えたままでは、何も見出せない。他に無いこと、が見つからねば、創り出せばいい。そんな提案が、徐々に、出始めてはいるものの、定着しないのは、手間隙の問題だけでなく、考えることを、忘れているからだろう。資金を得るだけでなく、収益を考えてこそ、活性化に繋がるのではないか。

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5月31日(水)−弱虫

 発言権が与えられず、泣き寝入りを余儀なくされた。そんな時代と違い、今は、誰もが、発言の機会を得られる。平等とか、対等とか、そんな環境が、成立するとの考えも、あるようだが、どうも、根本に変化があるようには、見えない。力の強弱が、依然として存在するからだろう。
 ただ、ここでの強弱は、以前とは、違う使われ方をする。弱い者勝ち、と言われる、状況が生まれており、弱者と認定されることで、力関係の逆転が起きるのだ。何かしらの、被害を受けた人々が、その日を境に、強い発言力を、身に付ける。弱いからこそ、保護が必要との考えが、背景にあるのは、当然なのだろうが、そこから、生まれた力は、時に、濫用されることになる。弱者の保護が、別の被害者を産むことに、違和感を感じない程、今の時代は、人権を、正しく理解し、運用するだけの、知恵や知識が、失われている。その中で、権利主張が、殊更に強調され、そこに生じた歪みが、更なる状況悪化を、招くきっかけを与えている。弱い者だからこそ、権利を与えるべき、という考えには、何の間違いもないのだろうが、与えられた力を、どう使うかに、弱者特有の拘りが、感じられる。それは、相手にされてこなかったことが、一種の僻みや妬みとなり、力を得た途端に、敵を粉砕しようと、徹底的な攻撃を始めるからだ。それまで、被害を訴えようとも、何の支援も得られなかったのが、強力な後ろ盾を得た途端に、全ての主張が、正しいものと見做され、多数の味方を得て、敵を打ち砕く訳だ。結果は、強者と見做された人々が、悪の根源と断じられ、社会から抹殺されたりする。この図式は、果たして、正しいものと言えるだろうか。極端な反応が、続くことで、連鎖は断ち切られず、被害は出続ける。その愚行に、声を上げねば、止めることはできない。

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5月30日(火)−自壊

 論客、という言葉を、聞く機会は、随分減ってしまった。そういう人間が、少なくなったこともあるが、彼らの言葉に、耳を傾ける側が、居なくなったことが、最も大きな要因だろう。こじつけや言い切りに、素直に従い、簡単に騙される人間ばかりが、巷に溢れているからだ。
 他人の言葉に耳を傾け、その真偽を判断し、自らの意見を導き出す。こんな当たり前が、通用しなくなってから、久しい。左側に立つ人間が、議論の為の議論を、好んで操っていた頃、彼らの能力の低下が、見え始めていた。当時、新興宗教の台頭が、社会問題として取り上げられ、後に、テロ集団として、一斉摘発された団体も、議論好きな人々により、その代表者との意見交換が、毎夜の如く、行われていた。通常の感覚からすれば、議論の為の議論とは、以前の意見を顧みることなく、場当たり的なものに、過ぎないと、すぐに判断できるが、その場に居合わせた論客達は、前言に対する記憶もなく、ああ言えば〇〇と、揶揄された人物の、言い訳だらけの言質にも、いとも容易く操られ、団体そのものの存在にさえ、疑問を抱けない程に、マインドコントロール、という玩具に踊らされていた。当時、経済も急激な下りを、経験していたが、言論も、その最中にあった。経済の疲弊は、将来への期待を失わせ、最も重要な、考えることさえ、放棄する人々が、巷に溢れ始めた。既に、今の為体の兆しは、見え始めており、本来なら、手当の必要があったのに、平和の微温湯に浸る人々は、何の危機感も抱かず、結果として、現在の状況がある。政治の劣化は、議論の機会を奪うことで、最高潮に達し、自らの言葉に酔う人々は、まともな仕事をする役割を、放棄してしまった。崩壊は明らかだが、渦中の人々は、権力に酔い痴れていて、気付く気配もない。やはり、また、壊れるしかない、のだろう。

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5月29日(月)−平和への不安

 平和ボケ、と呼ばれる状態に、批判の声があるが、どんな根拠からだろう。ボケ、という状況は、何事につけても、悪い状態を表すもので、だからいけない、というのは、例の如くの、言葉遊びに過ぎない。状態の表現として、使い始めた人間が、それを批判しているだけだからだ。
 これもまた、マッチポンプの一種なのだろう。騙され易い人々は、批判の部分だけ捉え、心配や不安を、口にし始める。だが、このことこそ、平和にどっぷり浸かった、無能な人々の、表現型なのではないか。何もかも、不安要素へと結びつける、馬鹿の一つ覚えでは、まさに、ボケていることの表れで、そこにこそ、真の問題がある。だが、これとても、筋書き通りの展開に過ぎず、全体の不安定に繋がるものとは、とても言えない。にも拘らず、演出家達は、ここぞとばかりに、攻め立てる。現状に安住するのは、将来への不安を大きくするから、変化を促す必要がある、との論法で、私欲を満たす為の、思惑を実現させようとする。状況把握が、不可能となっていると思えるのは、不安の要素として伝えられるものの殆どが、安全や安心に繋がるもので、それに気付かぬままに、将来への不安を口にすることに、傍目から見て、不思議にしか思えない、という指摘が、外から届けられる。様々な犯罪の発生率についても、数字の集め方で、正反対の結論を導くことができるが、出された数字には、客観性が殆ど見えない。そこには、思惑が潜んでおり、筋書き通りに、事を運ぶ為の、都合のいい材料ばかりが、示されている。普段の生活に、不安を抱いていないからこそ、これほどに、捻じ曲げられた話にさえ、いいように乗せられる。能天気とも言えるが、それより、判断力の欠如が、著しいことにこそ、不安を抱くべきではないか。まあ、そんなことにも気付かないから、叫び声を上げているのだろうが。

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