あの手の輩の得意技と言えば、失言への謝罪や前言撤回、だったのだが、今回の件は、全く違う形だろう。所詮、浅知恵の表れに過ぎず、愚かさを露呈しただけのことだが、当人達は、弱みを見せぬように、とばかりに、強気の弁を繰り返す。それが、愚の骨頂と気付かずに。
茶番劇が、こんな展開を見せるとは、誰も予想しなかったのではないか。だからこそ、再調査が求められても、毅然とした態度を続け、無用と断じていた。それが、急転直下、必要性を感じたから、との説明で、混乱の収拾を、図り始めた。だが、依然として、自らの不明を詫びることなく、責任転嫁を繰り返す言動に、既に失われつつあった、信頼は、廃棄処分されてしまう。この機に乗じて、という態度が、露わな政敵達も、ここぞとばかりに、言を強めるけれど、急所を外してばかりでは、何かが起きる、という期待も消し飛ぶ。同じことは、批判を繰り返すマスゴミ達にも、大いに当てはまる。会見で、急所を突く質問を、浴びせている、と報じたいのだろうが、まるで、学校での罵り合いの如く、水準の低い話題ばかりでは、怠け者の言い訳を、許すだけに終わる。長官の、厚顔無恥ぶりには、品格の欠片も、感じられないが、同じ報道の中で、担当大臣の会見については、誰が書いたか分からぬ原稿を、棒読みする姿のみが映され、そのあとに続いた筈の、質疑には、どこもかしこも、触れることさえない。責任転嫁の行き先が、どんな対応をしたかについて、何も触れないのでは、それこそ、国民は、何も知らされない、となる。代表として、質問を浴びせたものの、無能な大臣からは、棒読み原稿以上のものが、引き出せなかった、としたら、その無能ぶりを伝え、任命責任なるものを、引き出せばいい。的外れが、日常となった、平和な時代には、こんな社会が、安全安心に繋がる、とでも言うのだろうか。
破壊者が、跋扈する時代である。恐怖を植え付け、暴力を撒き散らす、集団は、敵対勢力を、破壊することを目的とする。暴力に、対抗することを目的として、行われつつある法整備は、本来の目的とは、異なる適用を、危ぶむ声が高まり、強行採決しか、道がないように見える。
恐怖を煽る暴力に、対抗する為との目的が、法律によって、達成できるかは、確実とは言えない中で、単に、気に入らない人々、反抗的な勢力、それらの撲滅に、これが使われるのでは、という懸念は、戦前の政治という、歴史が物語るものとして、掲げられている。これもまた、確実とは言えない訳で、互いに、可能性を示し、ただ一つの結論を、導き出そうと、躍起になっている。だが、破壊を食い止める、と叫びながら、その実、破壊を繰り返す人々には、あまり目が向けられていないのではないか。政治は、国を治める為の手法だが、最近の傾向には、二者択一を導入し、白黒を明確にすることで、対抗勢力を、打ち砕こうとするものがある。海の向こうの、新しい大統領は、破壊を繰り返そうとする中、敵が増えるばかりで、反撃に躍起となるが、そろそろ自壊の時が、迫りつつある。こちら側でも、ある首長は、既に決まったことに、異論を唱えることで、人気取りに耽溺し、将来の計画を、悉く破壊しつつある。仇のように、扱われた元首長が、本に著したように、「否」と言えることが、人気の根源となるのだから、皮肉なものだ。だが、停滞した計画は、多くが時間内に達成できないことが、明らかとなりつつある。では、国はどうかと見れば、こちらも、思慮のない言動が、繰り返され、海の向こうと同じように、自壊へと向かっている。政自体が、この手法を使うことで、同じ運命を迎えることは、これらの事例を眺めずとも、明白なのだが、渦中の人々は、気付かぬ程に愚かなのか、はたまた、気付いた上で、暴挙を断行しようとしているのか。
人前で話すことに、困難を感じる人は、多いだろう。普段、少人数で、談笑するのであれば、何の問題もないのに、多くの人の前で、自分だけが話す機会を、与えられた途端に、心穏やかにはいられない、と感じる訳だ。何故、一人を相手にする時と、大勢が相手の時で、違うのか。
緊張感の違い、であることに、間違いはないだろうが、何が、緊張を招き寄せるのか。それを、説明することは、難しいようだ。一対一でも、相手によって、緊張感が異なる場合がある。目上の人間だからか、恐怖感を抱く相手だからか、定かではない。確かに、相手によるとはいえ、自分の心の中の動きが、多くを決めている。それと同様に、大勢の前での話に、困難を感じるのも、本人の心の問題が、第一となるだろう。それが高じた時、落ち着きを失い、話すべきことが浮かばず、立ち往生に陥る、という場合もある。昔は、そんな人の一部は、薬の助けを受け、精神の安定を手に入れていた。だが、今は、そんな話は、とんと聞かない。何が変わったのか、これもまた、定かではないが、機会を得ることが、容易になったことが、一因かもしれない。発表の機会を、与えるような教育に、注目が集まり、それが、現場で実行される。その経験は、大きな影響を及ぼし、準備万端で臨むことで、無難にこなすことができる。経験こそが、一番の薬、と言えるのかもしれない。ただ、無闇に経験をさせるだけでは、上達は望めない。褒めるべきところに、注目する人が多いが、現実には、足らないところを、的確に指摘することが、上を目指す人にとって、一番良い薬となる。苦いことも多いが、良薬とは、そんなものと思えば、なんとか飲み込めるものだ。評価とは、良い方にも、悪い方にも、出せるものであり、一方だけでは、足りないものとなる。ただ、どちらか一つとなれば、厳しい意見が、より重要だろう。
巷では、自己評価が重要、と言われている。自らの実力を意識し、それを高める努力をすれば、能力の向上が、実現できる、という筋書きのようだが、現実は、正反対へと向かっている。力が及ばずとも、将来への期待から、向上は、十分実現可能、と見做す人ばかりが、目立つのだ。
一言で表せば、過大評価、に過ぎないものだが、本来の筋書きと比べると、あらゆる点で、逸脱している。実力を見誤るばかりか、その後の展開に、必要となるべき努力を、投げ出した挙句に、できる筈、の一言で、全てが済まされる。もっと現実的な見方を、という考えが、現場から出され、その為に必要な道具の一つとして、ポートフォリオ、なるものが、提案されている。投資に通じた人にとって、そんなものが、自分を高める為に、どんな役に立つのか、と感じられるのだろうが、書類を整理し、順序よく並べるという考えが、実力を、客観的に、冷静に分析し、そこに不足するものを、確実に意識させ、その埋め合わせに、努める、という図式が完成するらしい。投資においては、分散を基本とし、その間の関係を、常に意識させる為に、整理する道具が必要となり、それが、ポートフォリオ、と呼ばれており、教育の現場でも、同じ観点と思われる見方から、こんな道具の導入が図られている。無意識に、自らのことを、楽観的にしか見られない人にとって、記録を事細かにつければ、将来への悲観より、現実への的確な判断に、集中できるという訳だ。特に、怠け癖のある人間に、こういう習慣をつけさせれば、努力へと、意識が向かうとの期待もあるが、現場は、かなりの混乱に陥っている。将来への不安より、現実への取り組みを優先、との話も、評価が進むにつれて、能力不足を、意識せざるを得ない状況に、追い込まれるのでは、やはり、自信喪失が始まり、逃避へと向かわせるからだろう。
支持率が、高いのだから、心配することはない。とでも思っているのか、最近の言動には、信頼を失うものが、続出しているが、当人達は、その方針を、改める気は毛頭ないらしい。支持さえあれば、嘘も、不正も、気にする必要はない。まさか、そこまで傲慢に、と思うのだが。
気が弱い、とされてきた、国民性の中で、こんな態度には、異様な反応が、示されているが、独裁者とも見做すべき、あの人々には、そんな正直な反応は、目に入らないらしい。事実と異なる、と伝えられれば、当然、その検証を、行うべきと考えるが、その気配は、微塵も感じられない。なぜ、これ程までに、自信を漲らせているのか、という疑問も、別の見方をすれば、弱味を見せない為に、断固拒否の態度を、保ち続けている、となる。破綻を来し、破滅が訪れるまでは、強気を崩さない、ということだが、あの宰相には、確か、前科があったのではないか。あの時も、過剰な自信を誇示し、その挙句に、意味不明な言動が続き、側近達は、挙って逃げ出した。その結果、母体が、苦渋の決断を下し、退陣を迫った。あの時も、自信という観点からは、揺るがないもの、との観測があった。そっくり、とは言わないまでも、よく似た経緯を辿りつつあり、側近の言動も、全面的な支援に走るなど、ある面からは、酷似していると思える。あの時は、その側近は、責任回避とばかり、逃げ出したが、今回は、単なる支援というより、自らも、権力の座に溺れ、まともな判断ができないばかりか、個人攻撃に精を上げるなど、人間性をも、否定されかねない、事態となりつつある。所詮、下賤な人間なのだから、と言ってしまえば、その通りなのだろう。元々、品格など、欠片もない連中が、永田町に巣食う状況に、国の将来を危ぶむ声もあるが、その根源は、大衆の無知があることに、目を向けねばならない。
箍が外れたのは、平和という微温湯に浸かって、緩んだせいだと考える人が居る。確かに、その面がない訳ではない。緊張感を持たずとも、日々の生活に困ることはなく、豊かさを享受できる。その中で、もっとという欲求から、多くをサービスにし、タダで手に入るものとする。
教育をはじめ、多くの事柄に、無料化が施されつつあるが、限りない欲望は、それでは飽き足らず、生活に必要となる資金をも、支給されることを、要求し始めている。緩んだ心からは、何の成果も出されず、ただ溝に捨てるだけの、支援の提案が、次々と繰り出される。施されることに、慣れきった愚かで、さもしい心からは、何かが生まれる筈もなく、ただ、社会のお荷物になり、そのまま朽ちていく。これ程明白な事でも、貧困という括りを当てはめれば、それだけで、絶対的な権利が、手に入ることになる。これほどに魅力的な話に、厚かましい人々が、黙っている筈もない。荷物と呼ばれようとも、享楽に浸れるならば、それで良し、となる楽観的な考えを持つ人は、何も考えずに、飛び付くのが当然だ。その結果、一方的に搾取される人々と、一方的に略奪を繰り返す人々が、社会の中で、いがみ合うことになる。この歪みを、深刻に考えない状況では、恨み辛みが、根深く残ることになり、ついには、衝突が起きるに違いない。そうなってから、何が悪かったのかを、議論したとしても、時既に遅し、となるだけだろう。だが、呆けた人々には、こんな問題が、指摘されたとしても、気付かぬふりをし続ける。こうなると、誰にも止められない、となるのだろうか。そう考えるのは、各人の自由だが、そうは考えたくない、と思う人間がここに居る。無駄な抵抗だと言われても、それを止めたら、自分の存在価値がない、とばかりに。
教育の無償化、始めは、当然の如く、国民全員が受けるべき、義務教育に限られた話だった。それが、進学率の上昇から、高校教育に目が向けられ、ついには、高等教育、つまり最高学府たる、大学にまで、魔の手が及ぼうとしている。誰もが同じ機会を、という殺し文句を添えて。
その理由は、予想通りとは言え、希薄な根拠と呼ぶべきものだ。つまり、皆が進むのだから、義務教育と同じ、という論法が、高校の無償化に、当てはめられた。これに納得するのは、人それぞれに、自由なのだが、その為に必要となる、財源は何処に、という疑問が、出されないまま、という点について、異論は少ない。ただより高いものは、などと批判されることの多くは、こういう歪みの果てに、実現された無料の仕組みだ。その場で必要となるものは、何もないことに、違和感を抱かぬ人の多くは、積極性や熱意や努力などといった、自分の中から出すべきものまで、他から与えられるのが、当然と考え、その場に進むこと以外に、何もしないまま、無為な時間を過ごす。制度を設けたきっかけは、やる気はあるが、金がない、という事情だった筈が、いつの間にか、「何もない」という人で、現場は溢れ返るのだ。まだ、その仕組みの導入は道半ばであり、効果の検証が、全く行われていないのに、次の標的は、とばかりに、大学に手が伸び始めている。彼らの根拠は、全く同じ、機会均等と、貧困の問題、その上に、熱意が載せられる。だが、現状を見渡せば、遊びに行くとしか、考えずに進学する人々、学ぶとは何か、を知らずに、毎日、習慣的に通学する、大学生の姿が、入学の難易に関わらず、目立っていると伝えられる。特に、難関校程、与えられた課題なら、無難にこなせるが、課題を見つけることが、できないと言われる。こんな現状を、改善することなく、誰もが、入れる環境を整えて、何を起こしたいのか。おそらく、何の目的もなく、今目の前の問題に、取り組んでいると、言うだけだろう。