パンチの独り言

(6月12日〜6月18日)
(破滅への道、敗着、頑固、亡霊共、御用学者、権威失墜、失敗を恐れる)



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6月18日(日)−失敗を恐れる

 次代を担う人材、その育成に、大きな責任を負っているのが、教育界と言われる。責任があるのだから、強く働き掛け、道筋を照らす必要がある。との意見がある一方、各人の才能を伸ばすのは、働き掛けよりも、見守りが重要で、余計な手出しや口出しは、無用との意見がある。
 そんな中、現場は混乱し、様々な方策が、試され続けている。個性を尊重する、という考えからすれば、個々に、違った対応が必要となるが、集団教育を、基本とする現場では、多種多様な手立てを、講じるだけの時間も、能力も、備わっていない。だから、という訳でもないだろうが、成功事例ばかりが、注目を浴びており、多くの失敗は、見て見ぬ振りをされる。結果、改善が行われることは、殆どないのではないか。無視すれば、気にする必要もなく、余計な仕事を、背負い込むこともない。従前通りに、成功事例を踏襲し、同じことを繰り返す。新しいことを、試してみると、成功も失敗も、どちらにも転がるから、時には、一つの成功も、成し得ないこともある。勝負に出るより、確実な成果を目指した方が、遥かに確率が高い、となれば、誰もが、そのままを選ぶだろう。その結果、今まで同様で、成功した若者達は、次の道を見つけられるが、そうでない者は、行き先を、見つけられないままに、次の段階を迎える。それでも、何度も試していれば、個人としての成功を、手に入れられるかもしれない。そんな思いで、次の機会を狙う訳だ。ただ、このやり方が、うまく行く確率は、それほど高くはない。要するに、成功の機会を、毎度逃さず、その積み重ねを、心掛けることこそが、人生の成功に、繋がるということだろう。簡単に見えることだが、実は、それほどではない。失敗を忌み嫌う風潮は、こんなところから、出てきているのだろう。だが、それが、全体の歪みを、強めているのだ。

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6月17日(土)−権威失墜

 伏魔殿と呼ばれたり、官僚政治として、役人どもが、国の盛衰を操ると、陰口を叩かれたり、あの場所は、魔物が棲むとでも、言われかねない程に、怪しげな力が働いていた。政を行うのは、自分達だとばかり、権力を得ようとする人々は、力を奪い取ろうと躍起になっていた。
 このところ、傲慢な働き掛けが、批判の的となっているが、それ以前に、件の人々にとって、話題となっていたのは、人事権だと言われる。役人が、力を保持し続ける為に、不可欠なのは、後継者選びであり、申し送りを、維持することこそが、国を治める為に、必要となる力を保ち続けることとなった。権力に憧れる人々にとって、官僚は、その為の第一歩となると、思われた時代もあったが、それを経て、政治家となる道が、危うくなり始めた頃から、世襲制の方が、遥かに手っ取り早いとして、跡を継ぐ道が、選ばれるようになると、階段を上るようなやり方では、政には、参加できないことが、明らかになっていた。こうなると、官僚は、自分達の主義主張を、受け入れない頑固な組織、と見做されるようになり、排除の対象となる。そこで、愚かな政治家達が選んだ方法は、人事権の剥奪、という道だった。従順な下僕であれば、それで十分、と断じられた人々は、仕事への興味も意欲も、失い始め、結果として、国の行く末が、案じられる程に、なりつつある。その中で、反旗を翻した、と称される人々を、如何に処分しようかと、躍起になる政治家達に、どんな天罰が落とされるのか。徐々に、その傲慢さに、批判の声が集まり始め、独裁的な考えに、批判の矢が向けられている。組織が、その体を保つ為に、必要となる仕組みを、自らの欲望を満たす為に、破壊した結果が、こんな結果を産みつつある。だが、愚かな人々は、更なる愚行を、目論見始めているのではないか。もう、地に堕ちるしかない、ようだ。

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6月16日(金)−御用学者

 昨日は、学者と書いてしまったが、外から見れば、大学という組織に巣食う、詐欺師の一種に過ぎず、正しくは、似非学者と書くべきだった。あの分野の研究者は、その殆どが、独自の研究を行うのではなく、外国の著名な学者の、学説の解説を、実しやかに述べるだけなのだ。
 彼らは、本質を見抜く力もなく、単に、理解できる部分のみを、全てであるが如くに、紹介する。理解できたと、思っている部分も、実は、不十分に過ぎず、議論を交わせる程の、水準にさえ、達していない。それでも、俄か知識が、通用するから、経済界とは、与し易い世界だ。収益追求という、目の前の問題に関しては、異常な程の執念を、見せる人々が、理論の応用に関しては、虚ろな目を見せる。結局、知識だけでなく、思考力さえも、不足している連中を、騙すのは、簡単なのだろう。政治家が、私腹を肥やすことに、躍起になり始めた頃から、財界との付き合いも、密接となり、そこに、こんな似非学者が、付け入る隙が、できたのかもしれない。中身のない人間でも、口先鋭く振る舞えば、信頼に値すると、騙される人も増える。そこから、有名大学に籍を置き、学究に励むふりをしながら、次々に、自らの利益追求へと走る。互いの利益に、なると見れば、最高学府と雖も、恥も外聞もない。私立であれば、お役所への覚え目出度ければ、なお一層のことだ。あの有名私立も、定年が早いから、次の機会を得られ、別の場所に、いつの間にか、動いたらしい。そこは、例のリーマンショック時に、資産を激減させた、学校法人であり、あちらにとれば、儲け話の一つでも、手に入るとの見込みも、あったに違いない。相互利益、と言えば、聞こえがいいが、実際には、法人と個人で、何かを貪るだけのこと、下賤な人々が、仏教を基礎とする大学にまで、蠢いている。市場原理は、所詮、机上の空論なのに。

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6月15日(木)−亡霊共

 長く続いた安定は、安心を手に入れる為に、重要なものだが、逆の立場にある人々には、高い障壁を感じさせるものとなる。種々の束縛により、新たな試みは、厳しい制限を受け、その結果、提案の核心をなす、重要な理念を、曲げてしまう程となる。結果、元も子もなくなる訳だ。
 本来ならば、制限をかけている法律や条例などを、一つ一つ改正することで、自由な提案を、実現できる環境を整えるべきだが、長年引き継がれたものだけに、簡単には、改められない。そこで、閉塞感から脱する為には、画期的な打開策が必要と、それまでに築かれた、制限の数々を、取り払う例外として、特区なるものがぶち上げられた。旧来の組織を、破壊することを、掛け声の一つとして、訴えてきた政権にとっては、まさに、その考えを地で行くものとして、政策の最重要課題として、掲げられていた。その上、経済改革により、旧来の仕組みを壊すことを、持論としていた学者が、重用されたことが、拍車をかける結果となり、宰相と学者の組み合わせは、改革の名の下に、破壊を繰り返していた。少しでも、記憶が残っているなら、今回の騒動が、極みに達しつつある中で、例の学者が、委員会の中心として、声を上げたのを見て、また、あいつが貪っていたのか、と思っただろう。現政権は、様々な改革を断行したと、傲慢とも思える程の、自信を見せているが、所詮、あの壊し屋達の、極端な政策を、引き継いでいるにすぎない。特区もそうだし、骨太もそうだろう。ここにきて、魑魅魍魎とも思える、亡霊の登場が、それらのことを、鮮明にしている。だが、微温湯に浸かる、愚民達には、そんな思惑は見えず、ただの騒動にしか、見えていない。そろそろ、転覆という、自らこける姿が、見え隠れしているが、どんな展開が起きるか、想定外などと言うようでは、やはり、愚かな人々にしかならない。

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6月14日(水)−頑固

 音楽や小説に、「癒し」という表現が、付け加えられた時、違和感を覚えた人は、少なかったようだ。同じような違和感は、最近、犯罪や事故の被害者に、「寄り添う」という表現にも、感じられると思うのだが、こちらも、少数派のようだ。平和や安全・安心が、当然の中で、弱者への配慮なのだろうか。
 5年程経ち、皆の記憶から、悲惨な状況が、薄れ始めたが、それでも、事ある毎に、それを呼び覚まそうと、映像が繰り返し流される。大震災も大津波も、そして、大事故についても、それを流しさえすれば、皆の記憶が、失われない、という筋書きなのだ。だが、その一方で、あの混乱の最中、正しい判断ができず、大衆を煽り続けた人々は、依然として、画面の中で、したり顔を続けている。年の功とばかり、見識のある所を、見せようとするが、あの時の、無知と無理解には、見識の欠片もなかったことに、本人は、一度も気付いていないようだ。あれも、無知蒙昧の大衆の側に、立った上でのこと、との解釈もできるが、その割に、見識を押し付ける態度に、虫酸が走る、と思う人も多い。直後に、独り言で指摘したが、放射線の性質に関する解説に、一瞥もくれない態度を、画面の中で示したのは、理解しようとしない、頑なさの表れだったと思う。頑固爺いが、見識を翳すのに、若者が反発したと、最近報道されたが、その原因は、若年層の支持率の高さ、だったようだ。反発を常とする年代が、いとも容易く、操られているとの図式は、将来への不安が、今の安定を求めるから、との解釈ができるそうだが、変化を求めずして、未来はない、とばかりに、批判の言葉が、頑固爺いから飛んだ。それに対して、指図は受けぬとの反発が、あったという報道だが、こちらも、ある意味、頑なな若者、頑固なガキの戯言に見える。「癒し」や「寄り添い」に見られるように、味方が居ることが、彼らの拠り所だが、所詮、世の中は、それ程に甘くはない。騙されているだけ、と言われても、聞く耳を持たないのは、ただの頑固に過ぎず、自ら、将来の芽を摘むだけで、ろくなことはない。老い先短い爺いと、同じことをして、得になる筈もない。

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6月13日(火)−敗着

 情報社会だから、如何に、有用な情報を手に入れるかが、何事にも、肝心となると言われる。その一方で、整備された仕組みには、情報の真偽や、有用性を、吟味する手立てが、講じられていない。将来的には、そんなことも、可能になると言われるが、現状は、玉石混淆なのだ。
 吟味力を、他に求めることが、技術発展に繋がる、などとする評論も、聞こえてくるが、各自にとっては、それを待つうちに、ガセネタに振り回され、被害を受ければ、損失を被ることとなる。確かに、膨大な情報を、掻き集めて、そこから、真偽を判断する仕組みを、構築することは、現在の技術を持ってすれば、不可能とはならないだろう。一つだけ、不足する点があるとすれば、判断を下すのに、十分な量の情報を、どう集めるかにある。あらゆる事例を、網羅するようなもの、と書くのは、簡単なことだが、それを達成する為の、収集力は、おそらく、どの検索エンジンの、膨大なデータにおいても、未だに、不足しているだろう。では、どうしたら良いのか。別の意味で、簡単で手近なものだが、自身の能力を高めることに、最善の方策があると言える。何度も取り上げているように、吟味力を備えるかどうかが、情報社会で、賢く堅実に生きる為に、必要不可欠なことなのだ。それを備えた上で、大量に流れる情報の中から、役立つものを引き出し、それを応用することで、他人とは異なる、的確な判断を下す。できない人には、手の届かない、高嶺の花に映るが、できる人には、手軽な武器として、日常的に利用でき、それにより、被害を減らすことが、可能となる。この違いは、非常に大きいように見えるが、実際には、手近なところから始め、徐々に、充実させることで、意外な程簡単に、手に入るものだ。手を付けずに、難しいと考える、現代社会の若者達には、そんなものを手に入れるより、種々雑多な情報を、入手する手段の方が、遥かに重要と思えるようだが、その間違いに気付かねば、敗北への道を、歩むことになりかねない。

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6月12日(月)−破滅への道

 誰もが、自分の意見を、通そうとする。議論の勝敗だけでなく、将来の計画にも、意見が酌まれれば、それで良し、とする考えもある。逆に言えば、自説を押し通す為に、様々な努力を重ね、その中には、正攻法から来るものもあれば、搦め手から攻めるものもあるのだ。
 お上に従うことが、当たり前だった時代とは異なり、今は、人それぞれの意見が、通る可能性のある時代ではある。だからこそ、皆挙って、意見の表明をし、賛同者を募る。これは、政治の基本なのだろうが、表明と賛同、という形を取る場合、かなり、基本を逸脱したものが、世の流れを決めているように見える。お上とは言わぬまでも、見識ある人々が、政に当たり、民衆がそれに、従うのが、これまでのやり方だったが、世界中で、今流行するものは、民衆が先に立ち、その考えを実現する為だけに、代表者として送られるのが、普通になっているようだ。その中で、迎合主義と呼ばれるものが、恰も、最善の策の如く、流布されている。その場の盛り上がりは、確かに、期待を抱かせる程だったが、その後の混乱は、内容の希薄さと、無軌道な考え方が、主体となっていることを、気付かせ始めている。ただ、愚衆にとって、魅力が減るどころか、更なる極端こそが、改革に必要との思い込みは、依然として、強まっているようだ。この中では、失敗に対する反省は、起こる筈もなく、物足りなさばかりに、注目が集まる。欲望が先行するだけに、冷静な判断は不可能であり、膨れ始めた欲を、抑える手立てなど、見いだせそうにもない。それどころか、その不足こそが、元凶であるとばかりに、無理を通すことこそが、実現への必勝法との見方までする。政治が、自らの主体性を失った時、次に来るのは、混乱でしかなく、その先には、紛争が起きるのだろう。誰がそれを止めるのか、誰か知っているのだろうか。

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