若者達の、常識の無さを、憂う声は、絶えることが無い。確かに、非常識を気にかけず、危うさを露呈しても、開き直る人間に、将来は無さそうに見える。だが、こちら側は、大丈夫だろうか。常識と称して、身勝手な論理を、他人に押し付け、私利私欲を求める、大の大人になっていないか。
常識とは、大多数の共通認識、といったものだから、古今東西、変わらぬものとはならない。その時代ごと、その土地ごとに、様々に変化するもので、戦前と戦後の比較などに、現れているように、数日の違いで、全く異なる考えが、この国を覆うことになった。これ程に劇的ではないものの、その後も、多くの変化が起き、常識は書き換えられている。それが、戦争や大災害などをきっかけに、大きく変わる訳だが、旧来の常識が残る中では、混乱が起きる。事故を発端とした汚染に、町ごとの避難を強いられた人々が、その制限の解除から、帰還し始めたことが、伝えられているが、その進捗は、予想以上に鈍いものとなっている。植え付けられた恐怖からすれば、躊躇いを覚えるのは、当然のことと思えるが、その一方で、不思議な常識が、その根底に横たわることに、何故という思いが過る。安全・安心の掛け声は、そろそろ、疑いが挟まれ、その要求の正当性は、徐々に、小さくなり始めた。それでも、将来への不安は、常に取り上げられ、その払拭に、様々な努力が重ねられる。だが、と思うのは、将来への保証は、いつから、常識となったのだろうか、という点だ。明日のことは分からない、という考えより、明日も今日と同じ、という保証が、常識となったようだ。この下らない考えに、取り憑かれた人々が、常識として、要求を繰り返す。ここでは、帰還は、危険なものとして、扱われるが、今の危険が、取り除けたからこその決定、ではないのか。また、確率的に考えれば、他の危険との差が、殆ど無いからこその決定、だったのではないか。そう考えると、無い物ねだりに似た、心情の動きが、この問題を難しくしていると思う。
誰もが、発言する機会を、得られる。掲示板、なるものが登場して、そこでの議論が、沸騰し始めた頃、地位にも学歴にも関係なく、意見を交換できる場が、設けられたと言われた。今は、少し事情が異なり、意見交換より、持論を展開することが優先される、ブログなるものが主体となる。
読むことにも、書くことにも、時間をかけたくない人々は、短文で表現する場に、群がっているようだが、ブログは、依然として、人気があるようだ。だが、誰もが、発言できるものの、多くの耳目を、集める為には、別の要素が、必要となる。ブロガーなる言葉が、市民権を得たのも、人気の指標として、使われ始めたからだが、市井の人々でも、人気を勝ち取れる、と紹介されている。でも、やはり、と思うのは、元々、他人の関心を集められる人の方が、常に、人気を博すことができる。それに加え、更なる要素が重なれば、読み手の数は、莫大なものとなる。有名人が、病に襲われ、余命短いとも伝えられれば、関心が集まるのも当然だが、その人物が、自らの気持ちなどを、表明する場となれば、一層のこととなるのだろう。同じ病に悩む人が、数多く居ることも、更に大きな影響を与えた。元々、病魔と戦う姿が、様々な形で、情報交換されていたことも、ブログの人気が、拡大した要因だろう。そんな背景もあり、また、人気が沸騰したこともあり、影響を与えた人間として、評価を受けていたようだが、その訃報が届いた。冷水をかけるつもりも、異論を唱えるつもりもないが、今の騒動に、違和感を覚えているのは、事実だ。同じ思いを抱く人が、どれ程居るかは、知る由もないが、残された家族の会見や、ブログに記された、本人の写真が、紹介されるのを見て、不快の念が、芽生える気配を感じる。良悪の問題ではなく、単なる感想だが、人の死は、もっと厳粛に、捉えてはどうか、と。
解決より、発見を、という大号令は、虚しい結果と、なってしまった。同じことを、繰り返すだけでは、改革は見込めないと、新たな展開を担う、人材の育成に、課題の答えを出す能力より、課題そのものを見出す能力を、優先させようとする動きは、先行きが見えないまま、頓挫している。
足りない点を考えれば、答え自体は、的外れでもなかっただろう。だが、それを求める為の手段は、彼らが考える程、身近にはなかった、のではないか。育てる為に必要なことは、手っ取り早い方法を、教え込むのではなく、各自が、自分なりの手立てを、見出せるように、仕向けることにある。その為には、ある程度の時間を、設けることが不可欠で、道筋を照らすことで、行き先を、見つけられるようにする。これは、武器を直接手渡すより、遥かに大きな手間が要り、我慢の一種も、屡々必要となる。だが、必要に迫られている人々には、そんな余裕はなく、発見できる資質を、教え込むことに、全力を尽くしているようだ。元々、答えのある問題を、繰り返し解くことで、解決能力を、養ってきた現場に、突然、見出すための能力が、要求された時、これまで同様に、反復を基本とした、能力育成法が、実践されてきた。しかし、そこに見え始めたことは、見つける能力そのものを、鍛える方法は、ないのではないか、という懸念だろう。結果として、他に手段がないから、依然として、同じことが繰り返されるが、何の成果も得られず、焦燥感や落胆が、広がり続けている。新たな課題が、与えられてから、その解決に向けて、様々な工夫がなされた、と伝えられるが、失敗の連続に、終わっているようだ。逆に、以前のやり方で、少数とはいえ、それなりの成果があったことを、思い出せば、新手法が、実際には、無駄だったと見るべきではないか。解決も発見も、ある道筋の上にある過程の一つに過ぎず、そこに到達できるのは、ほんの一部に限られる、と見れば、現場の混乱は、何となく理解できそうだ。
多分、視点が違うと思うが、最近の文書に関する、遣り取りに、強い怒りを、覚えている。嘘を吐いたとか、便宜を図ったとか、政治家に有り勝ちな、愚かな行為に対する、言い訳じみた正当化に、多くの人々は、腹を立てて、糾弾している。だが、問題は、そこだけではない。
守秘義務違反、として、恐喝にも似た行為に、走った副大臣は、いじめなどの差別の、被害者として名を馳せた人物で、脅されることの、恐怖感に関して、知り尽くしている、と見做せないか。そうだとしたら、権力者として、弱者を、どう扱えば、服従させられるかも、知り尽くした上での、行為となる。出向者が、元の職場に、注進したと、罵った責任大臣は、その不明を、当事者に詫びたと、得意の、前言撤回を行い、それを、記者達に伝えていたが、彼の罪は、本人に詫びることで、消えるものではない。権力を握る人間として、部下の一人を侮蔑し、国民に、ある程度、特定可能な形で、公言した訳で、それが間違いだったというなら、そのこと自体を、撤回する必要があり、自らの不明を、侮蔑の時と同じくらいに、断罪せねばならない。それが、権力者たる態度であり、力を握るからこそ、犯しかねない罪を、如何に、未然に防ぐかが、大切となる。軽率な発言から、部下を含め、他人の将来を左右することは、権力に溺れる人間には、えも言われぬ程に、魅力的な力の行使、と映るに違いない。しかし、そんな人間に、あの座に留まる資格は、全くない。傲慢な態度、までなら許せるが、それが、暴言へと繋がり、首を挿げ替えたり、葬り去るなどという、暴挙へと結んでは、秩序を守ることは、不可能となる。民主主義などと、恥知らずな発言を繰り返し、口先だけの反省で、全てが片付くと思うようでは、権力の座に、居座ることなど、できない。
つける薬がない状態、とでも言うのだろうか。多くのことが、誤解に基づき、大騒動へと繋がる。人工知能は、人間の尊厳を脅かすかもしれないが、そんなことには触れもせず、夢と希望に満ち満ちた話が、期待と共に伝えられる。一方、大事故や大震災の話も、正しい情報が除かれ、不安を煽るものとなる。
どちらにしても、正確な情報が、伝わることは殆どない。多くは、情報源が、諸悪の根源とされ、報道関係は、自らの責任を、問うことさえ忘れている。確率の話が、伝わりにくいのは、不安や心配しか、口にしない人々の様子を、少し考えれば理解できる。しかし、消せないからと言って、自信たっぷりに、悲惨な状況を伝えることに、何の正当性もない。地震の話は、情報源の責任放棄に、最大の問題があるとはいえ、それを流す人々に、何の責任もない、とは言えない。解析結果を、正しく伝えることだけでなく、その表現方法を、正しく選ばねば、誤解を招くのは、あまりに簡単に起きる。先日の、原子力施設で起きた事故に関しても、確かに、肝心の人々の、軽率な発表内容に、問題があったのは事実だが、だからと言って、あの騒ぎように、問題がなかったわけではない。プルトニウムは、地上最強の毒、などと、非常識なことを並べる、無知な人はさておき、今回の事故は、当初、肺への内部被曝が伝えられた。原子力データセンターという組織を起源とする機構のウェブサイトには、この放射性物質の危険性の説明が、詳しく載っているが、そこにある表2と、報道にあった、検出された放射能を比較すると、およそ10μgのプルトニウム239が、検出されたことになる。量の問題でないとはいえ、飛び散った跡が、写真で紹介されていたことから、どんなに凄いことか、と思わされたが、あまりに微量なことで、想像がつかない。それは誤報と、後になって伝えられたが、今度は、尿に排泄された、とある。微量とあるが、ある全国紙によれば、検出限界値を上回る程度、とのことだ。だが、これは、1日分の尿から、先ほどの量の7桁低い量、つまり、1pg(1gの一兆分の一)となる。それほど恐ろしい物質であることに、異論を唱えるつもりはないが、何をどうしたいのか、そちらの方が、さっぱりわからない。
人工知能、Artificial Intelligence (AI)、という言葉を、最近よく耳にする。だが、これが世に広がり始めたのは、四半世紀前であり、当時は、計算能力の向上が、世界の問題を解決する、との見込みがなされていた。そこでは、速度の問題が、重視されていたが、今はどうか。
人間の営みを、計算機に置き換えることは、開発当初から、目標とされてきたが、遠く及ばぬ状況に、期待は裏切られ続けていた。第五世代、と呼ばれた計算機開発は、莫大な予算がついたにも関わらず、何の成果も上げられなかった、と厳しい評価を受けた。今から見れば、当時の先見性が、皆の理解を超えており、その途上にある技術は、無用の長物としか、映らなかったのだろう。当時に芽生えたもので、今、実現しているものは、多くあるようだが、原型は、似ても似つかぬものに過ぎず、達成度も、ほぼゼロに近いから、評価される筈がない。それが、不可能と呼ばれた、囲碁や将棋という、盤面ゲームで、最強者を打ち負かすなど、とんでもない水準に達した、と伝えられ、人々の理解は、突然、深まったように見える。だが、そこから生まれた、期待の数々は、ほぼ全てが、誤解や無理解に基づくもので、早晩、期待が裏切られ、皆の落胆の声が、届くに違いない。これは、見込みの甘さや、理解力の無さが、原因であり、物事の本質を見抜けず、ただ、騒ぎの中に加わろうとする、無知な人々の、興奮に過ぎない。確かに、不可能と思われたことが、実現したのだから、次も、と願う気持ちも、解らなくはない。だが、実現できたのは、限られた情報の中から、如何に素早く、答えを導くか、ということに過ぎず、新たな期待が、盤面と呼ばれる、有限の世界ではなく、無限に広がる世界での、判断を求めるもの、であることに気づいていない。これもまた、宇宙全体と見れば、有限に過ぎないが、盤面の要素とは、何桁も異なる対象であり、これまでの進歩と比べても、簡単に到達できるとは思えない。そんなことを、性懲りも無く、期待するのは、裏切りを約束させるようなものではないか。
高かった筈の支持率が、突然、下がり始めた、と言われる。原因は明確だが、それに対して、どんな反応が起きるのか、定かではない。渦中の人々にとって、自らの愚行が、原因と言われても、所詮瑣末なこと、となるのだろう。また、目先を変える、とも伝えられているからだ。
政権交代が、起きた時、彼らの慌てぶりには、呆れたものだ。自業自得と、あれ程に、言われ続けたのに、責任転嫁に終始し、挙げ句の果てとして、自らの席を失った。不慣れな連中の、その後の失敗の連続に、予想外とも言える程に、素早く、一日天下が終わったが、そこで学んだ筈のことも、既に、どこかに捨ててしまったらしい。同じ轍を踏まない、と言い続けた人も、多くは、表舞台から去り、あの「自業自得」の一翼を担った、メンタルが弱い、と揶揄された人間も、薬の助けからか、傲慢さという短所を、露骨に表すことに、何の躊躇いも感じていないように見える。だが、不安材料が、無くなってしまった訳ではない。失敗の連続は、今回も度重なりつつあり、改造の一言で、一部の首を挿げ替えて、問題解決ができる、と高を括っている様子には、自滅への道筋が、はっきりと見えている。だが、その一方で、肝心の選ぶ側の考えは、依然として、浅はかなままであり、世論は、ほんの小さなことで、どちらへも振り回される。今回の、支持率低下についても、所詮、その程度のブレの一つ、と見做すこともでき、不安材料にはならない、という見込みが現れている。どんな結果になるのか、こんな状況では、誰にもわからない、としかならない。だが、安定を求める動きは、依然として強いままだから、何も起きない、と見るべきかもしれない。特に、期待されている、若い世代には、もう悪いのだから、これ以上悪くなるより、今のままが、という考えが、蔓延っているという。その見方は、正しい、となるのか。