パンチの独り言

(6月26日〜7月2日)
(政情不安、被害、誘惑、甘い汁、棚に上げず、響く言葉、失信)



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7月2日(日)−失信

 ついこの間までなら、皆が、気持ち良さげに、聞いていただろう言葉が、何故か、街角に虚しく響き渡る。同じ人物の、同じ言葉に、大衆は、何故これ程までに、違う反応を示すのか。人気商売の難しさ、と何度も触れられてきた、その魔法に、かかってしまったのだろうか。
 信頼を勝ち取る為に、多くの人々は、心を砕き、工夫を重ねる。日々の積み重ねが、実りを迎えた時、相手の信頼を得るが、折角築いたものも、ほんの一瞬の油断で、微塵もなく砕け散り、水泡に帰する。懲りないのが、人間の特性だとしたら、あの宰相は、まさに、それを地で行く人物に違いない。折角築いた地位も、日々の不安の大きさに、潰されてしまい、上手の手からこぼれてしまった。あれ程までに、信頼していた人々も、地位を失った途端に、次々と離れていき、沈み行く船の渦に、巻き込まれぬように、とばかりに、遠い存在へと変わった。ある意味、どん底だったのだろうが、幸いに、人々の記憶は、長持ちしないものだ。仇敵に、座を奪われることで、自らの汚点も、いつの間にか、洗い流され、綺麗さっぱり、無垢の如くになった。そこに巡ってきた機会に、慌てて飛びついたとはいえ、低迷する経済状況は、極端な政策をも、成功へと導く背景となった。結果として、人々の信望が、篤くなることも、当然のこととなり、支持率の高さを、誇れるような状況へと至る。だが、慢心は、そんな所に起きるものだ。独善を続ける為の体制は、無能な人間を配すことで、作り上げられたからか、綻びは次々と現れ、収拾のつかぬ状況は、自らの行為にさえ、及ぶ事態となった。これでは、信頼が崩れるのも、当然のことだろう。取り返しのつかない状況になる前に、とは、前回の幕引きだったが、今回は、はて、どんな言い訳を並べるのだろう。

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7月1日(土)−響く言葉

 誰だって、耳の痛い話は、聞きたくないものだ。でも、それを言ってくれる相手に、どんな感情を抱くかは、実は、人それぞれだろう。嫌な奴、と避けたり、貶められた、と腹を立てたり、負の反応を示す人が居る一方、良い奴、と破顔したり、有難い、と歓迎する人も居る。
 厳しい言葉を浴びせる、からと言って、その人が、相手の為を思って、そうしているとは限らない。自分のやり方を、相手に押し付けているだけだと、受け取る側が、折角の言葉を、誤解する場合が多い。だが、結果として、何らかの役に立っているのなら、それが、どんな意図を持って発せられたとしても、受け取り側には、何の違いもない筈だ。ところが、世の中は、そういう場面でも、配慮が必要とか、逃げ場を作るべきとか、更には、後処理が必要、となったりする。完膚なきまで、やっつけられて、平気で居られる人は、確かに、少ないのだろうが、でも、それに、様々な配慮をしていては、言葉の重みが、変わってしまう場合もある。それに、全ての場合に、その場で理解を求めるのも、無理難題と思える。まずは、過ちを正し、不足を指摘し、それら全てを、意識させることが、最優先課題であり、それを済ませてこそ、次の段階が迎えられる。そこで、優しくとか、柔らかにとか、そんなことに囚われると、言葉は丁寧になり、心も穏やかに保てるだろうが、衝撃の減少が、効果を弱めることになり兼ねない。丁寧な言葉遣いでも、厳しい指摘は可能だ、とする向きもあろうが、実際には、真意が届かぬ場合が多く、感謝の気持ちは届くものの、肝心なことには、変化が現れず、同じ叱責を、繰り返す必要が出てくる。耳が痛いのは、痛みを伴う為であり、だからこそ、何かを変えようとする心の動きが、始まるのではないか。だとしたら、厳しい言葉にこそ、意味があると思う。

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6月30日(金)−棚に上げず

 若者の指示待ち姿勢を、憂う声が強いようだが、若手に限った話だろうか。起業家や上層部は、流石に、誰かの指示で動くことはないが、組織の構成員の多くは、指示に従うことを、責務と感じている。ただ、ここでも、道は分かれており、指示を待ち続けるか、打開策を講じるか、となる。
 前者に属する人々が、指示待ちの若者を、批判するとしたら、それは、まさに、自分の姿を映した上、なのかもしれない。自らの、だらしなさに、我が事ながら、呆れ果てた挙句、将来への悲観が、若者への助言となる。一部を除けば、声の主の多くは、こんな境遇の人々であり、反省に基づく行動、なのだろう。だが、自分ができないことを、他人、それも、将来を担う人々に、負荷として押し付けるのは、何とも、身勝手な行動だろう。問題があると気付いたら、それを解決する手段を、講じるのが当然であり、それができないのなら、押し黙るしかない。どちらもできない姿には、軽蔑の眼差しが、向けられることとなる。そこに、また、居た堪れなさを感じ、つい、愚痴にも似た、若手への注文が、出てくるのだろう。でも、それでは、蔑視の目を、避けることはできない。ばかりか、肝心の指示さえ、守られない状況さえ、生まれかねない。諦めたのなら、指示など待たず、自分なりの工夫を、施せば良い。そんな上司を見れば、新人達も、意を強くして、指示より提案という道を、選び始めるのではないか。事は、それほど単純ではない、と思うが、それでも、こんな所から、始めない限り、指示待ち姿勢を、排除することは、叶わないだろう。我が振り直せ、ということも、こんな所から、来ていると言えるだろう。

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6月29日(木)−甘い汁

 物価が上がらないことを、歓迎する声は、切り捨てられている。根拠は、経済原理に反するもの、とのことだが、膨張を続けた悲惨な結果に、直面した人々にとって、所詮、一部の研究者が導いた、原理とは名ばかりの、机上の空論には、依然として、信頼は、与えられていないようだ。
 成長を止めてしまうと、そこからは、停滞だけでなく、衰退が始まり、滅亡へと繋がる、ということらしいが、一定の状態を続けることと、止まることには、全く異なる様相があることに、件の研究者達は、全く気付けないようだ。全体を見渡せば、何の変化も見られないものも、個々に細かく眺めれば、常に変化を続けており、それが積み重なった結果として、定常状態が続く、というものが、現実に起こっていても、二つの相異なる視点を、持ち合わせていない人間には、理解できないらしい。個人会計より、国の予算が、優先される世界では、全体を見渡すことが優先され、細かな変化は、無いものと見做される。その結果、動きが止まったと判断され、無理矢理に動かそうと、政策が講じられる訳だ。だが、実際には、思惑通りには行かず、更なる無理強いにより、歪みが高まり、破綻を来すことになり兼ねない。物価が上がらないと、給料も上がらない、という説明も、不思議な言い訳に過ぎず、満足できる生活こそが、最重要なもので、その為に必要な収入が、どれほどかを見てこそ、判断ができる。この問題の本質は、全く別の所にあり、給料を上げない理由に、物価停滞を用いる、経営者達に、問題がある。その最たるものと映るのは、介護事業に関するものだろう。確かに、莫大な予算が必要となるが、その一方で、現場で働く人々の、待遇の悪さは、尋常でない程に伝えられる。あれ程の支払いを、入居者に求めながら、何故、直接関わる介護人に、それが反映されないのか。事業に関わる人間の、算盤勘定に、根本的な問題があるからだろう。でなければ、社会的な要請とはいえ、これ程に、多くの施設が、雨後の筍の如く、現れる筈がない。濡れ手に粟、の原理は、どこにあるのか。

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6月28日(水)−誘惑

 差別なのか、区別なのか、見方の違いで、異なる結論が導かれる。だが、誘導された世相から、その違いには、何らかの思惑が現れ、有利不利の違いへと、繋げられる。本来は、役割分担などの区別が、反映されたものに過ぎず、そこに、露骨な意図などなくとも、決定的と断罪される。
 区別の感覚からすれば、男女の差についても、生物学的な差異の、現れに過ぎないとなるが、小難しい学問を、引き合いに出された途端に、反対の声の勢いが増すのは、何故なのだろうか。持論の展開に、心を奪われた人々は、他からの説明を、理解しようとする気がなく、当然、分からないという結論に行き着き、それを忌み嫌うことで、拒否反応を示す訳だ。話せば分かる、という状況にはなく、拒むことが、先に来るだけに、ここから先の展開は、袋小路に迷い込んだ状況となる。先に進むことができないだけでなく、時間の流れを、戻すこともできないから、そのまま、壁にぶち当たるだけとなる。議論をしようとする側から見ると、単に、拒まれただけとの印象で、時間の無駄としか感じられないが、拒んだ側は、持論を否定されたとの印象から、話し合いにも応じないばかりか、敵視するにまで及ぶ。そんな不毛な遣り取りの末、今では、差別解消の為と称して、様々な優遇措置が為され、該当しない人々からは、逆差別と罵られることさえ、起きていると聞く。振り子が、行ったり来たりと、揺れ続ける如く、時には、優遇が、時には、冷遇に、振れることが起きるが、こんなことに、一喜一憂して、何になると思うのか。ただ、弄ばれているに過ぎず、どちらに転んでも、勝手な思いつきに、振り回されているだけのことだ。どんな環境でも、自分を活かすことは、可能であり、それを貫いてこそ、真価が上がるものと思えば、惑わされることは、少なくなる。

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6月27日(火)−被害

 ハラスメントは、被害者に目が集まるようだが、加害者の存在には、どんな目が向けられるのか。もっと冷静に、分析的な目を向ければ、全く異なる様相が、見えてくると思うのだが、多くの人々は、見極めようとせず、伝聞を頼りに、批判的な目を向ける。その結果は、悲惨なものだ。
 現代社会は、如何にして、被害者となるかが、肝心なのではないか。加害者が、ほぼ確実に、糾弾され、完膚なきまでに、叩かれることを見ると、誰から害を受けたかに関係なく、兎に角、自身を、害を被る側に置くことが、何よりも、優先されるように思える。それを貫く為に、加害者とされた人物に、どんな害が及ぶのかに、思いを馳せることなく、受けた被害を、次々に上げていく。その結果、被害を受けた人間は、保護の対象となるのに対し、相手は、まるで、人間ではないかの如くに、厳しい処罰を受ける。それも、法律に基づくものではなく、所謂私刑のような扱いをされるのだ。冷静で分析的な判断ではなく、感情に基づく、極端な措置が、そこらじゅうで行われており、昨日の加害者が、あっという間に、精神的な被害者へと転じるのも、こんな背景から来るものだ。保護という考えが、一方的な形で行われ、時には、危害を加えるまでに及ぶのは、不思議な展開に見えるかもしれないが、極端な反応が重なり、そこから、一方的な結論が導かれれば、そうなるのは、ある意味、当然のことではないだろうか。被害者、要するに、弱者は、保護されるべき存在、という考えには、こんな危険性が潜むことに、保護を声高に訴える人々は、全く気付く気配を見せない。時に、この欠点を指摘すると、猛然と反論が戻るのを見ると、手の施しようがない、との思いしか残らない。極端に走るのは、そこに、極端な答えしかないからであり、賛否を表明せよとの、圧力がかかるからなのだ。

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6月26日(月)−政情不安

 平和が続く国々から、次々に届けられる、魅力的な話、そこに行きたい、と願う気持ちに、何か悪いことが、あるのだろうか。今、この疑問を向けたら、数え切れない程の、反論が押し寄せるだろう。約束された平和が、揺らぎ始め、様々な危険に、晒され始めているからだ。
 先進国が、戦争に明け暮れた時代は、半世紀以上昔のことで、多くの人々は、書物からの情報しか、手に入れられなくなっている。あまりに悲惨な状況に、二度と御免とばかりに、回避の為の仕組みが、様々に採り入れられ、功を奏したことで、平和が長く続いている。その上、先を進む国の利点を活かし、生活の豊かさをも、手に入れたことで、後塵を排する国々では、隣国や国内の争いに、明け暮れる中で、国を捨てる選択を、決断することとなる。魅力的な話には、難民を迎える姿勢が加わり、多くが、夢と希望に満ちた未来を、手に入れようと、危険を冒してまでも、長い道程を、歩み始めた。初めは、少数に限られ、地道な努力も相俟って、受け入れ側にとっても、ある程度の利益を、見込めるものだったが、その数が急速に増すにつれ、歪みが強まるだけでなく、破れた夢への不満爆発が、治安の悪化へと繋がることとなった。その結果が、今展開しているものであり、拒否や排除といった、それまでになかった措置が、取られ始めている。安易に移り住もうとする気持ちに、様々な批判が向けられるが、その発端となった、魅力的な話には、特に、批判は向けられていない。そこにある格差は、確実なものだけに、上にあるものが、魅力的に見えるのは当然だが、それを、努力の末と目指させるより、こちらに来いと誘ったのは、あまりに罪作りなものではないか。混迷が続くと、状況は更に悪化しかねない。国内の不安定に、目が向き始めたとはいえ、依然として、楽観的な平和ボケが、充満する社会に、どんな試練が待つのだろう。

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