パンチの独り言

(7月3日〜7月9日)
(極端な時代、餓鬼大将、責任回避、予想外、欲しがる、有耶無耶、温故知新)



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7月9日(日)−温故知新

 新しいことを、始めるのに必要なものは、何だろうか。こう問われた時、多くの人は、先立つ物、と答えるのではないか。確かに、資金が無ければ、何事も始まらない。その通りだと思うが、逆に見たらどうか。資金援助があるとして、では、それ以外には、何が、と。
 他のもの、というか、本来第一となるべきは、勇気ではないか。新たなことを起こす為に、勇気が無ければ、何事も始まらない。自分で始める時も、他の人々と始めたり、場合によっては、乗せられた挙句に、始めさせられたりと、どんな場合も、最終決断においては、えいやっとばかりの、勇気が必要となる。でも、無駄と言われたり、無理と言われたり、そんな中では、勇気ではなく、単に、無謀と言われることの方が、多いだろう。その多くは、思いつきによるもので、誰も言わないから、といった程度のものに、終わっている。実は、誰も、ということさえ、大した調べもなく、過去に目を向けることさえ、無い場合が多い。そんなことを、指摘すると、殆どの場合、新しいことの為に、古いことは不要、との答えが返ってくる。本当にそうなのか、無駄玉を、何度も見せられると、そんな疑いを抱きたくなる。よくよく考えると、新しいとは、それまでに無い、という意味の筈で、それなら、事前の調査が、必要となるに違いない。だとしたら、始めたい人は、何をしたらいいのか。まずは、状況を知ることから、始めてはどうか。誰も思いつかなかった、などと言うのも、簡単にできることだが、実際には、後々不明を詫びねばならなくなる。綿密な調査、とまでいかずとも、やはり、知っておくことは大切だろう。その一方で、調べることで、何も残らなくなる、という心配が、出てくるかもしれない。そんな時、どこかに違いを見つけることが、次の段階となる。こんな手順を、辿ってみるのも、手の一つだろう。

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7月8日(土)−有耶無耶

 共感が得られるからか、「不安」という言葉が、飛び交う光景が、画面に映し出される。安全・安心という、姿の見えない夢物語から、迫り来る現実へと、引きずり出される度に、口にすることが、約束事のように扱われる。だが、口にする人の多くは、本当の恐怖に、出遭ったことはない。
 見えない夢と、見たことのない現実、不思議な組み合わせだが、人の心を揺さぶる為には、目に見えぬ方が、都合がいいのだろう。扇動しようと、様々に策を巡らす人々は、そんな言葉を、口にする人々を、画面で紹介することで、人心を操ろうとする。現実を、直視することを止め、見えないものに、恐れ戦くことに、平和と安定を手にした人々は、何故だが、引き寄せられる。結果として、非現実的なものに、精神を侵されることさえある。自滅行為、と言うべきことだが、弱者保護との兼ね合いで、恰も、現実的な問題として、扱われている。多くの事象に、こんな考えが適用され、将来への不安、との一言で、全てが括られる。だが、現実を見ずして、何を心配しようとするのか。これこそ、社会全体が、認知症になってしまった、と言えるのではないか。老後の心配も、今の問題を取り上げながら、自分のことへと転換させる。どちらも現実なのだが、これまでに起きた変化を、総括してみれば、今ではなく、将来の問題を、どう考えるかが、重要となるだろう。こちらでも、不安の声は絶えないが、介護事業に関して、多くの問題が指摘されるが、本質的な部分については、何も見えないままなのではないか。そんな中で、不安を口にさせて、一体、何をどう解決したいのか。どんどん、おかしな問題が、引き出されるものの、その原因や状況を、的確に捉えた話は、殆ど出されることがない。貧困も大きいが、一方で、巨額な事業に、巣食う人々は、どんな利権を手に入れたのか。有耶無耶に、されたままなのだ。

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7月7日(金)−欲しがる

 成長期には、特別なことをしなくとも、新しいことが始まり、それが定着していた。人々の、もっとという欲も、その中では、ある程度満たされていて、社会として、応える必要は、殆ど無いに等しかった。それが、停滞期に入ると、様相は一変し、要求が高まり続けている。
 変化が、自然に起きていた時代と違い、安定、停滞、衰退、といった時期には、何も起きないか、悪い方向のものばかりとなる。しかし、どんな時代も、大衆の欲望が、無くなることはなく、何かが与えられても、次は何、という要求が掲げられる。そんな見方で、現状を眺め回せば、多くの政策が、それへの対応である、と見做せるのではないか。ところが、自然に起きていた変化と違い、人がそれぞれに抱く欲望は、限られた個人にしか、当てはまらない。その為、それに応える対策は、一部にしか浸透せず、他は、別のことを要求し、不足を訴える。この多様性は、ごく自然の成り行きだが、策を講じる側からすれば、困難を強く感じさせるものとなる。あれをやれば、これを欲しがり、それが済めば、次は何か、という形になる訳だ。その結果、無駄が増えるばかりで、効果的な対策とはならず、それ自体も、長続きしない。溝に捨てた、などと揶揄されるものが、目立ち始めたのは、こんな変化が起きた後で、鳴り物入りで、掲げられた新対策も、多くが、そのまま、目的を達成できずに、打ち棄てられる。これは、単純に、的外れだったというより、的を絞ることで、逆に、適用範囲が、狭められたということだろう。事前の準備が、徹底すればする程、無駄となるのも、こんな背景があるからだ。また、徐々に出現したものと違い、これと決めて行われたものでは、全てを満足させることもできず、結果として、一部のみの優遇が、批判の対象となる。これもまた、無駄とされるのだ。

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7月6日(木)−予想外

 無駄が多いから、一部に集中させる、という政策が、多くの事柄に、向いた結果、どんなことが起きたのか。先見性のない人間が、取捨選択を行うことで、魅力的な提案が、選ばれた結果、以前より、遥かに大きな無駄が、横行するだけでなく、以前ならあった、僅かな可能性まで、消し飛んだ。
 選択と集中、という言葉は、如何にも、魅力的に感じられたのだろう。これをきっかけに、「無駄」と断じられた、多くのものが、捨て去られた。だが、表向きは、投資効果を上げる為、と言われた政策は、実は、別の効率を目指したに過ぎず、結果として、芽を出す機会を、奪うことになった。では、何の効率が、求められたのか。簡単に言えば、自分達の仕事を、少なくすることに、向けられたのだ。多数に投資する為には、一つ一つの手間は、少なくとも、全体として、膨大な数を扱わねばならず、紙の上での作業は、莫大なものとなる。それに対し、選択することで、少数に絞り込めば、そこに注ぎ込む額が、たとえ多くとも、全体の作業量は、限られたものにできる。作業量は、人員削減の中では、減らすことが、命題とされていたから、この変更は、渡りに船といったものに、思えたに違いない。一度始めると、もう、昔のやり方に、戻す気は起こらず、集中の意義を、殊更に強調する、論調が強まり続けた。だが、そろそろ明らかになりつつある結果は、あの連中の、したり顔での解説とは、全く異なるものと、なってしまった。それぞれの分野の活性は、著しく低下し、それが数字となって、現れ始めたのだ。警告は、度々なされていたが、それが、無視され続けた結果、もう、取り返しのつかない形に、分野全体が、歪んでしまい、それが、構成員の心理をも、侵し続けるものとなった。魅力を求め、分かり易さという浅薄に、皆が挙って飛び付く。将来性には目もくれず、予想通りの結果を、導き続ける。こんな形では、予想外の結果は捨てられ、新展開は望めない。もう、手遅れなのだろうか。

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7月5日(水)−責任回避

 昨日とは、別の意味の、大人気なさ、の話をしたい。目下の人間を、相手にして、罵り合いに参加してしまう、餓鬼のような心の持ち主が、如何に貧しいかを、表現したつもりだが、一方で、高みから眺めるように、直接相手をせず、ただ、見守る人々にも、大人気なさがあると思う。
 何方かと言えば、輸入されたもののように、感じているが、「褒めて育てる」という考え方は、実は、少数派として、この国の中にも、存在してきた。ただ、そこには、大きな違いがあり、誤解に基づいて、導入された誤った手法とは異なり、それぞれに、守るべき範囲を、厳しく決めた後で、残りは、長所を、探してやるというものだった。だから、どこにも、良い点がない場合に、その対応は、今流行っているものとは、明らかに、異なっていた。悪い点に、触れようともしない、という現状とも、明らかに違い、長所と短所を、並列させることで、逆に、良い点を、より強く認識させる効果も、狙っていた。ところが、今、巷で多用されるものでは、気持ち良くさせること、だけを目的とし、ある意味では、衝突を避けるだけ、となる。その結果、現実を直視することなく、可能性を追い求め、その結果、何も手に入らない、という悲劇に襲われる。この問題は、実は、避けることが優先され、この場面でも、まだ夢を捨てず、期待を抱く人の数は、減りそうにもない。その結果、状況は、更に悪化し、どん底を迎えるまで、未来の明るさを、信じる人が巷に溢れる。これは、まるで宗教によって、洗脳されてしまった人と、同じ症状であり、あの育て方は、実は、そんな意図を持ち、人々を、堕落させる為の、ものだったのではないか、という疑いさえ出てくる。この国で、昔から使われてきたものとは、この点が、大きく異なるのに、今だに、楽を選び、衝突を避ける人から、好まれているのは、何故なのだろうか。

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7月4日(火)−餓鬼大将

 大人気ない、と言うより、まさに、餓鬼のようだ、となるだろうか。海の向こうの大統領は、手にした発信機から、心の叫びを発し続け、こちら側の宰相は、売り言葉に買い言葉、の反省を、投げ捨ててしまう。更に、隣国の主席は、二制度に対する勝手な解釈を、強引に押し通す。
 何時から、餓鬼のような、自己主張ばかりの人間が、権力の中枢に、入り込むようになったのか。国それぞれの、制度の違いから、民衆の劣悪化に、原因を求めることは、難しい。ただ、大多数の人間が、私利私欲に走り、他への配慮より、自らの利益を求めるようになったことは、どんな制度の下でも、同じ結果に繋がることを、示しているようだ。直接選挙で選ぼうが、間接に選ぼうが、はたまた、選挙なしでのものだろうが、そこに居並ぶ人々は、大人の仮面を被った、餓鬼となる。文字通り、餓えた鬼であり、欲を満たす為に、貪り食う姿は、気味の悪いものとしか、映らない。折角手に入れた権力でも、それを、どう使うかは、それぞれに違いなく、大人気ない言動は、彼らの本質を、映し出したものに、過ぎないだろう。この状況が、長く続くことには、様々に警戒が、示されている。しかし、彼らに代わる人間が、現れるか、となると、不確かであるばかりか、何の期待も持てないと、言わざるを得ない。それこそが、社会全体が、重い病に罹っていることを、表しているのではないか。だとしたら、一つや二つの首を、挿げ替えたとしても、好転する期待も持てない。社会の構成員が、それぞれに、何が正しいのかを、考え直すだけでなく、それを実行しない限り、この悪循環を、断ち切ることは、できないだろう。皆が、それぞれに、自らの過ちに、気付くしかない。

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7月3日(月)−極端な時代

 成長期には、中の上が、好まれていたが、今は、どうだろう。中庸を好む傾向は、今でも、強くあるけれど、それを表明するかどうかや、自分の位置に関しては、当時とは、全く異なる考えが、現れている。過小評価とは違うが、弱者に属することが、肝心となる考えがあるからだ。
 その為、普段の生活に、困ることがないにも関わらず、貧困層に属する、とする人の数が、予想外に増えている。その結果、施しを要求したり、出費を拒否したりと、社会の一員としての、義務は放棄し、権利を声高に伝える。これも、ある極端な考えの表れで、自分のことしか、考えられない人々が、多くを占める状況を、示しているようだ。極論が、好まれる時代とも言えるが、これは、単に、日々の生活だけでなく、政のように、国や地域を挙げての、活動にまで、暗い影を落としている。持論との一致、と言う程に、自らの意見がある訳ではなく、単に、極端な意見には、同意し易い、という状況があるようで、なぜ、と思える程に、著しい偏りに満ちた意見に、同調する人が増えた。だが、この手の好悪に関しては、動きが激しくなりがちで、ある極端から、全く別の極端に、いとも容易く、動き回る。本人達は、自らの意思で動いていると思うから、何の違和感も抱かないようだが、全体としては、激しい動きに、振り回されることになり、平和な時代の安定とは、全く異なる様相が、表出しているように見える。それにより、混乱が極まり、不安定な時代へと、突入するにしても、実は、基盤の安定は、揺るがないからこそ、こんな事態にも、誰も慌てようとしない。よく似た傲慢ぶりが、経済崩壊へと結びついたことも、経験者でさえ、忘れてしまったようで、これから、何らかの対策が講じられるとは、とても思えな状況にある。もっと、極端になっても、まだ気付かぬようだと、愈々、世界の混乱が始まりそうだ。

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