自由と束縛、ある意味、相矛盾する事柄が、扱われることは、数多ある。特に、自由が強調されるようになり、能力の違いで、扱いが異なるようになって以来、巧く立ち回れるかどうかが、成功への足掛かりと言われ、自由選択こそが、肝心とされたが、それも長くは続かない。
そんな中で、それまで、嫌われ続けてきた束縛が、実は、自分を守る手立て、となることを知る。成長を続け、成功を手中に収めた時代には、何の制限も受けず、勝手気侭に振る舞うことこそが、全てであったのに対し、成長に陰りが見え始め、限界を考えるようになると、その場に居続ける為の、手立てを模索することになる。自由競争が、基本原理として通用し、それに乗ることで、職業意識を高めるだけでなく、それに見合う収入をも保証していた、そんな時には、見向きもしないどころか、毛嫌いさえ示していた仕組みに、助けを求めるようになる。変化を続け、成長を実感できた時代と違い、過激な変化を遠ざけ、停滞を感じ始めた途端に、安住を求めるのは、身勝手なことに映るが、人間の心理とは、その程度のものなのだろう。一方で、転々とする人材の、確保を苦しむ組織は、安定を求め、ある程度の歯止めは、致し方なし、と見做す。そこに、折り合いさえつけば、何の問題も生じないが、果たして、想定通りに、事は運ぶだろうか。優秀な人材の確保、などという掛け声は、簡単に発することができるが、自分達で、育てることなしに、となると、難しくならざるを得ない。確かに、こんな時代には、育てることさえも、難しくなっているから、他力本願も、止む無しとなるのだろうが、全てが、他に頼っては、何も起きないことになる。才能ある人々の登用だけでなく、その育成にも、何かしらの力を注がないと、単なる束縛だけで、不自由を感じさせることになりかねない。
遅々として、進まぬ様子が、伝えられるものの、実は、実態は、殆ど伝えられることがない。百聞は、とばかりに、所詮、ほんの一瞬に過ぎないとは言え、当時、惨状を見せていた地域を、走り抜けてみた。結果は、愕然とするものばかり、進まぬ筈だ、と思える光景が広がっていた。
平日の道路に、観光客の車は、殆ど見られない。擦れ違うのは、土砂を運ぶ、ダンプばかりというのも、被災地の特徴の一つ、なのだろう。海岸に沿って築かれる、専用道の建設に、多くの地域は、力を入れている。全国各地から集まった、ダンプの数々は、一つ終われば、次があるとばかりに、移動を繰り返しながら、営業を続けている。公共事業の縮小の、最大の対象となった、土木工事への予算削減は、その材料であり、工事の結果としても出てくる、土砂の運搬を、担う人々の仕事を、無くす結果を導いた。他人の不幸を、喜ぶ訳ではあるまいが、糧を得る道が、震災をきっかけに、開けた人々が、各地から集まり、道路だけでなく、嵩上げと呼ばれる、土木工事に従事する。莫大な予算を必要とする事業、なのだろうが、今の姿は、それだけしか見えず、人間の生活と、結び付くものは、殆ど見つからない。特に、被害にあった海辺沿いの地域は、工事関係者の姿しか見えず、住民は、高台移転なのか、あるいは、移住なのか、その姿を消している。復興には、彼らが戻ることこそが、最も重要な要素となる筈だが、現状は、その予感は、殆どしないというべきか。別の地域では、既に、住民が戻り始め、日々の生活も、営まれているのだが、嘗ての賑わいは、戻って来ない。元々、過疎化の問題により、賑わいは、徐々に薄れていたから、この程度が、精々と言うべきかもしれない。何れにしても、復興という言葉の持つ意味を、今一度、きちんと考えた上で、自分達の生活の糧を、築くことこそが、第一となるのだろう。
マスメディアの取材でもない限り、自分達の様子が、他の人に知られることなど、なかった。だが、今や、どこの誰とも知れない人が、世界中に情報を、発信することが、可能となっている。その殆どは、誰の目にも触れることなく、発信した人物の持つデータの中に、留まるのだが、時に、爆発する。
そのきっかけは、様々だろう。だが、結果は、ある意味、一様のものになる。広がりを見せる過程で、何らかの情報が、大衆の興味を誘い、それが、連鎖的な反応となり、ねずみ算的に増加する。発信側の意図も、伝えられた自分達の意図も、広がる過程で、全て削り取られ、全く異なる意図が、加えられていく。弄ばれることも、多くあり、その結果、関係者の人権が、著しく侵されたり、あらぬ嫌疑がかけられる。情報網の発達は、災害対策などで、何度も叫ばれてきたが、現状は、ある意味で、かなり整備が進んだようにさえ、見えてくる。ただ、正確さが問われることなく、真偽入り混じったものが、無秩序に流れることから、本来、求められていたものとは、似ても似つかぬものとなっている。では、何をどうすれば、歪んだ現状を、正すことができるのだろうか。仕組みが、整ったことに、異論はないだろうが、肝心の、利用者の知識や倫理観に、明らかな欠陥があることに、問題があるのだろう。だとしたら、何が、必要となるのか。普段から、周囲の人々と、面白おかしく、話をする中で、根も葉もない噂や、嘘などを、無意識に伝えることは、誰にでもあることだろう。それを、厳しく制限することは、多くの人の楽しみを、奪うことになる。だが、その延長線上に、この問題があるとしたら、少なくとも、特定少数を相手とする場合と、不特定多数を相手とする場合で、考え方を変える必要を、学ばせるしかない。強力な武器を、手に入れたことを自覚させ、その使い方を、学ばせるしか、方法はなさそうに思う。
東北、それも、あの大震災に見舞われた地域を、巡る旅を続けている。復興の勢いは、最近は、殆ど報道されることがなくなり、どんな状況にあるのか、全くわからない。そんな中、現地を眺めてみて、予想以上に、遅れが目立つことに、がっかりした。土砂をたっぷり積んだ、ダンプだけが目立っている。
復興の道を、歩み始めた当初、様々なことが、決められていった。災害を繰り返さぬように、とばかりに、決められた物事には、論理的に見ても、感情的に見ても、納得できるものがあったが、そうでないものの方が、遥かに多かったように思う。その結果が、現状へと繋がる、とすると、原因は、ある意味はっきりしている。海岸の都市では、海辺で住むことが、禁じられた結果、街は、その様相を一変させた。そこにある筈の賑わいは、全く見えないものとなり、かといって、移った先にも、賑わいは感じられない。行政の過ち、とでも言うべきことが、こんな形で現れたのだろう。もう一つの過ちも、皆が、心配する対象だが、嵩上げと称する、沈下した地盤の回復を、復興の必須条件としたもので、いつまで待っても、建物を建てることさえできない状況に、地元民は、怒りを表していると、言われている。その中で、様々な方法で、法律の縛りを逃れようとする動きがあり、それを元に、徐々に街並みが築かれているようだ。地盤の嵩上げの代わりに、建物自体の基礎部分を、嵩上げしてしまう、と言う方法に、無能な行政は、後追いの形で、承認を繰り返しているらしい。制限をかけるだけで、何も進めない連中に、鉄槌を落とすような話だが、嵩上げ自体、地震の際の不安定な地盤の問題と、どう折り合いをつけるのか、全く議論がない。ただ、上辺だけの措置に、呆れてしまう部分が強く、信頼が得られる筈もない。こんなことを繰り返すのが、行政の常だとしたら、民衆は、それに従う気持ちが、失せてしまうのも、当然ということになる。
百聞は一見に如かず、と言われ、この国の人々は、子供の頃から、様々な所に出かけ、見ることで、理解を進めようとする動きに、巻き込まれてきた。だが、その効果の程は、どうだろうか。見た筈のものを、見ていないと言ったり、違うものを見たと言ったり、果ては、見てもいないものを見たと言う。
実際に見ることの大切さを、小さな頃から植え付けられても、いざ、大人になってしまうと、そんなことは、すっかり忘れ去られ、見ないでものを言ったり、伝聞を、簡単に信じたりする。そんな大人の反省が、子供の教育に反映され、様々な行事が、採り入れられているが、そんなことで、将来を変えることは、できないのだろうか。それとも、一旦定着したものが、その後の別の力で、変えられてしまうのか。何れにしても、何が大切なのかを、それぞれに意識した上で、自らの言動を、制御する必要があるが、巷の様子を見るに、そんなことを、気にしない連中が、牛耳る世界が、色んな所で、築かれていることに、気付かされる。言った者勝ち、とでも言うのか、嘘でも、先に言ってしまい、後の展開は、無視すればいいとなる。発言することが、優先され、その中身が、顧みられないとなると、ただの言いたい放題、の状況になるだけで、そんなものの、信頼の有無など、どうでもいいことになる。全てを見渡すことの難しさは、確かにあるし、それが、大人になるにつれ、徐々に増えているのも事実だろうが、だからと言って、見なくて済む訳ではない。できる限り、直接見ることで、伝聞では知ることのできない、事実を、見つけることを、止めてしまった時点で、情報を手に入れることが、できなくなることに、気付くべきだろう。
数学への人気が、落ち続けている、と言われる。高校時代の選択で、文系とするか、理系とするか、については、その多くが、数学の得手不得手が、決断の最大要素となる。その中で、安定した時代の特徴として、楽を望む心理から、文系を選ぶ人が多い。それ程の重荷なのだろうか。
人気の凋落は、それだけではなく、理系を選んだ後に、それらの中から、どんな分野を選ぶのか、という点にも、現れている。進学の理由が、職を得る為、となってから久しいが、それが徐々に極まるに連れ、役に立つのか、という点が、判断の基準となってきた。数学という科目については、常識に欠ける文化人が、卒業後に、一度も使わない、といった表現で、無駄なものの一つと、断じている通り、一般的には、役に立たないとの認識が、定着している、と言わざるを得ない。これは、教育現場にも、大きな責任があり、数学の問題を、ただ漫然と、解かし続けることが、教育の目的と、思っている教員が、居るからなのではないか。義務教育課程も含め、各科目を学習する目的は、ただ、それらを記憶する、という点にある訳ではない。それらを学習することで、人間として、当然身に付けておかねばならない、能力を手にすることができる。では、数学の役割は何か。数式の理解、などと言っているから、無知と言われる訳で、数式は、所詮、文章表現の一種に過ぎない。ただ、曖昧な言葉とは異なり、数式で表されるものは、厳密な論理からなるのだ。それを学習することで、情報伝達などを含め、あらゆる活動で必要となる、共通の論理を、構築する力を、身に付けさせようとする。点数には現れない、こんな能力こそが、実は重要なものとなる。ここでも、数式にしか注目しなければ、それと接しないと批判することも可能だろう。だが、そこで学んだ考え方は、人生において、数え切れない程、使うことになる。
物価上昇の誘導が、今の世界の、経済政策の趨勢と言われる。経済活動全体が、この政策の下で、高まることが、期待されているが、様子がおかしくなっている。期待通りに上がらない、という状況がある一方、物価が上がっても、購買に必要となる給与が、それについていかない、とある。
誘導は、確かに、ある程度の成果を上げているものの、一面に止まり、肝心の全体への波及は、思い通りに進んでいない。その結果、歪みが増え続ければ、破綻を来すこととなる。学者達は、相変わらず、机上の空論を、駆使することで、解決の道を、探っているように見えるが、現実には、綻びが目立つだけで、まさに、空転するだけの、新政策の披露合戦となる。風が吹けば、桶屋が儲かる、方式の、論理に関して、現実を目にするまでは、批判も、同じように、空手形となり得る。何故、こんなことを、やり続けるのか。現実を直視する勇気も、それを分析する能力も、持ち合わせていないからだろう。給与の問題で、例えば、異常に低く抑えられている話は、保育や介護といった分野で、注目されているが、その実態を伝える情報は、殆ど流れていない。その原因は、業界の収支報告が、漏れてこないからで、本来、企業の形態をとれば、公開の義務があるのに、開示された情報が、川下に流されないのは、情報を牛耳る人々の、怠慢と言えるのだろう。末端の労働者の低収入を、問題として取り上げても、その原因を掴めないのでは、空振りに終わる。介護費用の高騰は、まるで当然の如く、扱われているようだが、それが、どこに流れたのかは、闇の中にある。それに加え、保険事業からの補助まで、計算に入れると、濡れ手に粟の事業と映るが、それを問題視することなく、事業参加者の不足を、大問題として捉えるだけだ。こんな調子で、宝の山の奪い合いが行われ、後には、草木一本も生えない、荒地となる。どんな悪人どもが、営利を貪っているのか。