客と店の関係が、崩れたのは、いつ頃だったか。おそらく、右肩上がりの、最終盤の頃が、それにあたるのではないか。傲慢な態度が、客の側に現れ、その後、一方的な力関係が、築かれたように思う。だが、その直前には、逆の傲慢さが、持て囃されていたことを、忘れてはいけない。
当時、食べさせてやる、という態度を、露わにした、食堂が、各地に現れ、客は、偉そうに振る舞う、店主の前で、縮こまりながら、有り難く頂く、という光景が、映し出されていた。味の良し悪しより、雰囲気が重視され、予約の取れない店や、長蛇の列に、我慢強く耐えるのが、流行と誤解されていた。それが、立場の逆転が起き、客の傲慢さが、当然の権利として、扱われるようになった。ここでも、味の良し悪しより、客としての地位を、高く掲げる場所が、持て囃されることになる。どう見ても、異常な状況にも、普段味わえない雰囲気を、経験できるとなれば、誰しも、魅力を感じることになる。そんなことに、騙されないぞ、と臨んだ人々も、不慣れな持ち上げに、気分が一変し、気持ち良さげに振る舞うのだ。客と店、というのが、商売の場である限り、同じような、金銭の遣り取りさえあれば、同様の事態が、起きることになる。以前なら、金銭を必要とするものの、力を身に付ける為に、必要な場と思われていた場所も、いつの間にか、同じ扱いを受け始め、更に、少子化の影響で、客の数が減ることで、事態は、より深刻化することとなった。少ない牌を、奪い合う状況に、右肩上がりの時代とは、全く異なる形での、特別扱いが、横行し始めたのだ。本来、自らの力を、伸ばす機会を与えるものだったのが、手取り足取り、秘訣を分け与えるかのような、教育の仕組みが、編み出され、その誘いにおいても、過剰な勧誘が、横行し始めている。機会均等、などと言われる一方で、この不思議な動きに、客と見做される人々は、甘い誘惑に、引き寄せられるのだろうか。
地位も立場も違うのだから、他山の石、と見做すべきではない、という意見もあるだろう。だが、それこそが、人間の愚かしさを、如実に表しているのでは、ないだろうか。高い支持率を背景に、傲慢さが膨らみ続け、その挙句に、様々な綻びが、見え始めた。それでも、という思い込みなのだ。
まだ、自らの地位は、揺るがない、という思い込みが、真剣味に欠ける、ウケ狙いの答弁に現れ、売り言葉に買い言葉、という、上に立つ者に、あるまじき態度に、結びついた。周囲を固める、側近達にも、同じ見込み違いが、広がった為か、浅はかな嘘や、頑なな態度を、見せ続けていたが、所詮、根拠薄弱な、過信の現れに、過ぎなかったようだ。移ろい易い数字は、いとも容易く動かされ、昨日までの自信の、源となっていた、高い数字は、あっという間の下落、の憂き目を見た。慌てて、手当に走り、修復を試みるも、一度破れた堤に、自己修復能力は、存在しない。安定政権と呼ばれたのも、過去のことになり、次期政権の担い手が、取り沙汰されるようでは、政の世界では、潔く退くことこそが、肝要とまで論じられる。どんな結果が招かれるのか、まだ、誰にも判らないが、上昇基調が、下降へと移ったことだけは、明らかだろう。人気商売において、落ち目に陥った人々が、どんなに焦っても、その勢いを止めることは、難しいと言われるが、今、どんな逆転劇を、かの宰相は、足りない頭の中で、思い描いているのだろうか。経済の回復も、憲法の改正も、様々に描いてきた、改革の一つ一つが、脆くも崩れ始め、砂上の楼閣、となりつつある。こんな姿を晒しても、描いた夢は、まだそこにあるから、それにしがみつこうとする、気持ちもわからないではない。だが、輝きは失われ、例の病が、ぶり返しそうな気配では、無駄な足掻きに、終わりそうに思える。こんなことは、どんな組織にもあり、どんな人にも、起こりうることではないか。他人事では、済まされない。
非常識は、若者の特権、と言われることもあるが、それにしても、と思うことは、屡々ある。特に、最近の傾向には、驚きを通り越し、呆れることしかできない。これは、社会が、将来を担う人材に、様々な特別扱いを、施した結果なのだろう。つまり、非常識の根源は、大人達にある訳だ。
昔の若者は、背伸びしようとして、非常識な言動を繰り返した。ある意味、真剣に取り組んだ結果だが、その一方で、自らの不明を、薄々感じていたように思う。一方、最近の若者には、そんな感覚は、欠片も残っていない。それまでに受けてきた教育から、信じ込まされてきたことを、根拠として、放たれた言動が、常識を逸脱しているのだ。信じる者は、救われるとの意見もあるが、所詮、非常識に変わりはなく、それを押し通せば、統制が図れなくなる。例えば、海の向こうから押し寄せた、褒めて育てる、という教育方針は、一部で絶大な人気を博したが、今は、殆ど忘れ去られてしまった。図に乗るだけの若者達に、余裕のない大人達は、呆れ果てた訳だが、都合の良い話に飛び付く、若者の特徴は、こんな所にも現れ、自分の能力は、褒められると伸びる、と信じ切っている。これは逆に言えば、伸びた経験がなく、その原因が、褒められたことがないから、と結び付けた結果であり、相変わらず、根拠のない話を、盲信する姿を、晒しているだけだ。叱らないでくれ、と頼むにしても、萎縮するからという理由でなく、伸びる為に必要な要素、と示すことは、身勝手な解釈でしかない。褒めても動かぬ若者に、匙を投げた大人達に、こんな暴言が、通用する筈もなく、一笑に付されるが、発言者本人は、何がおかしいのか、気付く気配もない。そこに、この非常識の問題があり、夢追い人と同じように、甘やかされた結果と、断じるべきと思う。
正論を吐く、には、正しいことを主張する、という面より、場の空気を察することなく、勝手な言動を続ける、という面が、強調される。事の正誤は、状況によらず、はじめから決まっている、と思えるのだが、そうでない、と考える人が、余程沢山居るらしい。自らの愚かさを、棚に上げて。
空気は、掴み所のないものであり、その形は、いとも容易く、変化する。そんな拠り所のないものに、縛られた振りをして、自分の思惑を、押し通す人には、事の正誤よりも、事の成否の方が、遥かに重要、と見做せる。だが、そんなことが繰り返されると、誤った方に向かったものが、そのままに、暴走を続けて、最終的に、取り返しのつかないことになる。思惑通りに、事が運んだにも拘らず、様相が悪化の一途を辿ると、身勝手な人々の多くは、それらの責任を、放棄したり、転嫁することに、腐心するのだ。この中で、正論が、顧みられることはなく、正誤も、無視されたままとなる。批判の集中砲火に、ついに、舞台を去ることになる、という場合が、これまでにも数々あったが、思惑を掲げる人々には、その問題に、気付くだけの能力がないらしい。その一方で、苦言を呈する形で、投げられた正論に対し、空気云々を、持ち出すなど、所詮、常識に欠けた人々と、断じるべきだろう。その非常識を、正当化する為の手段の一つが、場の空気であり、正論を嫌う風潮なのだ。では、そんな人々に、厳しく対するためには、何が必要なのか。最も重要なのは、正論を貫くことであり、論を曲げないことだろう。これは何も、非生産的な、批判を並べるという意味ではなく、誤りを、その通りに指摘し、どう正すべきかを、助言することにある。その結果、嫌われることがあっても、結果は、必ずついてくる。ただ、集団リンチにも似た、最近の風潮に、耐えることは難しい。たとえ僅かでも、周囲の理解は、重要なのだ。
奢り、と聞いて、どんな反応を示すのか。普段通りに、自分の好きなものを、注文する人が、居る一方で、普段ならできない、贅沢をこの際に、と思う人が居る。奢る側からは、出費が嵩むのは、仕方ないことだが、予定以上のものは、何とか避けたい、と思うのが常ではないか。
この図式は、学校や職場での、先輩後輩の間で、成立しているが、最近の傾向を聞くと、昔とは、どこか違うものに、見えてくる。目上の者が、奢るのは、当然のこと、という解釈もあるが、その恩恵に、浴する人が、そんな考えを持つのは、どうにも、傲慢と見えてくるのだ。特に、奢りの為に、先輩が、普段から節約していたり、学生なら、バイトに励むようだと、本末転倒の気がするだけでなく、それらの行為に対して、受ける後輩が、当然と思うようでは、大きな間違いが、横行しているように思える。この状況は、先輩後輩だけでなく、多くの社会現象で、見られるようになっている。生活保護などの、補助金の受給でも、昔なら、気後れを感じていたが、今は、当然の権利として、受け取られる。その結果、多少の誤魔化しは、当然とばかりに、受けられるように細工をすることに、何の抵抗も感じない。弱者を装うのも、こんな世相から出ており、それを、当然とすることで、何の罪悪感も、抱かずに済むらしい。こんなことが、横行する時代には、本来、強者に属する人間にまで、こんな心理に侵され、施しを、要求することが起きる。自助努力を、尽くした上での、依頼ならばまだしも、努力を、最低限に抑えた上での、当然の如くの「要求」に、何の違和感も抱かぬ人々に、何か事を成すことは、無理難題と思える。そんな連中に、何かをやらせるのも、結局は、大いなる無駄であり、成果が上がらぬのも、当然なのだ。実は、補助金と呼ばれるものの多くは、こんな形で、ドブに捨てられる。
情報操作、が日常化してしまい、あらゆることに、流す側の思惑が、加えられている。こうなると、何が真実か、などと論じるのは、全くの無駄なのかもしれない。真実は、何処にも存在せず、その中で、自分にとっての都合が、真偽の判断に、大きな影響を及ぼすようになる。
都合の良いことは、真実と受け止め、悪いことは、偽情報と断じる。こんなことを、行っていれば、そのうち、矛盾を生じることとなり、真偽の判断が、難しくなりかねない。だからと言って、それぞれの情報の真偽を、その内容から、判断しようとしても、詳細に及ぶものでなければ、不十分な為に、基準を適用することも難しい。こんな状況で、唯一の方法として、多種多様の情報を集め、その比較から、真偽を判断することが、注目されている。だが、時間に限りがある中では、常に全てを網羅することもできず、これについても、不足を承知の上で、時には、えいやっとばかりに、決断する必要が出てくる。もし、常に信頼できる筋があれば、そんな手間をかける必要もなく、安心して、それに頼ることもできるが、現状では、そんな存在は、見出せそうにもない。都合の良し悪しであれば、大した手間をかけずとも、判断ができるから、多くの人は、そちらに比重を置くが、聞こえの良い話ほど、信頼ができない時代には、これでは、自己崩壊を招きかねない。こういう人の多くは、二度三度と、痛い目に遭っても、懲りないことが多く、被害は、拡大する一方となる。損害ばかり受けていても、被害者で居れば、ある意味安心と思うのも、現代社会の、不思議な状況の一つとなるが、これが改められる気配は見えない。こんな状態のまま、情報の真偽を論じるのは、やはり、無駄なのかもしれない。人それぞれに、勝手な生き方を選べば、いいだけなのだろうから。
猫の愛玩家が、増えていると言われる。犬の方が、多数派を占めていた時代から、いつの間にか、猫の方に、比重が移ってきた。その理由は、定かではないものの、調査の結果は、確かに、それを示しているとある。庭で飼うことが多い犬と比べ、猫は、放し飼いだったり、家飼いだったりする。
犬も、小型犬であれば、座敷犬などと呼ばれる、家の中で飼うものが、あるけれども、大型犬を、家に上げている所は、それほど多くはない。ウサギ小屋などと、揶揄された狭い家屋では、人間だけで一杯だから、大きな犬の、居場所はないだろう。犬に比べて、猫は、大きなものでも、小型犬と同程度であり、家の中に居ても、邪魔とは感じない。以前なら、内と外を行き来するのが、猫の特徴だったが、最近は、外に出歩かない猫が、急激に増えている。自由なことが、最大の特徴だったのに、それを失うことに、猫たちは、どんな感覚を持つのだろう。一方で、外に出歩く猫には、そのまま、家に戻らないものもあり、いつの間にか、野生化することがある。それだけが原因ではないが、最近は、都会も地方も、野良猫の問題が、大きく取り上げられている。鼠算ではないが、猫は、年に何度も子猫を産み、増え始めると、一気に、その数を増す。その結果、猫害のようなことが、取り沙汰され、嫌う人々だけでなく、愛猫家からも、苦情が漏れ始めている。減らす手立ては、野犬の場合と同様に、捕獲し、殺処分をすることだが、動物愛護の立場からは、強い批判がぶつけられる。そこで、保護し、里親として、育ててくれる人を、探す手立てが、多くの町で進められている。その中で、去勢や避妊などの手術を、施すのも、重要な手立てとなる。ただ、殺処分が、役所の仕事とされるのに対し、保護は、個人の活動であり、手術などの経費も、個人持ちとなる。一部に補助があったとしても、十分なものでないから、持ち出しが続く。社会問題とするなら、もっと別の手立てを講じないと、いつまでも続く話ではない。小さな問題だが、こんな所にも、歪みが溜まりつつある。