パンチの独り言

(7月24日〜7月30日)
(価値、無い物、終演、夢追い、曲解者、無用、記憶にない)



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7月30日(日)−記憶にない

 記憶にないのなら、記録に残せばいい、との意見は、果たして、妥当なものだろうか。元々は、政治という、特殊な世界での茶番が、きっかけなのだろうが、今や、あらゆる場で、記録の重要性が、取り沙汰される。ただ、そこにも、まだ大きな問題が残る。公式と言えるかどうか、だ。
 文書による記録が、専ら使われた時代と違い、今では、その媒体が、多様になっている。始まりは、おそらく、電磁記録のはしり、テープレコーダーによるもので、音声のみの記録であるだけでなく、時間に限りがあり、切り替えの時間が、空白となる欠点も、指摘されていた。それが、いつの間にか、電子記録などと呼ばれるようになり、手の平ほどの大きさで、丸一日の録音さえ、可能となっている。これと同時に、使われていたのが、速記録と呼ばれるもので、話したそのままが、記録されることから、議会などで使われたが、速記者の必要が、大きな問題だった。それに比べれば、手の平ほどの機械が、それに代わり、あらゆる場で、そのままの記録が可能となった。にも拘わらず、依然として、記録の問題が、表に出るのは何故か。話したそのままでは、まともな文章にならないものや、論理の破綻が、露呈してしまうものなど、要するに、話し手の資質の問題が、表面化してしまうのだ。だから、録音は、そのままに残すとしても、それを、整理したメモが、必要となる訳だ。ところが、ここでも、非常識としか思えぬ、馬鹿げた論理が、展開される。記録に基づき、作成されたものが、記憶にないという、主張が、罷り通るのだ。これでは、記憶にない、が常に勝ち残り、記録の意味は、無くなる。それでいいのなら、どうでもいいことだが、これでは駄目とばかりに、録音や録画などという手段を、そのまま残せばいい、という意見が強まる。一見妥当に思えるが、はて、何を語っているか解らぬ人間の、言動をそのまま残して、何になるのだろう。

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7月29日(土)−無用

 弁が立つからこそ、あの職業に就いたのでは、とされる人々が居るが、最近、不祥事が絶えず、また、政の世界でも、情けない程の、しどろもどろさに、弁護を依頼する気は、失せてしまうだろう。法律に通じるからこそ、人の利益不利益に、正当な判断を下せる、筈だったのだが。
 呆れる程の、言い訳の連続に、失言の問題も、大きく扱われたが、前言への指摘に、四苦八苦しながら答える、鉄仮面が映し出され、あれほど大きかった、将来への期待は、何だったのか、と思えてくる。その最中でさえ、台本を読み続ける姿には、期待の希薄さを、禁じ得なかったが、ここまで来ると、誰が書いたかわからぬ、台本通りに、ただ動いていただけの、無能者としか、思えなくなる。試験の合格率から、羨望の的となる、職業の筈なのだが、何故、これほどまでに、役立たずの人間が、国政に関わるのだろうか。更に、問題を大きくしかねないのは、性別のことであり、女性を登用しようとする動きが、近年強まり続ける中で、その的は、次々に変えられてきた。ああでもない、こうでもない、とばかりに、候補に挙げられては、すぐに、忘れ去られる存在に、同じ性の人々の期待は、強まり続けるのだが、猫の目のように、コロコロ変わるのでは、落胆の方が、大きくなるのも、仕方ないことだろう。では、この事態は、好転することがあるのか。おそらく、このまま、興味を引く為の、手段として使われるだけで、実現は、遠いままで進みそうだ。これとは別に、あの職業の方にも、圧力は強まり続けている。育成の為の仕組みも、見掛け倒しに終わり、優秀な人材は、集められない。そればかりか、現職にある人々の、為体ぶりに、人々の評価は、下がり続ける。役立たずだけでなく、要らない職業、なのかもしれない。

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7月28日(金)−曲解者

 誤解され易い。そんなことを、言われたことは、ないだろうか。そんなことはない。常に、正しく生きてきたから、誤解を受けたことなどない。と答える人も居るだろうが、そういえば、と思い当たる人も居る。多くは、正直に、意見を述べるのに、何故、悪意を持たれるのか、と。
 正直さは、ここでは問題とはならない。何故なら、こちらがどうであれ、相手が、悪意を含み、こちらの言葉を、解釈するからだ。特に、正直に語ったことに対し、その思惑は、などと揶揄されると、心外と感じるが、相手は、大真面目に、こちらの言葉の真意を、見定めようとする。結果として、真意ではなく、曲解を施し、そこに、まるではじめからあったかの如くに、悪意を込めるのだ。そんな輩に限って、まるで、発言者本人が、語ったかのように、自ら施した曲解を含む、内容を流布し続ける。人間の貧しさの為か、はたまた、卑しい為か、こんな嘘つきに、見事に騙される人が、居ることに驚かされる。その上、根も葉もない噂は、人伝てに広がり続け、枝葉がつけられた挙句、極悪人の発言と、断じられることとなる。元の発言が、正論であればある程、この傾向は強まるようで、正論を理解できぬ、無能な人間が、そこになかったものを、思惑として付け加え、誤解を拡散し続ける。これほどに心外なものはないが、これを防ぐ手立てはない。誰かが、勇気を持って、嘘つきの嘘を、暴露しない限り、拡散を止めることは、できないようだ。では、はじめの時点で、不埒な輩の介入を防ぐことは、難しいのか。おそらく、丁寧な説明が、手立ての一つとなるだろうが、正論には、本来、説明は無用なのだ。それを欲する人との会話では、結局、説明は受け入れられず、ただの思惑に変えられる。だったら、もう、そんなことは、どうでもいいとなる。誤解するような無能者を、相手にしなければいいのだ。

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7月27日(木)−夢追い

 若い人々に、「何の為に働くのか?」、という質問をすると、ほぼ確実に、お金の為、という答えが返ってくる。何も間違っていないのだが、何とも言えない、違和感が残る。自分が、その年齢だった頃、どういう考えを、抱いていたのかを考えて、ハッと思った。何故、理由が必要なのか、と。
 当時は、働くのは当然のことであり、皆がそうしているから、という言い方もあった。だが、その後の教育の悪影響により、あらゆることに、理由が必要であり、目的を持つことが、不可欠と教え込まれているのだ。だが、当然が、理由にならないのか。殺人は、何故いけないのか、という質問に、様々な理由を並べられても、納得できなかった、という人も居るだろう。極端な例だが、何事にも、理由や目的が、などと、したり顔で押し付ける、教育者達は、自らの言動を、正当化することに、目を奪われ、本質に目を向けない。その結果として、こじ付けとも思える、理由や目的を、並べ続けるのだが、本人は、そんな考えで動いたことがなく、無駄口を叩いている、という実感さえ持つ。無駄なら、さっさと捨てればいいのに、捨てられないのは、教育の効果であり、洗脳された結果なのだろう。収入を得る為、という理由で、働き始めた人々に、毎日の苦行は、大きな負担となるが、それに耐えてこそ、人生の目標を、達成できると信じるしかない。更に事態を悪化しているのは、夢を追え、と言われ続けてきたことで、お金の為と言いながら、一方では、そこに夢を見出さねばならず、戸惑いは、広がり続ける。精神的な圧迫を、如何に取り除くかを、議論する一方で、こんな圧力をかける現場に、期待しても無駄なのだ。結局、そういう状況に、違和感を抱き、教師の指示に、従わなかった若者が、自由を手にするけれど、それを謳歌する為に必要となる資格は、手にする機会を奪われる場合が多い。ふざけた話ではないか。

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7月26日(水)−終演

 芝居ならば、一流だろうが、三流だろうが、最後には、拍手を送られ、幕が降りるだろう。だが、この三文芝居なのか、はたまた田舎芝居なのか、は、定石となった、幕引きと呼ばれる儀式で、消化不良の状態のまま、終わることに、なるらしい。肝心の信頼は、どこかに忘れられたままに。
 予想通りの展開に、煮え切らない気持ちを、持ち続ける人も多い。記憶にないとの抗弁に、記録を残せと言われたものの、会議中の記録は、個人的なメモと断じられ、認めない姿勢が、突如として出てくる。これも、ご都合主義の表れに過ぎず、都合のいい記録は、公式と、後付けで認め、悪いものは、非公式と断じる。記録も、文書化したものが、こんな扱いを受けるのであれば、同時に、録音をした筈なのだから、それを引っ張り出せばいい。それができない理由は、ある意味、明らかなのだが、録音を常とすれば、不用意な発言や、記録に残したくない汚点などは、発せられることが、無くなるのではないか。それにしても、これほどにあやふやなままに、国の政が行われ、それが、人の利害へと及ぶのでは、いい加減にしてくれ、とでも言いたくなる。所詮、その程度のもの、と思うのであれば、これほどの無駄を、議論などと大袈裟に、捉えなくてもいいのではないか。芝居は、今回のものも含め、皆が、台本を読むだけのことで、本物の芝居のように、覚えた台詞を、如何に感情を込めて、演じるかという、ある意味の臨場感さえない。多種多様な質問に、応じる為には、準備が必要との主張は、間違いとは言えないが、答える人間が、別の人間が書いた台本を、読むだけの行為なら、そこに、演じる人間は、必要とならない。ただ、その文字を、画面に映し出せばいい。それが、記録になるだけのことだろう。

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7月25日(火)−無い物

 信頼を回復しよう、と躍起になる姿が、画面に映し出される。本人は、ほんの少し前まで、あれほど、信頼を勝ち得たと、自信に溢れた態度が、取れていたのに、今の卑屈さは、なんだろう、と思っているだろうが、実は、どちらにしても、信頼に値しない、嘘と偽りに塗れた、人物に過ぎない。
 態度を改めることでさえ、一度は、口先だけで終わったのを、どんな言い訳をするのか、期待する人も居ただろうが、実際には、政治家の常とする、記憶喪失によって、何事も無かったかの如く、いけしゃあしゃあと、嘘を繰り返す。明らかな嘘かどうか、そんなことは、この際、どうでもいいだろう。口喧嘩の体を為さずとも、あの口から出てくるのは、所詮、信頼の価値のない、嘘八百に過ぎないのだから。それでも、何とか、自己矛盾に陥らせようと、同じ穴の狢共は、揚げ足取りを試みる。だが、これも、同じ穴に過ぎないのだから、急所を突くような、舌鋒の鋭さは、欠片も見えてこない。思考力もなく、論理性もない、そんな言葉の羅列を、当人達は、詰問と思い込んでいるが、子供の口喧嘩でさえ、あんな生温さは、ないだろう。そんな茶番を繰り返すのか、まだ、終わっていないのだから、期待を失ってはいけないが、同じことが繰り返されそうな、気配は、確かにしている。失われた信頼を、真摯な態度を示せば、取り戻せると信じるのは、本人の勝手だが、ほぼ不可能なことであり、前回の退陣同様の、過激な動きをもってしても、回復は、見込めないだろう。実際には、元々、信頼に値するものではなく、ただ、口先三寸で、場当たり的な嘘を、繰り返してきたに過ぎず、無いものが、あるようになることなぞ、ある筈も無いのだ。根本が、そこにある限り、どんな茶番も、空回りするしか無い。

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7月24日(月)−価値

 物価が、思い通りに上がらない。経済政策に、携わる人間にとって、命題とされたものが、成立しないとなれば、政策の間違いや、理論の見誤りなど、原因は、様々に考えられるが、何より、上がることを前提に、築き上げた計画が、頓挫し、破綻することが、最大の問題となる。
 変化を前提とするにしても、これほどの停滞が続くと、根本から、考えを改める必要が、感じられてくる。では、どちらに変えればいいのか。その答えは、見出せそうにない。特に、経済理論が、通用しない状況が、徐々に、明らかになりつつある中では、拠り所を失い、見通しができないのだから、手の施しようがない、というのが、正直な反応ではないだろうか。誰しも、支出ばかりが増え、収入の増加が、見込めない中では、将来への不安だけでなく、計画を立てることの、虚しさにも、心を痛める。では、どうしたらいいのか。市場原理を、持ち出す場面ではないが、成るように成る、しかあり得ない、のではないか。そんな状況下で、物の価値に対する考え方が、別の形で、見直され始めている。値段こそが、最重要と考えられ、過当な安売り競争が、巻き起こった結果、確かに、安いものを手に入れることが、可能になったものの、いつの間にか、価値を考える気持ちが、失われてしまった。価値を見極めずに、価格だけで決めることは、生活を守る為に、重要と考える向きもあるが、実際には、価値判断なしに、決めることは、損を被る可能性を、高めている。いつになったら、このことに気付くのか、見通しは暗いままだが、この状態が続けば、正当な価値を主張する製品は、市場から姿を消し、使い捨ての風潮が高まり、自らの人生をも、使い捨てとする人が、増えそうに思う。製品の価値を見極める力は、当然、人の価値を見る為に必要となり、結果として、自己評価にも繋がる。安易な考えが、こんな巡り方を、しかねないことに、早く気付かねばならない。

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