夏祭りが、各地で行われている。長い歴史を誇るものから、歴史は浅いものの、地元だけでなく、多くの観光客を、集めるものまで、それぞれに、賑やかさを見せている。だが、人数は、実は重要なのではなく、参加者の熱気こそが、夏祭りの真髄なのでは、ないだろうか。
今でも、常識外れの騒ぎを、祭りの核心と、考える人々が居る。だが、それが、他人に被害を及ぼすものであると、今の状況では、継続が難しくなる。程度にもよるが、怪我人が出たり、果ては、死人までが、出てしまうようなものだと、時に、厳しい批判の声が、浴びせられる。自分の楽しみの為に、年に一度の祭りに、血道を上げる、という人が居るのは、当然の権利のように、扱われる一方で、それが、自分の命さえ、蔑ろにしてしまう場合、果たして、それ程の価値があるのか、という意見が出されることもある。安全第一、という考えで、激しさを抑えてしまうと、肝心の荒々しさが、失われるとしたら、それは、祭りの真髄を、侵すものとなるのではないか。そんな心配が起き、無難な形での、継続を目指した時代も、あったのだが、今では、ある程度の危険は、止む無しとの考えで、安全性を図るものの、ある程度の危険は、付き物と見る向きもあり、規模を縮小させても、核となる部分については、継いで行こうとする動きも、多くなっている。難しい決断を、迫られる場合もあるが、一人一人が、気をつける事で、ある程度の危険までは、避けられるのであれば、その範囲で、楽しむことこそが、夏祭りとなる訳だ。その場に出かけると、熱気に巻き込まれ、自身の判断が、鈍る場合もあり、簡単にはできないのだが、冷静な人を、配すことによって、何とか保とうとする。伝統を守ることも、難しいようだが、いい加減に扱うと、一気に潰されてしまい、途切れてしまうもののようだ。
気候変動について、賛否両論があるが、データを見ても、単に揺らいでいるのか、それとも、徐々に、ある方向に変化しているのか、定かではない。互いに、根拠を示しつつ、持論を展開するが、その多くは、分析の結果というより、結論ありきに思える。これでは、議論が成り立たない。
温暖化についても、データが示す所から、変化が歴然である、との主張があるが、それが、一時的なものか、それとも、別の状況への変動の過程か、現時点で、知る術はない。では、彼らの示す根拠とは、どんなものか。数値の変動は、確かにあるけれど、その先を予測することは、困難である。だから、別の事象を、引き合いに出して、それが、確固たる証拠のように、論じるのだ。例えば、野生動物や植物の分布が、大きく変動するのを、示すのも一つだろうし、極端な気候を、例示するのも一つだろう。だが、それとても、大きな変動の中の、揺らぎに過ぎないのか、それとも、その過程の上であり、更なる変化が、起きる兆しと見るべきか、知る術は、やはりないのだ。所詮、結果論に過ぎず、予測不能だとしたら、こんなことを、心配しても意味がなさそうに思う。特に、将来への不安を、口にする人々について、自分の命が絶えた後まで、心配することに対して、意味は感じられない。最近感じる変化も、果たして、気候変動によるものか、それとも、地域の違いによるものか、判断がつかない。移動を繰り返した結果であり、時代の違いと地域の違いが、重なり合ってしまうと、どちらが原因なのか、区別がつかないのだ。子供の頃の夏休みには、ツクツクボウシの鳴き声が、聞こえ始めたら、宿題が気になったものだが、当地では、今頃、既に鳴き始めている。ヒグラシの声は、西の方では、山地でしか聞こえなかったが、これも早くから鳴き始め、ミンミンゼミやアブラゼミの声とともに、競い合いが起こる。こういう違いを、どう見做すかが、主張の違いから来るとしたら、実しやかな説明も、簡単にできるだろう。
この国には、独特の分類がある、と言われる。得意分野を、示すことは、どの国でもあるが、それを、文系と理系、という形に分けるのは、余りないことらしい。そういえば、大学などで使われる、専門分野において、英語圏では、science、科学がつけられることが多いようだ。
そんな習慣を用いると、文系と理系も、人文科学や社会科学に対して、自然科学などと呼ばれるだろう。こう考えると、文理がどうこうなどという必要はなく、全体を包含するように、科学が横たわっている、となる。以前は、記憶主体の分野と、思考主体の分野、などと分けられたこともあるが、最近は、全てに渡って、意思の疎通である、コミュニケーションや、論理的な思考が、必要とされるから、こんな分け方は、無用のものとなったのではないか。元々は、学問分野を分類する為に、用いられてきたが、学ぶことより、働くことが、重視されるようになるにつれ、職業選択との関わりに、触れられるようになった。理系の人の仕事は、技術に関わることから、製造現場が職場となるのに対し、文系の人の仕事は、物の売り買い、つまり営業が主体となる。そんな見方が、主体となり始めた時代には、理系の人間は、営業に不向きと考えたり、本人が、営業活動は苦手、と自己分析することが多かった。その境界が、曖昧となるにつれ、理系人間が、金融業に進出したり、技術営業などと呼ばれる、職種に進出し始め、文系の牙城が崩され始めた。一方で、文系人間も、IT企業に顔を出し、開発に携わるようになった。こんな状況にも関わらず、依然として、文理を分けて考える人が多いのは、実は、学ぶべきものによる、違いが歴然とあるからだろう。得手不得手だけで、職業選択にまで、影響を及ぼすのは、馬鹿げたものではないか。人生という、将来を見通す必要があるものに、目の前の問題しか考えていないのだ。
競争があるから、それを勝ち抜く、手立てを講じる。という考えには、何処にも、変な所はない。だが、自分を高める努力を、怠らないという代わりに、別の手段を講じたとしたら、どうだろうか。国際競技に、注目が集まる度に、薬の助けを得た人々が、厳しく処分される。
通常の食事から、得られるものであれば、何の問題もないのだが、それが、人間の手で作られた、薬剤となると不正と断じられる。天然物であればいいが、人造物では駄目、という考えに見えるが、実際には、化合物の構造には、天然も人造も、違いは出てこない。そこに問題を置くのではなく、禁止薬物と呼ばれるものを、多量に摂取することで、人間の体に起きる、変化を問題としているのだ。ある食物を、異常とも思える量、摂取すれば可能でも、薬剤であれば、一粒で済む、となれば、結果から推測できる、という訳だ。ただ、そこに、意図があったかどうか、が時に問題となる。支援者が、本人に知らさずに、投与している場合もあり、最近は、複雑な問題として、紹介される。それでも、自己責任と見れば、結果が全てとされ、処分が下される場合が、多いようだ。一方、昨日取り上げた、研究の世界での、不正に関しては、どうだろうか。ここでも、最近は、競争が激化しており、地位を手に入れる為どころか、研究費の獲得においても、数字を追い求める、厳しい競争が、存在すると言われる。それに勝ち残る為には、論文を数多く発表する必要があり、結果を手に入れる為に、ある程度の不正は、止むを得ないと見る人も居るようだ。捏造や改竄などを、繰り返すことで、耳目を集める成果を得、それによって、地位も資金も、手に入れたとしたら、それらが発覚した時には、大きな代償を支払わねばならない。こんな話題が取り上げられる中で、不正に目が集まるが、その陰で、真面目に取り組む研究者が、冷遇される現実には、誰も目を向けない。こんな事件が起きても、彼らに機会が与えられる訳ではなく、何も変わらない。
不正が、発覚する度に、原因究明や、責任追及が、取り沙汰される。当然の如くに、扱われるけれど、本当に必要なことなのか。原因があるのは当然だが、それを、不正の主のもの以外に、求めることに、どれ程の意味があるのか。不正を働く輩の、私利私慾以外に、何があるというのか。
こんなことを、不思議に思う人は、今の社会には、殆ど居ないのだろう。だからこそ、当事者以外に、原因を求め、そこに、責任を集中させる。人間は、所詮、弱い生き物だから、外からの影響を、受け易く出来ている。だから、何か悪事を働いても、それは、本人の意思とは、無関係なことである、とでも、言いたいのだろう。罪を認め、過ちを悔いたのなら、それを、赦すべきという、考えに基づくようだが、こんな扱いが、注目されることの多くで、当事者は、何の反省もなく、言い訳を繰り返す。政の世界では、日常茶飯事であり、昔から、こんなことが、何度も繰り返されてきた。それに対して、別の世界でも、同じようなことが、起こり始めている。昔と違うのだから、何らかの、環境要因がある筈、とばかりに、原因を追い求める人が、出てくるのだが、どうにも、的外れに見える。その世界とは、科学の世界であり、研究の世界である。純粋無垢な人が、一心不乱にのめり込む、そんな対象として、昔から認められ、不正とは無縁の世界、とされてきた。それが、最近の話題では、多くの不正が発覚し、何か大きな変化が、あったと見る向きもある。成果主義が、前面に出され、それが昇進にも影響するとなり、不正を働いてでも、と思うこともあると言われる。だが、昔も、改竄や捏造は、あったとも言われ、昇進の思いは、同じとも言える。環境の影響は、確かにあるだろうが、それを受けるのも、本人の心掛け次第、だろう。このくらいなら、と思う人に、手を差し伸べるのは、無駄だと思う。
ここは、書いたものを、一週間ごとに整理し、番号を付けて、引き出せるようにしてある。15年程前に、書くことを始めて以来、付けた番号が、800となった。三桁で整理することにしているから、結局は、999になった時点で、終了とするつもりだが、どうだろうか。
途中、ほんの偶のことだが、書けなかった時もあるから、単純な計算で、済ます訳には、いかないが、5,600程の独り言を、書いてきたことになる。よくもまあ、と思う所もあるが、実際には、同じ話を、何度も書くことも多く、それだけの話題を、こなしてきたとは言えない。ただ、そうは言っても、これほどの量の文章が、ここだけで、仕舞い込まれており、世の中で、日の目を見ない、雑文が、一体全体、どの程度の量あるのか、全く分からない。以前なら、日記を除けば、殆どの文章が、何らかの形で、人の目に触れたものだが、今は、全く逆の状況が、生まれている。SNSに属する文章でも、単なる落書きに過ぎず、誰の目にも、触れないものばかりだろう。こんな状況が、生まれてきたのは、おそらく、欲求不満の解消としての、文章書きの機会が、与えられてきたからであり、それによって、人々の不平不満が、解消されるという、効果があったからだろう。そんな目的であれば、読み手の存在は、大したことではなく、ただ、書き終えれば、それでおしまい、となる。しかし、本当にそれだけか、と考えると、どうも、事情は違うようだ。人の歓心を買い、読み手の数が、増え続けることを、第一の目的とする人も多く、その為に、真偽入り混じる、文章を書き散らかす、人の数も、増えている。噂となる為には、真実であることより、話題性が優先され、それにより、嘘が大部分となることも多い。それでも、人の気を引ければ、それで満足となる。そんな人間には、なりたくもない。
悪いことばかり、並べられている。経済が縮小し、景気は良くないと感じられ、少子高齢化により、将来への不安は、膨らみ続けている。どれも、数字を並べれば、明らかなものばかりだが、感覚は、数字に表れるとは限らない。成長期に入る前の時代に、夢は描けなかったのだ。
将来への不安、という感覚ほど、不思議なものはないと思う。現状より、悪くなることが、その最大要因だろうが、満足できる生活を、手に入れた途端に、不安が、頭を擡げるというのは、理解不能なものに思える。そんな見方を、しようとする人が、数少ないからこそ、大勢を占める、不安感に苛まれる人々の、意味不明な言動にも、恰も、同意が得られているかの如く、扱われるのは、不思議以外の何物でもない。論理は微塵もなく、感情ばかりで、冷静さが失われており、反論には、激情で応える、という状況では、触らぬ神に祟りなし、とか、腫れ物に触るよう、とか、そんな状態にあるのではないか。これでは、解決策を講じようにも、すぐに手に入るもの以外には、受け入れられなくなる。票を追い求める政治家には、これはまさに好都合となるが、愚策の連鎖に、根本解決は、遠のくばかりとなる。安定した生活が、手に入ったとしても、それが、将来への不安を、膨らませるとしたら、何かしらの解決策が、必要と思うのだろう。景気を回復する手立てとして、国内消費も、輸出も、様々な事情により、好転しそうにもないからか、別の産業に、話題を転換しようとする動きが、この所、増し続けている。観光という名の産業は、番号付けをすると、どれに属するのか、定かではないが、急増する観光客に、先行きの明るさを、見るらしい。だが、これほどに不確かなものはない。関わる人間は、この国とは何の関係もなく、政情の不安定が、状況悪化に繋がる可能性も大きい。その上、魅力の解釈が、不確かなままだけに、更なる梃入れは、難しそうだ。それでも、手詰まりよりはいい、ということなのか。