パンチの独り言

(8月7日〜8月13日)
(打破力、手助け、慰霊、手厳しさ、圧迫、真正直、代償)



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8月13日(日)−代償

 欲に目が眩む、と言って仕舞えば、それまでだろう。だが、地位や金という、目標を眺めてみても、こんな状況になるなんて、と思った人が多いのではないか。昔から、研究費は、それなりの額を、と言われてきたが、不正によって、手に入れた金額は、驚くべきものだった。
 確かに、不正を働いた人間の責任は、何よりも重いだろう。だが、これ程の額になったのは、別の要因がある。一点集中などと言われるが、高額の費用を、ほんの一握りの人々に、分け与える。最近の方式は、こんな形で行われている。全か無かの法則、ではないだろうが、不正を働くきっかけの一つに、非常識とも思える、高額の補助金が、関わっている。これまでにも、バレずに済んだ人は、多くいただろうが、最近の監視体制は、そういう甘さを、断ち切ったものと言われる。それでも、上手くごまかしながら、巧みにすり抜けた人々が、地位も金も、手に入れるという仕組みに、やはり、多くの実直な人々は、やりきれないだろう。だが、この図式も、単純ではなさそうだ。それほど、耳目を集めない研究でも、日々、不正が行われ、それにより、何らかの権利を手に入れる。研究者の始まりは、学生のうちに、起きるものだが、その時にも、嘘や誤魔化しが、横行していると言われる。こんな状況が、起き始めたのは、やはり、高額の補助金が、配られた頃では、ないだろうか。欲望を満たす為に、様々な努力を、惜しまぬように、と言われるが、欲の方が、膨らみすぎると、制動が効かなくなる。その結果、こんな事態が、起きるのだ。確かに、本人の責任は大きく、それを果たさせる必要はある。ただ、それに加えて、仕組み全体の問題を、改めて議論する必要も、あるに違いない。

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8月12日(土)−真正直

 嘘はいけない、ということは、誰もが知る所だろう。だが、その場凌ぎのものと違い、思惑を抱いたり、利益を求めようとして、吐いた嘘については、誰もが、正当化に躍起となる。だが、所詮、嘘は嘘である。どんなに正当化したとしても、その嘘を、真にできる訳はない。
 こんな当たり前のことに、気付かぬままに、暴言や失言を、繰り返すのは、政治家の得意技のように、扱われるが、最近の息苦しさは、これまでとは、全く異なる状況を、生じているようだ。あらゆるところに、記録媒体があり、個人的な会話までが、白日の下に晒される、油断も隙も、と思うこともあるが、実際には、信頼が失われる訳で、どちらの側も、失うものが大きい。支援者との会合なども、裏切り者が闊歩するようでは、形式的な話しか、できないだろう。正直者が、損をするとも言えるが、本当に正直ならば、さほど心配する必要はないのかもしれない。全てが、嘘ではなく、真であれば、逃げ隠れする必要もなく、自らの主義主張を、貫けばいいだけだ。一方で、本当に問題となっているのは、嘘に塗れた人々であり、それを重ねることで、手に入れた地位を、失うことになりかねない。ここでも、以前とは異なる、一種の監視体制が、整えられたことが、大きな違いを産んでいるようだ。政治家のみならず、あらゆる人々の発言は、何らかの形で、記録され、その後、公にされる。情けない時代、と言えば、その通りだろうが、渦中の人々は、大真面目に、自らの正当性や正義感を主張する。汚れなき世界と思われた、研究の世界も、実は、そんなことなどなく、地位を手に入れ、支援を得る為に、都合のいい嘘が鏤められる。以前なら、見過ごされることが多かったが、今では、告発などという形で、暴露されるのだ。真実を追い求める筈の世界が、筋書き通りの展開を、好まれるようになって以来、こんな状況が続いている。正直者は、ここでは、バカを見る存在なのだ。

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8月11日(金)−圧迫

 安定した時代には、変化が少なくなる。だから、決まったやり方で、同じように繰り返せば、何の心配もない、と思うのだろう。ところが、始めは上手くいっても、次からは、思うようにならない、ということがある。経験が活かせない、とも言えるが、実は、同じことの繰り返しではないのだ。
 手法が同じでも、それが適用される環境が、異なってくる。安定しているとはいえ、全く同じ環境が、続く訳ではなく、僅かな違いが含まれる。それでは、同じことが、同じようには、繰り返されない。だから、少しずつ、変化を加え、微調整を施さねばならない。これが、与えられたものとなると、謳い文句程の効果が、現れないことから、受け取る側に、不満が残る。本来なら、微調整は、どちらの側でも、施せることだが、受身に回る人々には、そんな気配は見えない。その代わりに、現状への不満を、吐き出し続け、与える側には、動揺が走ることになる。だが、確実な方法として、新たな修正を加えるのは、かなり難しいことであり、試行錯誤は避けられない。これが、不満を更に膨らませ、不安定な状態が続く訳だ。それがきっかけとなり、社会全体に、不安感が広がり始めると、折角の安定も、その基盤を失い始める。一度、安定が崩れると、それを、再び元の状態に戻すことは、難しい。そうならないように、様々に、策を講じるべきだが、安定に浸った人々には、新たな策は、簡単には浮かばないようだ。それより、不満を抑え込む方が、簡単との考えからか、制限を加えることが、多くなるのも、特徴の一つかもしれない。打開策が浮かばず、あれもこれも駄目と、足枷を噛ませれば、確かに、不満は消えたように見える。だが、それは、単に覆い隠しただけのことで、燻り続けていることに、変わりはない。自由を奪われることが、不満爆発の、最も大きな要因であることに、抑圧をかける人々は、気付かない。

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8月10日(木)−手厳しさ

 人材育成は、いつの時代も、喫緊の課題として、取り扱われる。絶対的な手法が、確立されていれば、こんなことを、話題にする必要はなく、その手法を、粛々と進めていけば、いいだけだろう。実際には、そんな手法が存在せず、誰もが、試行錯誤を繰り返している。何処にも、答えはないらしい。
 答えがないからといって、そのまま、思いつきを繰り返すと、とんでもないことが、起きかねない。現状は、どちらかと言えば、この方向に進んでいるようだ。出鱈目な方向に、それぞれが、勝手に進み続け、その結果として、上手くいった人と、そうでない人が、世に溢れ続ける。勝ち組と負け組、などと、勝手に分けられるが、他力本願で、依存的な人々にとって、何とも迷惑な状況が続く。何故、こんなことが続くのか、その説明さえ、施してくれることは、殆ど無い。答えがないから、答えようがない、との弁明に、渦中の人々からは、不満の声が上がる。自分の能力を高めねば、競争を生き延びることは、難しいと言われる一方で、放置されたり、勝手な思いつきを押し付けられたり、迷惑以外の何物でもない。だが、そこで、自主性を主張し、自分なりのやり方を、認めてもらおうとする、勢いがある訳ではない。結局、作られた環境の中で、不平不満を持ちつつも、そこでのやり方に、従っているだけのようだ。実際には、こんな状況が続けば、育成からは程遠い状況しか、生まれない。そこで、再び、勝手な意見が提出され、従来とは全く異なる、新しいやり方が試される。いつまで続くのか、誰にも分からない。だが、これが続く限り、当たり外れは、時の運としかならず、育成とは名ばかりの、勝手気侭なやり方が、横行するだけだ。この中で、基本となるやり方の中に、気になる部分がある。叱るとか批判するとか、そんなやり方を避け、褒めて伸ばす、というやり方が、好まれる傾向にあることだ。どんな状況でも、これが通じると信じるのは、人の勝手だが、それが、人の将来を決めることに、もっと注意深く取り組む必要があると思う。厳しさも、時に、必要なのだ。

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8月9日(水)−慰霊

 この時期、色々なことがあり、慰霊が行われる。それぞれに、慰められる霊は、異なるものの、きっかけとなったものが、共通する為か、そこから導き出される、主張のようなものが、語られるようだ。そのこと自体を、批判すると、また炎上となる訳だが、本当に、彼らの主張は正しいのか。
 慰霊という意味で、その気持ちを、尊重する必要は、誰もが認めるものだろう。それに、先祖を敬う気持ちも、尊重せねばならない。だから、これを、祭りの如く、行うことに対して、反対を唱えるつもりはない。問題は、これに乗せて伝えられる、政治的な意見にあり、持論を展開する気だけで、慰霊の気持ちが、欠片もないことに、大きな問題があると思う。確かに、戦争に反対する気持ちや、核兵器に反対する気持ちは、多くの人が抱くものだが、そればかりを取り上げることで、この季節に、国中で行われる、先祖を迎える行事が、別の目的に、使われるのは、どうかと思う。主義主張が、あることは、人間として、当然のことだろうが、それが、異なるからといって、相手を糾弾したり、批判の矢を放つのは、如何なものか。同じ目的を持っている筈の人々が、組織を分裂させ、違いを際立たせるような、議論を展開していたが、最近は、その話題が、殆ど取り上げられない。おそらく、中心となっていた人物が、高齢化する中で、徐々に、姿を消していった為、と考えられるが、真相は、明らかとはされない。本来、政治集団であれば、後継を作り、活動を継続するものだが、そうならなかったとしたら、主義主張の核心が、継続し難いものだったからかも、しれない。何れにしても、折角の機会に、慰霊より、兵器や戦争への反対が、優先されるのには、強い違和感を覚える。彼らの目的は、どこにあるのだろう。

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8月8日(火)−手助け

 羹に懲りて膾を吹く、と表現したら、まさに炎上しかねない。弱い者を、保護する世相では、彼らの主張に、反対しようものなら、総攻撃を受けることとなる。人権尊重の観点から、このような動きが、出てきたと伝えられるが、まるで、腫れ物に触るような、こんなやり方が、正しいのか。
 一生に一度あるかないか、というような、大きな衝撃を受けると、人間は、あらゆることに、戸惑うようになる。ある決断により、窮地に追い込まれた場合、何かを決めること自体に、抵抗を覚えるようになるのだ。だが、過ぎたことは、もう戻せない。それを、いくら悔やんで見ても、戻ることなど、起き得ないのだ。だとしたら、新しい環境で、どう対応するかを、考える必要がある。冷静に構えれば、それなりの答えを、導くこともできるが、衝撃が大きいと、多くの人々は、お手上げ状態に陥るようだ。だからと言って、周囲が、同調する必要はない。不安を口にし、心が保てなくなっている人に、掛けるべき言葉は、同情とは限らない。それより、これから始めることに、もっと力を入れるべきと、助言することこそ、大切なのではないか。不幸に落ち込む人を見て、どう考えるかは、人それぞれと思うが、最近の風潮では、彼らに、優しい言葉をかけ、救いの手を差し伸べるのが、当然と考えるようだ。しかし、心配が膨らむだけで、落ち着きを失う人々には、優しい言葉が、必ずしも、効果を産む訳ではない。事態を好転させる、手立てを考えることこそが、打開の道を、開くのではないか。そういう思いで、元気付けようとする動きに、大衆は、総攻撃を加え、その場を炎上させようとする。正義を主張するのだろうが、実際には、盲目的な動きに過ぎない。冷静さを失い、こんなことをし続けるのでは、社会の秩序は、保てそうにない。

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8月7日(月)−打破力

 安心や安全について、様々なことに対して、議論が行われるが、本来なら、もっと真剣に取り上げられるべきことが、実は、殆ど無視されていることに、気付かぬ人が多いようだ。環境や経済に対する、不安の数々では、直接的な影響ばかりが、取り沙汰されている。
 だが、その担い手について、不安がない訳では、ないだろう。経済を支える為に、彼らには、十分な働きを、して貰わねばならない。ところが、目の前にある問題を、解決しようとする余り、彼らが持つべき、能力の欠落を、二の次としてしまう傾向がある。確かに、担い手そのものの存在が、脅かされるような状況は、避けねばならないことだが、だからと言って、肝心なものを持ち合わせず、社会への依存を強めただけの存在が、増えるばかりでは、社会は成立しなくなるだろう。誰もが、高低の差や意識の有無などの、違いはあるものの、課題を乗り越え、それを達成することで、新たな能力を、手に入れることができる。過負荷な状況も、時には必要であり、それを、避けようとする決断や、立ち向かい続ける判断も、その中で、解決への糸口を、見い出す為に必要となる、手立てとなり得る。だが、最近の状況は、窮地に陥っているとの判断に基づき、それらを排除することで、救い出そうとすることで、いっときの困難を、克服したように見せるやり方が、多用されている。結果は、ある程度明らかになりつつあるが、無能な人々が、放置されることとなり、担い手が、見出せない状況が、強まり続けている。いざ、必要となった時に、それに気付いたとしても、時既に遅しであり、鍛えるべき相手さえ、見出せなくなっている。どうすればいいのか。ある意味、歴然としているが、負荷を与える必要性を認め、回避だけを、選択とさせないことが、重要だろう。壁に立ち向かわぬ人間に、事を成すことができない、という事実を、改めて認めなければならない。

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