パンチの独り言

(8月14日〜8月20日)
(無駄玉、歪曲、悔いる、罵倒、啓蒙、偽物、算盤勘定)



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8月20日(日)−算盤勘定

 事情が許さない、という理由は、どの位通用するものだろう。事情には、個人的なものから、社会的なものまで、様々にあるが、それにより、通用の程度が、変わるようだ。その一方で、自分の力で、何とか克服できそうな、個人的なものに比べ、社会的なものは、如何ともし難いようだ。
 高齢化社会が、到来して以来、様々な問題が、生じ続けている。介護も、大きな問題だが、体が丈夫なままの人が、巻き込まれる問題の方が、数から見れば、遥かに大きなものだろう。日常生活には、支障が出ていない高齢者は、数え切れない程だろう。要介護の人が、大きな問題を、抱えているのに対し、何ら、困ったことがないから、問題なしとするのは、かなり乱暴なものだ。特に、自身の問題ではなく、周囲に、迷惑が及ぶものとなると、看過できない問題となる。若者でも、不注意から事故を起こすことから、運転免許の問題は、社会全体が抱えるものと、なっている。そこに、以前ならば、大した数にもならなかったから、見過ごされていたのが、高齢者の運転の問題だろう。運転技能の低下だけでなく、最近は、日常生活にも支障を及ぼす、認知症の問題が、加わっている。その為、更新手続きを、より厳しくしようとする、動きが、全国で強まっている。以前なら、家族の問題として、自主性に任せていたが、事故が度々起こり、社会問題となりつつある中では、致し方ないだろう。楽しみを奪うとか、生活が成り立たなくなる、などという、批判の声は、止むことはないが、一方で、社会全体で支えるべきものも、多くあるように思える。交通手段を、奪うことになる、という指摘に対し、公共交通の整備が、応えられるものは、大きい筈だが、金銭的な支援を含め、問題山積と言われる。だが、自家用車の維持にかかる費用と、比較することなしに、こんな議論が進むことに、違和感を抱かないのだろうか。単純な計算を、進める気もなく、規制を進めるのは、愚の骨頂に思える。

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8月19日(土)−偽物

 身近な話題に潜む、科学への解説が、随筆という形で、行われるようになったのは、漱石の小説が、新聞小説という形で、庶民大衆の目に、触れていた時代と重なる。旧制高校の英語教師から、帝国大学の教授へと昇進した夏目金之助は、窮屈な生活から逃れる為、文筆活動に入ったと言われる。
 だが、持病の胃潰瘍は、その後も、癒えることはなく、人生50年を、終えることとなった。彼の、旧制五高の教え子の一人が、寺田寅彦であり、英語は勿論だが、どちらかと言えば、俳句の師弟関係として、その後も親交が続いたと言われる。身近な弟子達とは異なり、英語と物理という、幾らか距離があいた、師弟関係では、べったりとは異なる、いい関係が築けていたようだ。だからこそ、小説の登場人物の中に、寅彦の面影が、映し出される。科学の世界に、どっぷりつかった、風変わりな学者の姿は、漱石自身の同僚というより、寅彦の一面を捉えたものらしい。こちらも、神経質な性格であったのは、あの時代の特徴の一つだろうが、手柄ばかりを追いかける、名誉欲に塗れた人間とは違い、学問追求に、精を出すだけの人間が、変人だったのは、当然のことだろう。だが、そんな人が、体調が優れなかったからか、文筆業に精を出すことになるとは、その業界の先輩たる人間でも、想像できなかっただろう。理系文系の境が、明確になった現代でも、文章を書くという能力に関しては、その区別とは異なる、事情があることが、よくわかる。科学者が、分かり易い文章を武器に、難解な学問の一面を、紹介するという書籍は、世に溢れている。だが、そこに潜む危険性について、分かり易さに、心奪われた人々は、全く気付いていない。要するに、分かり易くする為に、事実と異なる話に、変えてしまうのだ。身近な話題を、科学とする随筆では、事実を曲げぬよう、細心の注意が払われていたが、現代の科学文筆家の多くは、大切なものを、犠牲にしているのだ。こんな偽物に、喜ぶようでは、騙され続けるしかない。

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8月18日(金)−啓蒙

 科学の本の中には、一般大衆に読んで欲しい、との観点から、著されたものがある。身近な話題を、取り上げることにより、馴染み深いものとする、場合もあるが、それとは別に、難しい内容を、平易な言葉で表わそう、としたものも多い。啓蒙の観点から、重視される存在だろう。
 身近な話題でも、普段何気なく、見過ごしてしまうものを、改めて取り上げ、そこに学問的な価値を、見出そうとする姿勢は、重要なものだろう。戦前戦後、そういう形で活躍した人の中でも、寺田寅彦と中谷宇吉郎の、師弟が著した、科学随筆は、その範疇に入れられ、半世紀以上経た、今の時代にも、通用する内容として、多くの人の目に触れている。偶然のように思える事象も、冷静に分析すれば、そこに原因が存在し、それにより、結果が左右されることが、見えてくる。立場を変えることで、見方が異なり、導かれる結論が、変化することに、こんな随筆を、読むことで気付かされるが、多くの人の判断力は、簡単には、養われないようだ。原因と結果を、結び付けるような、考え方を鍛えれば、様々な事象に対して、冷静に対応することができるが、それが無い為に、噂やデマに、惑わされたり、不要な心配や不安に、苛まれる。新型爆弾、と称されたものは、その後、核分裂反応を利用した、爆発的なエネルギーを、発するものと認められたが、反応に付随する、特殊な性質から、人体への影響に関して、様々な憶測を呼び、誤解を招いた。発電所の事故により、同じ性質の被害が、広がった時にも、同じことが起き、過剰な反応を導いたが、目に見えない影響を、恐れることには、科学的な根拠は、殆ど見えていない。爆発の影響との関連から、単純に答えを導き出せなかったものと違い、今回のものは、分析を繰り返せば、答えを導き出せそうに思える。にも拘わらず、恐怖ばかりを、強調するのは、無駄でしかない。あの著者達なら、どんな説明を、加えてくれただろうか。

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8月17日(木)−罵倒

 知性の欠片もない、愚かな発言。一般市民の間では、欲求不満を解消する手立てとして、発せられているものだが、国の頂点に立つ人間の、ものとなると話は別だ。発することで、不満を放り投げる感覚を、味わいたいと思うだけとは違い、彼の発言には、無駄と思いつつ耳を傾ける人が居る。
 同じ電子媒体に、記録されるものでも、どれだけ多くの人が、目を向けるかは、その出自によって、全く異なってくる。それを利用したいのか、それとも、庶民と同じく、単なる不満解消なのか、真意は、本人にさえ、理解できないものだろうが、発言後の反響には、名も知られぬ人々とは、大きく異なるものがある。一喜一憂を、招く場合もあるが、将来が、大きく変化するようなものもあり、責任の重さを、意識しない態度に、怒りを覚える場合もある。だが、所詮、この媒体の特徴に過ぎぬ、と考えれば、無視が唯一最良の、選択であると、理解できるのではないか。便利な道具、と呼ばれるものの多くには、こんな手合いがあり、無駄とか、塵とか、呼ばれるものへと、変貌し続ける。正しい使い方を、している限りは、その効力は、大きなものとなるが、愚かな人々が、手を伸ばし始めた途端に、逆効果ばかりが、目立ち始める。罵り合いは、単に、人格の低さを表し、愚かさを表明するだけの、ことに過ぎないが、憶測を呼ぶ発言は、兎に角、騒ぎを大きくするだけに、過ぎない。ここから、何が生まれるか。様々な意見があろうが、憎しみ合いや憎悪といった、感覚だけが、大きくなるのであれば、こんな情報交換の手段は、無用の長物としかならない。役立てる為には、どんな使い方が、肝心なのか。今一度、考えるべきは、見えぬ敵を、相手に発言する気ではなく、目の前の人間と、意見交換するつもりで、書き込む気持ちだろう。と言っても、件の人物は、目の前の人間を、こき下ろすことさえ、厭わないようだから、所詮、無駄なことかもしれない。

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8月16日(水)−悔いる

 反省を促された時、どんな反応を示すべきか。それも、自国のこととは言え、自分とは、直接に関係ない事柄に対して、となると、中々に難しいと思う。態度を決めかねる中、促した側は、不満を抱き、更なる圧力を、掛けようと動き出す。促しではなく、強いるように。
 自分のしたことでなくとも、同じ国なのだから、責任を感じるべき、という指摘は、外れてはいない。だが、そこから、反省が導き出せるか、となると、話は別のようだ。自らの行いを省みて、問題を感じ取る、ということだろうが、当事者以外には、より難しい課題となる。その上、過去の人々の中には、自分の親も関係し、それを、完全否定することに、なりかねない場合に、躊躇したくなる気持ちも、分からなくもない。しかし、反省を迫る人々は、全く違う観点を持つ。当事者でないと、それが、より際立つのは、事情の違いからだろう。実際に、巻き込まれる中で、様々な被害を受けたとしても、それが、論争へと入り込むと、事実とは異なる話にまで、内容が及ぶことが出てくる。創作は、言い過ぎだとしても、脚色に似た、行為が頻発するのは、一種、人間の性によるもの、かもしれない。当事者にしろ、その子孫にしろ、気持ちの高まりが、そんな変化を、招きかねないことに、皆が注意しておく、必要があるのだろう。冷静さが保てていた時代と違い、自分本位の考えが、罷り通る時代には、この辺りの遣り取りは、慎重を要するものとなる。怒りに任せて、圧力をかける人々に対して、萎縮を繰り返す人々が、過剰反応を示すと、後々、厳しい事態を招くことになる。冷静な中での、反省や謝罪と違い、興奮した状態では、全く別の結果に結びつくからだ。

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8月15日(火)−歪曲

 その日が迫るから、なのだろうが、70年以上過ぎた昔の、事柄を思い出そう、とする企画が、溢れ始める。毎年のように、新発見が伝えられるのは、それだけ、埋もれてしまったことが、沢山あるからなのだろう。こんな状況だから、風化させないように、などと言う人が出てくるのか。
 記録に残しても、記憶から消えて仕舞えば、何も残らないこと、と同じである、と人は言う。覚えている人が、齢を重ね、徐々に、その数が減り続けると、記憶はあやふやとなる。多くの人が、関わっていれば、様々な意見の中から、統一のものが、導き出されるが、その数が減れば、多様性が失われ、極論とても、生き残ることができる。これが、いつの間にか、伝えられるものを、一変させてしまい、全く異なる事柄が、産み出される。こんなことが、これまでも、数多く起こさせ、その結果、人々の記憶を塗り替えるだけでなく、そこから導き出される、結論さえも、全く異なるものへと、変貌させる。これを防ぐ為の手立ては、実はあるのだが、多くの人々は、それよりも、人間が語るものに、信頼を寄せてしまう。その人間の、信頼性がどうであれ、全幅の信頼を寄せるのは、かなりの危険を伴うが、それが、誤った結果を、導き出した途端に、反論が寄せられるのだが、一度、耳目を集めたものは、中々消し去れない。創作にしか過ぎないことまで、事実かの如く、扱われることに関して、研究者は、異論を唱えるが、人々の注目を、浴びたいと願う場合、創作に手を染めることが、起きてしまうようだ。結果は、悲惨なものへと繋がり、取り返しのつかない、ことまで起きることがある。やはり、記憶より、記録を重視する必要があり、それを、如何に残すかが、課題の一つとなる。そう考えながら、自分の関わりを思い、記録の残し方を、工夫する必要がある。電子媒体は、期待も大きいが、逆の結果を、導く可能性もありそうだ。

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8月14日(月)−無駄玉

 近年、学校の状況が、大きく変わっている、と言われる。休みに、休めない学校に、教師も生徒も、休む暇がないらしい。昔は、夏休みと言えば、給料日に、教師が皆登校するから、生徒もやってくる、というだけだったが、今や、部活動だけでなく、多くの行事が目白押しなのだ。
 課外活動が、盛んになっているのは、よく知られる所だが、それより、学習活動の方が、盛んなようだ。確かに、将来を考えると、課外活動は、大きなきっかけに、なりそうに思えるが、確実な道は、やはり、勉学に勤しみ、学力を高めることに思える。補習と呼ばれるものが、学校で実施されるようになり、夏休みは、始まりも終わりも、そんなことが行われ、合計二週間ほどが、それに費やされる。休みが少なくなる筈だ、と思えるが、それでも、学力を高める為に、重要な手立てとなれば、参加せざるをえないだろう。特に、最近の流行では、反復練習が、学力向上に効果があるとなり、時間をかけることが、最優先となる訳だ。その辺りの変化が、この辺にも、響いているのではないか。これとは違う催しも、休みの期間に、目白押しとなっている。理科離れを、防ごうと始まった、体験教室は、その一つと考えられるが、その内容には、玉石混淆としか、思えない状況がある。興味を持たせる為に、遊びの要素を、採り入れることに、反対する人は、居ないだろうが、遊びの要素しかない、ものに対しては、その場限りのもの、としか呼べないように思う。不思議を、体験させることに、主眼を置くようなものでは、そこから、興味が生まれ、理系に進んでくれれば、こちらのものだろう。だが、遊びだけでは、やはり、そこまでなのだ。安易な試みに、力を注いでも、無駄に終わるだけだ。

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