パンチの独り言

(8月21日〜8月27日)
(只、帝国主義、偽玉、元凶は、張りぼて、事実誤認、ばら撒き)



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8月27日(日)−ばら撒き

 外圧に弱い国が、いつもと違う反応を示す。意外な展開に、圧力の元となった、科学雑誌は、更なる批判を浴びせる。失政の結果として、科学研究活動の衰退が、明らかとなった、と告げたにも関わらず、何の策も講じない、との反応は、確かに、意外なものだったに違いない。
 だが、これまでの歴史を、少し振り返れば、早速の対応が、功を奏するとは、とても期待できない。恥の上塗りのような、失敗の連続により、折角築き上げた栄光は、崩れ始めた、と指摘される。頂点と目される、賞を勝ち取る人間の、数が急激に増えたのは、基盤が築けたからとの指摘が、あるけれども、今の状況は、築いた筈の基盤が、もう既に崩れ始めており、このままでは、過去の栄光に、縋るだけの事態、と成り兼ねない、と言われている。だが、政策の過ちは、簡単に回復できるものでないばかりか、これまでを顧みれば、更なる失敗を、繰り返すことばかりだった。今度も、同じことを、行うことは、ほぼ明らかなのだろう。ただ、政に当たる人間は、そんな深慮を、浮かべている訳ではなく、単に、自らの慢心が、招いた事態から、どう脱するかに、心を奪われ、他に目が向かないだけのことだ。ただ、結果として、何も策を講じなければ、今より悪くなることは、避けられる。それでいいのか、と問われれば、そんな訳はない、と返すしかない。だが、新たな政策で、また、トップダウンという、無知を曝け出すだけの、愚策を実行されたら、更に悪化するしかない。そうしないためには、これまでの策を、排除するだけで、新たなものを、始めないことが、一番と思われる。では、何もしないか、と言えば、そうではなく、単純に、これまで繰り返された愚策を、捨て去るか、少なくとも縮小させ、その上で、昔ながらの基盤整備を、取り戻すことにある。選択と集中ではなく、無選択とばら撒きである。諸悪の根源と言われるものが、世に溢れた時代に、育った人々が、栄光を築いたことに、改めて、気付くべきなのだ。例の批判の主は、残念ながら、同じ傲慢さを持つから、こんな簡単なことに、気付く頭を持ち合わせていない。

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8月26日(土)−事実誤認

 軍国主義の権化である、侵略者が、国に攻め込み、植民地化を進めた。その暗い過去が、消し去れる訳ではなく、二度と繰り返さぬ、という思いを、抱き続けることは、当然だろう。ただ、それに付随して、隣国から責められる、侵略に伴う、虐殺などに関しては、事実誤認があるかもしれぬ。
 慰安婦の問題は、複雑な事情が入り込み、結論が導き出せぬ、状況が築き上げられた。その結果、感情的な論争ばかりに、注目が集まり、合意さえも、反故にされる。不思議な事態だが、これこそが、長い歴史に基づく、嫌悪の交わし合いなのだろう。事実は、目撃した者だけが、証明できるとの解釈も、誤認が重なると、不確かさばかりが、目立ち始める。あったかなかったか、ではなく、どんなことが起きたか、ということに関しても、印象を含む、解釈が施された途端に、歪曲が取り入れられ、主張に似たものが、残されてしまう。これとは別に、虐殺の事実を、世界に訴える中で、そこに表れた数字に関して、異論を唱えることが、これまでに繰り返されてきた。だが、その多くは、感情的なものと片付けられ、持論に反する数字は、欺瞞と断ぜられる。歴史上の事実が、後世に伝えられる場合、それらの多くは、生き残った勝者からのものに、限られる。敗者は、沈黙を守るしかなく、明らかな間違いも、甘んじて受け入れるしかない。しかし、事実は、事実に過ぎず、そこに、思惑が入り込む余地はない。なのに、これほどまでに、操作された数字が、明白な事実として、伝えられることを、放置しておくべきなのか。反論というものではなく、単に、事実を、そのままに明らかにする。科学的な事実と同様に、これらを、冷静な分析に基づき、明らかにするだけのことだ。これが困難なのは、隣国独特の、感情的な論法の為であり、自己都合が、罷り通る感覚こそに、問題がある。

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8月25日(金)−張りぼて

 厳しい批判に対して、悲観的にならずに、無視すればいい、と主張する訳ではない。指摘された点を、もっと冷静に分析し、その問題点を、考慮する必要がある、ということだ。外圧に対して、いとも簡単に、従おうとするのは、間違いである場合が多く、同じことを繰り返すのは、止めておけ。
 何でも、悲観的に捉え、自らを、卑下しようとするのは、この国の、悪い点の一つだ。謙遜とは違い、卑下に過ぎず、矮小化によって、同時に、問題をも、小さくさせ、自らの責任を、棚に上げようとする、下劣な魂胆が、見え見えなのだ。科学研究の問題も、政策の失敗の連続から、基盤さえも崩れ、小手先の改革では、回復出来ない程に、崩れていると指摘された。その際に、比較対象として、持ち出されたのは、海の向こうの国の状況で、頂点に立ち続ける国と、急速な発展により、二番手の座を追われ、後塵を拝することとなった、隣の国が、例として挙げられていた。それに比べて、我が国の状況は、惨憺たるもの、としか表現出来ない程、縮小が目立つばかりか、その質の低下さえも、懸念される事態となっている。その反省に基づき、新たな施策を、講じる必要が、論じられているが、傲慢な態度を続け、何の動きも見せない政府に、多くの関係者は、強い嫌悪を示している、と言われる。この状況は、確かに由々しき問題だが、その根拠に関して、無批判に受け入れるのは、如何なものか。特に、成長著しい隣国に関して、数字の伸びは、確かなものと、映るようだが、現実には、こちらでも、大きな問題となっている、改竄や捏造が、横行した結果と、見るべきではないか。それを見過ごす程、論文の査読の質が、低下していることが、原因であり、倫理にもとる行為に対し、自浄作用が、働く国と異なり、したい放題が、横行する中で、伸びた数字に、意味は見出せない。張り子の虎を、引き合いに出す程、批判者の根拠は、実は、脆弱なものと見做すべきだろう。だからと言って、現状を、看過してはならないが。

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8月24日(木)−元凶は

 批判的な見方の多くは、悲観的な展開を、予想している。これに対し、賛否両論が聞かれるが、それも多くは、悲観と楽観に、分けられるようだ。ところが、はじめの批判と比べ、賛否における悲観楽観は、全く別の根拠から、来るもののようだ。最近の流行では、悲観が専らだが。
 現状への批判が、強まる中で、そこから始まる、悲観的な展開に、多くの人々は、賛成を表明する。だが、そんな筋書きは、今更指摘されるまでもなく、以前から、明白だったものばかりで、何故、諸手を挙げての賛成に、加わろうとするのか、首を傾げざるを得ない。歪みが強まる中で、内部から、多くの指摘が示され、悪化の一途が伝えられても、多くの場合、無視されることが多い。特に、この国の場合、外圧の有無が、決定的な要素となるから、内部からの告発は、ほぼ無意味と終わるのだ。それに対して、突然、外からの指摘が、投げられると、ここぞとばかり、批判に加わる人が、急増する。ものを考えない人間ほど、こんな反応を示すことが多いが、そういう類の輩が、国の中枢に居座っているから、事態が混乱し易くなる。科学の進歩は、人類にとって、様々な影響を及ぼし、進化の原動力となる、と言われるが、最近の状況は、惨憺たるもの、と言われている。政策の失敗が繰り返され、倫理や道徳までが、持ち出される程に、荒廃が深まると言われるが、当事者達には、全く別の考えがあった。それは、特別扱いに、参入する為の手立てを、どう講じるかであり、その恩恵に浴せれば、制度の不備に、目を瞑るということだ。自分さえ良ければ、と身勝手な活動を続ける中で、突然、外部からの圧力が、批判という形で現れると、すわっとばかりに、それに加わり始める。元凶が、その責任を投げ出し、他人事のように振る舞う。そこに人間性の減退が、現れていることに、本人達は気付かない。何とも、情けない状況にある。

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8月23日(水)−偽玉

 石ばかりが、転がっている、ネット社会では、信頼の置ける情報は、殆ど無い、と言われる。だから、正しい情報を、手に入れようとすれば、紙に印刷されたものに、触れるべきとは、教室で、よく聞かれる話だ。多くの人の目に触れ、責任を持って、書かれたものだから、という理由で。
 だが、その状況が、怪しくなっている、と感じられる事態が、出版業界に、起き始めている。社会的責任を、履き違え、著しい偏りを示す、極端な考えに基づいた、印刷物が、日の目をみることに、なったからだ。以前なら、常識を疑われる、との考えから、狂気じみた考えや、明らかな間違いに基づいて、書かれたものは、編集段階で、切り捨てられていた。だが、最近は、出版社自体が、狂った考えに取り憑かれた、人々に占拠され、根拠のない話や、非論理的な話を、意図的に、出版するようになっている。新しい考えを、世に紹介する為に、「新書」という新しい分野を、切り開いた出版社が、最近、非常識な内容を、世に問うているのは、彼らの編集方針が、大転換を経た為と思われる。特に、原子力に関しては、常識を逸脱した主張を、繰り返す人間の、論説を、雑誌だけでなく、新書として、世に広めようとしていることに、強い違和感を抱いていたが、同じような批判が、科学者の中からも、出されていることで、少し安心した。非常識な人間が、大学に在籍するだけで、恰も、学者として、認識されるのは、既に、事実誤認と、認められているが、それでも、持論を展開することで、正当化を貫こうと、躍起になれば、発表の場を、与えることにも、大きな罪がある。このまま放置することは、恥を晒すだけで、何の得にもならない筈だが、データ改竄や捏造に基づき、主観的な解釈を、振り翳す人間に、学者としての矜持は、微塵も感じられない。こんなものが横行する世界を、確かな情報源として、紹介することには、強い抵抗感がある。

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8月22日(火)−帝国主義

 この国で、軍国主義とか、帝国主義とか、不快感を催さない人は、少ないに違いない。ただ最近は、この話題は、専ら外国から持ち込まれる。思い出したくない程に、不快であると思うからで、自分から、話題にするのも、憚られるという訳だ。だが、話題に上ってしまうとしたら。
 放置することは、無視することではなく、無言の肯定のように、受け取られ兼ねない。だから、同意を表そうと、する場合もあるが、それに付随した、一種の権利主張にも、同様の不快感が、広がっている。同意だけでなく、反省を強いられ、施しを、要求されることに対し、強い違和感を抱くが、一方的な裁判に、かけられているが如くの、圧倒的な圧力を、感じさせられる。同じ感覚で、当時の行状を、顧みるのだが、立場の違いは、今も、歴然と存在し続ける。正当化ではなくとも、歴史を、正しく理解する為と、そこまでの道筋を、見極めようとする動きも、害を被った人々からは、欺瞞と受け取られる。勝者と敗者の立場が、このような図式を、作り上げたのだろうが、もっと冷静に、分析することが、できないのだろうか。正当化は、互いに、自らの立場を守る為に、使うことが当然で、自らを卑下して、不当な扱いに、甘んじる必要は、どこにもありはしない。にも拘わらず、依然として、この図式が、厳然と存在するのは、客観的視点や冷静な分析が、適用できていないからだろう。心情を汲むことは、確かに大切だろうが、かといって、それに振り回されるだけでは、何も生まれない。このまま、いつまで、不毛な議論を続けるのか、考える気もないのだろうか。あれから、70年以上を経て、立場は大きく変化した。それぞれに、繁栄を築いても、未だに、旧来の考えが、変えられない。その中で、実際には、戦前の敵国が進めた、凶悪な政治と、酷似するような政策が、横行し始めた大国には、多くの国が、警戒感を強めているのだ。

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8月21日(月)−只

 なぜ、懲りないのか。冷静に考える人間には、その理由は見えそうにない。災害に、曝される度、注意喚起を望む声が、高まる。だが、実際に、水準を下げると、高を括る態度となる。自己判断より、公的判断を、優先すると言いつつ、面倒だと、勝手に判断する。身勝手なだけだ。
 こんな人間には、目先の利益のみが、見えるらしい。無償化、という言葉は、何よりも魅力的に映るようで、「ただより高いものはない」、という教えは、心に響くことはない。無料に飛びつき、火傷をした途端に、文句を並べるのは、災害後の態度と、よく似たものだが、均衡が保たれる中では、一時の利益を、炙り出そうとすると、将来に、損失を被ることとなる。だが、安定に浸る人々は、そういう均衡に、目を向けることはなく、利益を得たら、そのまま逃げ出せばいい、とでも思っているらしい。そのくせ、損失が露呈し始めると、罵りに似た、批判の声を、あげるのだ。得はいいが、損はダメ、というだけの態度に、現状を維持しようとする、勤勉さは欠片もない。成長期にも、こんな輩は、湧き出る利益に、貪りついていた。それでも、無視出来る程、成長が続けば、大した問題とならず、安定を続けることができた。しかし、不安定が、過ぎり始めると、逆に、無料や無償の魅力を、前面に押し出すこととなり、矛盾は、大きくなり続ける。これでは、不均衡が強まり、制度そのものが、破綻する可能性が、高まるしかない。このまま続ければ、袋小路へと、追い込まれるだけだが、他に芸のない人々は、その魅力に縋るしかなく、結局、破綻への道を、歩むだけとなる。これ程に明白な筋書きに、誰も、文句を並べなければ、破滅への道は、より鮮明となるだろう。それでも、という覚悟は、ただを追いかける人には、まるでない。

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