パンチの独り言

(8月28日〜9月3日)
(平易、理解せず、手入れ、保守的、心機一転、思い込み、科学忌避)



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9月3日(日)−科学忌避

 科学は、ある意味、不思議な存在だろう。現代社会では、目に見えない形で、様々な影響を、及ぼしているにも関わらず、事ある度に、悪者扱いをされる。これが始まったのは、多分、半世紀ほど前、先進国が、工業化による、経済発展を続けていた、時代ではないだろうか。
 科学技術の発展により、それまでにない、材料が発明され、新たな工業製品が、作り出される。その恩恵に浴す人が居る一方で、一部に及び始めた害は、多くの人々の、健康に及ぶこととなった。化学的に合成された物質は、予想外の影響を及ぼし、直接的な健康への害だけでなく、目に見えない形でのものまで、懸念されるようになった。環境学者なる人々が、様々に警鐘を鳴らし、今でも、名が知られた人も居るが、当時、科学的と思われた解釈は、一部、誤解に基づくものであった、と明らかにされつつある。科学の功罪について、正反対の意見があるのは、当然のことと思うが、あの時代以前には、科学技術の発展が、人類の繁栄に、如何に結びつくかばかりに、注目が集まっていたのに対し、その後は、罪悪に関わる話題ばかりが、注目を集めるようになっている。たとえ、恩恵に浴したとしても、それが、害を及ぼせば、一瞬にして、害悪だけが、話題に上るようになる。一方的な扱いに、その発展に携わった人々は、居た堪れない気分となるが、攻撃する側は、諸悪の根源かのように、彼らにも、罵声を浴びせ続ける。そこにある、一番の問題は、議論の多くが、感情的なもので、科学の欠片さえ、見えないものであることだ。確かに、人間は、感情の動物であるに違いないが、だからと言って、冷静に保たれるべき議論の場に、感情のみが、居座り続けるのは、将来を、危うくするだけで、何の発展も期待できない。実は、大衆を操る為にも、感情への訴えが、効果的であることは、よく知られる所で、その観点からすれば、こんな議論に、浸ることには、よくよく注意しなければならない。

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9月2日(土)−思い込み

 部屋が暑い時、エアコンのスイッチを入れるだけでなく、設定温度を、極端に下げる人が居る。設定を下げれば、低下の勢いが、増すと思うのか。これは、単に、到達温度に過ぎず、下がる勢いには、無関係なのだが、気持ちの問題、ということなのだろうか。何とも非科学的だ。
 海の向こうでは、科学の成果さえも、感情の問題で、過ちの原因となる。解熱薬に、extraという言葉が付けられ、効果の高さが、謳われる。それでも、熱を早く下げたいとばかり、用法に示された、数量を遥かに上回る、量を摂取した結果、中毒症状に陥る人が居る。心理的な作用としては、設定温度と、同じ感覚なのかもしれない。それでも、慎重な、この国の人間は、そんな無謀なことは、する筈がない、と思っていた。ところが、時代は、大きく変わったらしい。眠気覚ましの効果を謳って、様々な飲料が、売られている。医薬品ではないものの、効果があるのであれば、適正な量に、摂取を抑える必要があるが、即効性を望む人は、大量に飲んだり、多種類を同時に飲むらしい。更なる効果を望む人間は、効果のある成分のみを、含む錠剤を、飲むようだが、ここでも、用法は無視され、大量摂取に走る人が居る。そこには、同じ心理が働き、沢山飲めば、早く効果が出る、と思うようだ。だが、効果を表す為に必要な時間は、常に同じであり、量を増して出る効果は、その継続時間だったり、体の異変を招く程のものだったりする。結果として、不調を訴えることとなり、救急搬送となる場合さえある。人間の心理とは、何とも危うく脆いものだが、それにしても、非科学的な行動に、呆れるしかない。彼らの論理の多くは、自分なりの判断に過ぎず、説明不能なものばかりだが、それでも、正当化を忘れない。何故、眠気覚しが必要だったか、それが、如何に深刻な状況だったか、そんなことばかり、主張し続ける。そこにも、無知が現れている。

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9月1日(金)−心機一転

 現状を打破する為に、新たな試みを始める。そんなことが、そこら中で起きているが、残念なことに、大した変化は、起きていない。折角の試みが、無駄に終わる訳だが、現場では、混乱が起きるだけで、どんな問題があるのか、さっぱりわからない、となる。これじゃあ、駄目だ。
 では、どこに問題があるのか。外から見ると、はっきりわかるのは、新しい、という飾りが、中身のないままに、使われている、ということだろう。新しいことは、ほぼ全てが、未経験なものだから、誰しも、不安を抱くに違いない。だが、それが、躊躇を産み、結果として、何も変わらないことを、看板だけ変えて、やっていることに、当事者達は、気付いていないようだ。このままでは、別の無駄を、始めているだけで、新たな試みは、まさに、看板倒れに、終わることになる。失敗を繰り返して、初めて、どこかに間違いが、あることに気付くようだが、新しいという言葉に、惑わされているのは、当事者の方が、遥かに強いようで、根本が変わらないから、という点に、気付くことなく、別の、古くから続いてきたことを、またやり直す、という形のままとなる。これでは、現状打破は、あり得ない。ただ、新しいことを、嫌う傾向は、安定した時代が続く中で、強まり続けてきた。この中で、閉塞感が強まって、その打破に必要な、新たな試みが、様々に試みられた、ことになっているが、実態は、上に書いたように、旧態依然としたままであり、実際には、何も変わっていない、となる。では、どうすべきか。どの道、失敗へと繋がるのだから、という考えで、失敗を恐れず、全く違う試みを、始める勇気を持つべきだろう。安定が、失敗を、極端に恐れさせ、こんな事態を招いたとしたら、それを、まず忘れることから、始めてはどうか。新たに失うものは、ないだろうから。

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8月31日(木)−保守的

 不正を防ぐ為に、様々な制限を設ける。当然の措置なのだろうが、成長期とは異なり、停滞期あるいは衰退期に、入った国にとっては、悪化の一途を、止める手立てが、必要なのではないか。制度の問題、との指摘もあるが、現実には、関わる人間による、抑制の方が、深刻に思える。
 新たな展開を、模索する中で、最大の障壁は何か、少し考えてみれば、簡単に見えることがある。新しい試みに対して、組織内の人々が、様々な批判をぶつける。それは、より良い結果を、招く為の手立て、との指摘もあろうが、現実には、単なる反対であり、先に進めない為の、壁を築こうとしている、だけの場合が多い。これでは、改善の余地どころか、現状からの脱却が、望めなくなる。そんな環境では、不正だけが目立ち、何も変わらないままに、ジリ貧状態が、続くことになる。そんな考え方で、現状を眺めまわすと、障壁となるものが、各所に築き上げられていることが、わかってくる。前例ばかりを、引き合いに出そうとする、官僚達は、停滞期に一掃されたと思われたが、結局、保守的な考えが、残されたままでは、依然として、前例に拘る仕組みが、崩されていない。こんな中では、新展開は、期待通りには起きず、時に、逆効果を招くことさえある。欠陥を指摘することで、改革を目指しても、それを、自分への攻撃と捉える人々から、強硬な反撃が、起きることになる。単に、そこに留まるだけなら、変化が起きないだけに終わるが、反撃となれば、制度上の欠陥を、更に広げる結果を、導きかねない。それを恐れて、何もしない選択をすれば、これもまた、長い目で見れば、悪化を招くだろう。八方塞がり、と思うかもしれないが、少し動けば、何かが変わる。こんな簡単なことに、気付かぬ程に、保守的になっていることを、恥じるべきではないか。

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8月30日(水)−手入れ

 環境破壊の問題は、喫緊の課題として、取り上げられることが多い。ところが、そこでの論法には、著しい偏りが見られ、正しい施策へと、結びつきそうにない。例えば、生物多様性の問題は、その保護を徹底する形で、解決を目指そう、としているが、現実には、別の破壊に繋がっている。
 人の手を入れることで、ある均衡を保とうとする動きは、環境問題が、表面化した頃から、強まり続けている。しかし、その結果は、悲惨なものが殆どで、謳い文句にあるような、好結果は、得られたことがない。この国では、手入れ文化などと呼ばれる、人の手を入れる働きかけが、里山などで、昔から実施されてきた。そこには、自然保護や環境保全などという考えは、優先されず、その代わりに、自分達に有利となるような、働きかけが優先されてきた。ところが、その結果は、総じて良好であり、人間と自然の共生は、結果として、達成されてきた。目的意識が、明らかにずれているのに、好結果を招いたのに対し、現代社会で、様々に進められている、保護政策の多くは、目的ばかりが強調されるのに対し、そこから、失敗の連続しか、生まれていないように思える。この違いは、どこから来るのか。強い目的意識が、極端な働きかけを選択し、その結果、均衡が保てなくなり、著しい偏りが、全体を、別の破壊へと導く。人間の浅はかさが、現れた結果だが、均衡を保つ感覚を持たず、ただ、自分の欲望へと走る性質が、こんな結果を招くのに、気付くことさえないのは、能力不足が、最大の要因だろう。それを自覚することなく、無駄を続けることで、取り返しのつかない事態を、招いているのだ。実は、これと似たことが、科学研究政策でも行われ、基盤を崩壊するところまで、深刻化している。自然に任せて、その成り行きを見守ることは、環境保護でも研究政策でも、実は、同じように大切なのだ。そろそろ気付かないと、どちらも完全に破壊され、修復不能に陥るだろう。

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8月29日(火)−理解せず

 専門家の、言葉の問題は、指摘したように、ある意味、深刻なものだが、それより、大きな問題は、俄か専門家、とでも呼ぶべき、人々の抱える、説明力不足に、あるのだろう。最近は、理科離れを、解消しようと、様々な努力がなされ、教育現場での施策も、多種多様となっている。
 だが、その実態を覗いてみると、悲惨としか、表現の仕様のない、深刻な事態が、起きている。様々な支援を得て、研究に携わっている、と言われる中高生達は、使う言葉だけは、専門家と似たものに、なっているが、肝心の中身は、薄いというより、空っぽとでも、表現するしかない程度に、留まっていることが、殆どのようだ。研究の説明では、滔々と話し続けるのに、いざ、何かを聞かれると、その途端に、しどろもどろの状態となる。それでも、何かしらの反応を、返そうとする連中は、まだましというべきだろうが、それでも、中身が、埋められることはない。それより、虚しさばかりが、目立つような、言葉の羅列が始まり、それに終始する態度に、楽しさを感じることはない。まるで、仕事の一つかのように、義務を果たそうとする態度に、興味は、微塵も感じられず、彼らの目的さえも、殆ど見えなくなる。では、何の為に、こんな手間と金をかけた、事業が行われているのか。おそらく、多くの生徒達は、それによって得られる、何らかの利益を、追い求めているのだろう。研究に手を染めることで、その分野に詳しくなり、今後の道筋を、決めようとする人も、居るのだろうが、それなら、まともな説明が、できなければ、全く意味がない。それより、遥かに多くの人が、興味を持つのは、次の道を決める為の、手立てとなるものが、手に入る、ということだろう。こちらなら、やったという事実だけで、その質が問われることはなく、しどろもどろも、問題とならずに済む。だからと言って、そんなことばかりでは、無駄と決めつけねばならない。

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8月28日(月)−平易

 平易な言葉で、説明をする。一言で書けば、簡単に済ませることだが、実行するのは、とても難しいこと、と言われる。これを実感できるのは、昔取り上げたことがあると思うが、ラジオで毎夏流れる、子供相手の、科学相談室、と呼ばれる存在だ。専門家が、子供の質問に、答えている。
 当時も、同じことを、書いたのではないか、と思うが、今回も、その話題を、取り上げてみる。子供の疑問には、素朴なものがあり、大人のものと比べると、答え難いと感じられるものが、少なくない。内容としても、そうなのに、尋ねてきたのは、小学校の低学年で、理科を学び始めたばかり、という子供ばかりで、多くは、疑問を抱いただけで、何も知らない、という状態にある。そこで、専門家は、何とか、疑問の形を、見定めようと、工夫を凝らした質問を、返すのだが、その中身を、理解させることさえ、難しい場合がある。取りつく島がない、とは、まさに、この状態であり、何を聞き返しても、それに対する理解が、得られることがない。だが、耳を傾けてみると、その原因の多くは、専門家にあるように、感じられる。本人は、小さな子供にも、わかるようにと、平易な言葉を、選んで話している、つもりなのだが、実際には、所々に、大人が使う言葉が、現れてくる。その結果、子供にとっては、音としてしか、耳に入らず、それらの意味は、通じないことになる。それが、更に、焦りを招くのか、更に難しい言葉が、口をついて出てくる。側に居る、司会者が、配慮を見せることもあるが、数が増すと、助け舟も、多過ぎることになり、訳の分からぬ話が、続いてしまう。こちらにすれば、冷静に、分析できる状況だが、声の主達は、四苦八苦だろう。一方で、既に、オタクの域に達した子供相手では、全く別の事件が起きる。子供と専門家の間の、難しい話が続き、聴取者は、蚊帳の外に置かれる。これも、難しい問題だろう。

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