パンチの独り言

(9月4日〜9月10日)
(野次馬、羨望の的、後戻り、人違い、お眼鏡、詐欺本、活性化)



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9月10日(日)−活性化

 地域活性化として、様々な手立てが講じられているが、ふるさと納税と呼ばれるものも、その一つと考えられる。だが、それだけでは、効果が小さかった為か、梃入れ策として、返礼品なるものが、登場した。始めは、大した反響もなかったが、いつの間にか、とんでも無いことに。
 納めた税金の額より、高額と思える商品が、送られてきて、嬉しく無い人など、居ないだろう。その効果は、徐々に広まり、ある時点から、加速度的に、納税額が増え始めた。これはこれで、歓迎すべきことだが、受け取る額より、出て行く額が、大きくなっては、元も子もない、と思えてくる。その矛盾に、気付く人は、沢山居たのだろう。無制限を警戒し、割合の制限が、かけられることになった。過当な競争が、激化することを懸念すれば、ごく妥当な考え方であり、これにより、沈静化が図れる、と思われた。ところが、大臣が変わった途端に、撤廃の方針が、繰り出されたようだ。自由選択に任せる、一種の市場原理のようなものだが、過当競争への懸念は、勝手気儘なやり方では、払拭できる筈もない。にも拘わらず、方針転換を行うのは、何故だろうか。過剰な制限により、折角増えた納税額が、急速に萎み始めたことで、将来を不安視する声が、地方自治体から、出てきたからだろう。だが、収支計算が、行われぬままに、活性化の一言で、効果を評価するのでは、別の意味で、将来を危ぶむ声が、高まるのではないか。赤字覚悟で、という掛け声は、税金を扱う部署には、馴染まないものだ。その中で、勢いだけで、走り続けようとする動きに、懸念を抱くのは、当然のことだ。監督官庁が、その任を果たすかどうかの判断で、正反対の結果が出た訳だが、これで潰れるところが出たとしても、自己責任の一言で、片付けられる。市場原理という、勝手な論理が、依然として、罷り通るからだろう。

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9月9日(土)−詐欺本

 情報に惑わされる人を、何故、という思いで見つめるが、答えは見つからない。どんなに突飛な情報でも、すぐに、信じ込んでしまうのは、どういう理由からか、全く判らない。騙された後で、その理由を、本人に尋ねても、要領を得ない答えが、戻ってくるだけで、やっぱり判らない。
 要するに、判断の基準となるものを、持ち合わせていない、というのが、一番大きな理由ではないか。成長の過程で、徐々に身に付く筈の、常識とも言える、基準が、そこに無いようだ。こんな社会では、為政者達は、情報操作をすれば、簡単に、操ることができるが、それでは、道を誤ることになりかねない。構成員が、それぞれに、独自の判断基準を持ち、それを当てはめながら、様々な意見を交わすことで、ある程度の調整が為され、結果として、ある程度、正解に近い答えを、得ることができる。こんな当たり前のことを、実現する為には、各自が、常識を身に付け、それに基づく、判断を繰り返す必要がある。ところが、現実は、正反対の状況にあり、鵜呑みや誤解を、選んでしまう人が、殆どではないか。何故、こんなことが、起きるのか。安易な道だから、というのが、最も単純な答えだろうが、それが、茨の道への、第一歩だとしたら、易きに流れることには、よくよく注意しなければならない。様々な情報源に、接することで、基準を培うことも、よく言われるが、どんなものに、については不確かなようだ。人も様々だから、彼らが発する情報も、そうなるのが当然だが、それが載せられる媒体に、どんな信頼を置くかが、方法の一つになる。そんな所から、インターネットは駄目だが、印刷物、それも書籍なら、と言われてきた。だが、最近の状況は、出版物にまで、玉石混淆の状態が、起きている。信頼に値しない人間が、書いたものを、鵜呑みのようにして、掲載を決める。そんなものを、基準と置いては、騙されるだけだ。

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9月8日(金)−お眼鏡

 道徳の時間から、ある世代の人々が、思い浮かべるのは、国や地方の偉人の話が、綴られていた本のことではないか。伝記とか、偉人伝とか、子供向けの本は、当時も数多くあったが、地元の恩人のものは、そういう中には、含まれていなかった。身近な話題でもあり、興味を抱いていた。
 育った地域では、水の問題は、さほど大きなものではなかった。三川と言われるように、大きな川が流れ、水の心配など、する必要もなかったからだ。だから、時代劇の中で、水の奪い合いをする、農民の話が流れても、争いの激しさは、実感できなかった。ところが、その地域も、東の方を眺めると、半島全体に、水不足が深刻であり、更に、東の方では、気紛れな川の流れを、整えることこそが、水害を減らし、水不足を避ける手立てと、考えられてきた。所謂、農業用水の灌漑だが、その中心となった人物が、取り上げられていたのだ。それが、初めて、そういう人物に触れた機会であり、子供心に、何らかの影響を、及ぼしたと思う。また、そんな意図から、道徳の時間に読ませる、本の中に含められたのだろう。人の為、という考えは、実感を抱くことが、難しいものの一つで、それを促す、手立ての一つだった。その後、学校は荒れてしまい、いじめや虐待といった問題が、大きく取り上げられるばかりで、道徳本来の考えは、矮小化されていた。教育に携わる人間の、考えの浅はかさが、そんな部分に現れていた、とも考えられるが、再び脚光を浴び始めた、道徳の時間について、浅慮を感じさせることが、取り上げられている。内容の吟味も、大きな問題に違いなく、偉人は、遠い存在に過ぎない、などと、勝手な意見が出るのも、馬鹿げているが、それより深刻なのは、評価の問題だろう。どう評価するかは、教師の大切な任務と思うからか、ここでも、道徳観の獲得を、評価すべきとの声があるようだが、何を、偉そうに、と思う。ただ、その時間に、それに触れることで、何かが残れば、それで良し、とする、では何がいけないのか。段階的評価などと、愚かな議論が、交わされている、と聞くと、また教育界の非常識か、と思えてくる。

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9月7日(木)−人違い

 広告は、良いことばかり並べ、真実を伝えない。今更、そんなことを書いても、当たり前、の一言で、片付けられるだろう。海の向こうのものは、代表的製品との比較で、優位性を主張するものが多いが、こちら側は、何を訴えたいのか、さっぱり解らず、不思議に思われていた。
 だが、そんな状況も、四半世紀前位までで、今や、特長を訴えることに、終始している。となると、それが事実に基づくかが、肝心となるが、画面下に現れる、米粒より小さな文字で、書き記されていることから、限定的と見做せる。こんなことに、騙されるから、詐欺にも、簡単に引っかかるのだ、と言ってしまうと、過ぎるかもしれないが、普段から、少しは鍛えておいたら、と思うことはある。広告中の物語も、所詮、俳優達が演じるのだから、虚構に過ぎない。高い出演料を手にし、指示通りの芝居を演じる。そんな子供騙しに、簡単に乗せられるのも、身勝手な考えに、囚われるから、なのだろう。それにしても、昔、ロックか何かで、大歌手と持ち上げられ、地位を築いた人間を、まるで、常識人のように、登用する広告会社は、何を考えているのか。所詮、下手くそな台本読みしかできないのに、まるで、そこに重みが増すかのような、誤解が、満ち満ちているとしか思えない。好ましいと思わぬ人間には、猿芝居のように映るが、好評を得たとの反響が、あるからこそ、次々に、使われるのだろう。その理由は、こちらには、全く見えないが、「やっちゃえ」の一言や、勝手な解釈を、語らせるには、適した人柄なのかもしれない。だが、それ自体が、下らないからこそ、そこに紹介される商品も、同様に、無視しておけば、いいだけのことだ。こんな広告が、売り上げを伸ばす、と考える根拠には、やはり、不可思議なことしかない。

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9月6日(水)−後戻り

 背伸びの続きである。子供達が、自分の考えで、できそうにもないことに、手を出すことは、学びの場面でも、何かしらの効果が、生まれると思われる。だが、今、巷で行われているのは、子供の考えなど、ちっとも考慮せず、大人の都合で作られた、仕組みを押し付けるものだ。
 飛び入学とか、早期卒業とか、そんな仕組みは、組織の都合として、構築されてきた。一部には、生徒や学生の希望が、叶えられたもの、と見ることができるが、多くは、仕組みが、そこにあるから利用した、だけのものであり、強い思いが、実現したものではない。こんな仕組みはなくとも、学校では、背伸びを推奨する試みが、様々になされている。どんな分野でも、一流の人を招いて、その話を聞かせるなど、最先端に触れさせることが、彼らの将来を決める、とまで言われる。だが、自分の思いが、極まる中での機会と違い、多くは、何の準備もなく、ただ、その場に居るだけのことに、終わってしまう。その結果、場を整えた大人達に、満足感は残るだろうが、子供達には、何も残らない。こんな空回りが、現場の多くで、行われている訳で、そこから、生まれるものは、殆ど無いに等しい。にも拘わらず、いつまでも、こんなことを続けている。どんな魅力があるのか、見えてこない中で、やった感だけが、残る訳だ。無駄に終わる訳だが、所謂、様々なことを目的なく行う、必要な無駄と違い、本当の無駄に過ぎない。その上、こんな雰囲気に乗せられた、若者達の気分は、異様に高まる。これがまた、更なる悪化を招き、悪影響のみが、残される。その気になった人々は、実力も意欲もないままに、騒ぎに巻き込まれ、背伸びした気分になる。だが、通常の道筋を歩むのと異なり、こんな早道を歩んだ人々は、空っぽの中身を、引き摺って生き続けねばならない。運が良ければ、途中で気付き、後戻りができるのだが、その機会さえ、奪うのが、この仕組みの恐ろしさだろう。

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9月5日(火)−羨望の的

 憧れを抱くのは、何も悪いことではなく、各自の勝手にすればいい、と思う。ところが、近年の傾向は、離れていく子供達を、引き留めようとする、異常な動きが、当然のように扱われ、憧れを、捻じ曲げるような、施策が氾濫している。結果として、持て囃された挙句、忘れ去られる。
 憧れを抱き、背伸びをして、できそうにもないことに、手を伸ばす。子供には、よくあることだが、そこで、大人達が、どんな対応をするかで、結果は大きく異なってくる。手を差し伸べ、引き上げてやることも、その一つだが、最近の流行では、階段を登らせるのではなく、まるで昇降機に載せるが如く、突如として、高みに引き上げられる。憧れの場所に、到達できたことを、喜ぶこともあるが、見ず知らずの場所で、戸惑うばかりとなり、進むべき道を、見失う人が出てくる。画期的な方法とか、最先端の経験とか、魅力的な言葉が、並ぶような、新しい試みは、悉く失敗し、希望を抱いて、挑んだ若者達の未来は、霧の彼方へと遠ざかる。暫くすると、その横を、地道に歩んできた、遅れていた筈の同級生達が、行き過ぎるのを、眺めるしかない。頓挫した計画は、練り直す必要があるが、そこまで、本来なら築き上げてきた筈の、知識を欠いた状態では、再出発は、はじめに戻らねば、始まらない。博打のように、一山当てようとするのも、各自の自由選択に、委ねられるのだが、それを、誘うような施策には、無意味なばかりか、有害としか思えないものまである。そんな中で、憧れを抱かされた若者には、届きそうにない、到達点を目指す人が多く、分相応な所から、始めようとする気がない。先を急ぐ余り、不可欠なものまで、飛ばそうとする気持ちを、まるで、意欲の表れと、扱う人々に、文字通り騙された若者は、早晩、自己責任を、突き付けられることとなる。ただ、乗せられただけなのに、と思うだろうが、実は、彼らの欲望の表れには、彼らなりの責任が、確かにある。

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9月4日(月)−野次馬

 子供の頃、今と違い、暴力とも思えることを、振るう大人が、沢山居た。先生と雖も、時に、暴力を振るい、それを、制裁と称することもあった。だが、それが正当かどうかは、受けた子供には、よくわかっていただろう。悪い事をしたかどうか、それを考えれば、いいだけのことだ。
 そこから生まれた感覚では、服従させる為の暴力は、無意味なものとして、体罰への反対も、そこから出てきた意見だろう。ただ、その考えに基づけば、悪事への制裁であれば、止むを得ない場合もある、となる。ところが、体罰反対を、主に訴える人の中には、全ての場合に、禁ずるべきとの意見を、持つ人も居る。どんな事情があろうとも、体に罰を与えることは、百害あって一利なし、という訳だ。これに対して、素直には育たず、曲折の末、大人になった人間からは、別の意見が聞こえてくる。つまり、自分達を正してくれたのは、大人達の厳しい対応であり、その中には、体罰と括られるものも、含まれる、というものだ。時と場合により、その必要性が出てくることもあり、信頼関係が、構築できている中なら、ある程度までは、許されるという考えだが、これに、猛反対を示す人々からは、より厳しい意見が出て、体罰を下した人間を、徹底的に糾弾しようとする。どんな事情があろうとも、許すべきとの考えは、法治国家における、刑罰の考えから、逸脱しているように思えるが、それはそれ、これはこれ、と区別できるもの、と考えるようだ。ここに、大人の事情があり、子供の特別扱いがあるようだが、解せない所は大きい。最近も、音楽家の暴挙として、伝えられた事件が、様々な意見を集めたようだが、ここでも、事情の有無との関わりが、問題となっている。だが、肝心なのは、子供なりの感覚で、これがどう映ったか、なのではないか。外野が煩い状況では、まともな意見交換など、できる筈もないが。

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