パンチの独り言

(9月11日〜9月17日)
(殺す、今こそ、引き際、救い、負荷、急速充電、着脱)



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9月17日(日)−着脱

 電気の便利さを、実感したのは、まさに、大震災の後、計画停電と呼ばれた、社会的措置の時だろう。熱源さえも、電力に依存することに、違和感を抱いた人も、多かったと思うが、それより、電気への依存が感じられたのは、制御の方で、熱源がガスでも、操るのは電気、だったのだ。
 オール電化、を笑おうとしたら、うちも、風呂に入れなかった、という家が、一杯あって、悲鳴が上がっていた。電力関係からの反撃は、その時から、始まったと思うが、その一つが、蓄電池の導入だろう。昨日話題にした、電気自動車を、外部電源として使う話も、その頃から始まった。考えたものだ、と思ったが、やはり肝心の課題は、未解決のままだ。それは、充電時間の問題。供給がある内に、充電が済む場合はいいが、突然の停電で、間に合わなかったり、移動する車の場合には、途中での補給が困難なのだ。それに加え、評論家の中には、導入と進歩への評価は、十分にできるが、蓄電池の更新の問題が、棚に上げられたままでは、長続きしそうにない、との意見もある。ハイブリッドと呼ばれる車は、既に、何世代かが経過しており、そこで使われる蓄電池は、更新する仕組みが、採り入れられたのに、電気のみの方は、そうなっていないらしい。あの企業が中心だから、と思う人もいるだろうが、国を挙げて、となれば、選択の余地はない。一方、充電の問題は、どんなに急がせても、解決しそうにない。となれば、別の仕組みを導入したら、と思うのは、所詮素人考えか。蓄電池を、そのまま、付け替えるという仕組みを、本体自体に、採り入れればいい、と思うし、その為に、蓄電池をリースの形で、燃料代と同じ考えにすれば、と思うのだがどうか。統一規格、交換場所、その他諸々の問題が、山積するが、これを解決してこそ、改革と呼べるのではないか。だから、充電場所の新設は、実は、殆ど無意味と思う。

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9月16日(土)−急速充電

 自動車が、走り始めたのは、どの位前だったのか。発明自体は、150年ほど前だが、実用化されたのは、20世紀に入ろうとする頃、だったようだ。それから百年余り、凄まじい進歩があっただけでなく、先進国だけでなく、発展途上国でさえ、数え切れない程の車が、走っている。
 技術革新は、驚くべきものだが、主流となっている、ピストンエンジンで走るものは、燃料との関係から、大気汚染が、大きな問題として、取り上げられている。それでも、半世紀近く前から始められた、排気ガスに対する規制が、劣悪だった環境を、改善するのに、大いに役立った。だが、数の増加が止まらず、規制も、国毎に違う為に、再び、汚染の問題が、大きく取り上げられている。その中で、先進国とは呼ばれずとも、今では、最大の消費地となった国が、思い切った政策を、表明したと言われる。化石燃料と決別し、電力で走る自動車への、移行を決めたというのだ。実は、電気自動車自体は、始めに取り上げたのと、発明の時期が一致するが、その後のガソリン車の誕生から、主体は、そちらへと移行し、殆ど顧みられなかった。走行性能は、劣るというより、優れていたのに、それが打ち捨てられたのには、様々な理由があったのだろう。最大の要因は、電力供給の方法であり、蓄電池の開発が、思うように進まなかった為、だったと言われる。今では、燃料電池など、全く異なる方式でも、開発が進んでいるが、どれもこれも、困難を伴っている。特に、蓄電池の課題は、重大な欠点があり、その克服が、最大の課題となっている。にも拘わらず、市販車にも、電気自動車が登場してきたのは、充電の問題が、表面化しない利用法が、主体となっているからだろう。燃料補給において、数分で済むガソリンと違い、充電には、数時間という長い時間が、必要となる。しかし、市内走行に限り、夜間充電で済む環境であれば、この問題を、克服する必要はない。だが、国を挙げての政策となれば、事情は、大きく変化する。技術革新は、予想以上の速度で進むから、という楽観では、頓挫の可能性が膨らむ。さて、どう出る?

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9月15日(金)−負荷

 優しさの押し付けが、歪みを大きくしているが、渦中の人々は、気付く気配を見せない。貧しい人、恵まれない人、自分より劣っている、と認識できる相手に、優しく接することを、悪いと言うのは、難しいが、それも、優位性を表明する為のものだと、良いものには見えてこない。
 実際には、差別意識から、優しさを振りまく人々は、大した問題とはならず、自己満足に、浸っていればいいだけのことだ。実は、誰彼なく、優しさを広げる人こそ、問題の根源と、なっているように見える。近年の傾向として、先導能力の欠如が、大きな問題となり、船頭多くして、ではなく、国や組織が、船頭の居ない船の如くに、なってしまい、行き先が定まらぬ状況にある。上に立つ人間が、自然に出てくると思う人が、居るかもしれないが、それほどに簡単なことではないだろう。育てる、とは言い過ぎだとしても、育つ環境を、整えてやらねば、誰も、汗をかこうとしなくなる。優しさは、他人と違う立場へと、向かう人々にとって、邪魔になるだけで、妨害となることさえある。厳しさだけでは、人は育たない、と信じる人も多いが、選ばれたか、自ら望んだか、に関わらず、上を目指そうとする人々にとって、障壁となったり、負荷がかかるような課題は、その場では、辟易してしまうかもしれないが、将来への糧となるものだ。それを、意図的に退けてやることが、まさに、優しさの現われ、と信じる人々は、手を貸し続けるが、それで自立心が養われる訳でもなく、また、意欲が強まる訳でもない。こんな優しさの一つが、褒めて育てる、という掛け声で、的外れも甚だしい。では、どんなやり方が、適しているのか。適切な課題を与え、その解決を見守り、批判という助言を、繰り返すことだろう。その時は、過剰な負荷と思えることも、それを打破した後では、違う思いが出てくる。そんな経験は、ないだろうか。

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9月14日(木)−救い

 優しさが、これ程に重視される時代はない。それも、意味を歪曲した挙句、身勝手な論理を、押し付けてくる、間違った「優しさ」が、大切にされている。真面目に生きる人々にとって、この圧力が、目に見える形で、襲ってくる。強要されることが、多いのも、今の時代の特徴だろう。
 多くの人は、「いいんだよ。できるだけのことで」と言われて、救われたと感じるらしい。様々な圧力に、押し潰されそうに、なっている時に、この話は、救いの言葉として、紹介される。何の違和感も、抱かないのか、と思うのは、一部の人間だけで、うっかり発言すると、奇異な視線が、浴びせられる。自身で、できる限りのことをする、と宣言するのは、何も悪いことではない。全力を尽くすとか、宣言する人も居るが、同じ結果でも、できることしかしない、と言ったのでは、怪訝な顔を向けられてしまう。言い回しで、誤解を受けることは多いが、見えない全力を、殊更に強調するより、すぐに見える、できることを、進めていくと言った方が、遥かに現実的なのに、意欲が感じられない、と断じられるのだ。だが、全力を口にした人の多くは、その後、息切れを感じ、限界を実感した挙句に、不安に苛まれていく。見せかけに、躍起となることで、自己崩壊してしまう訳だ。初めは、厳しい目を向けられた、現実派の多くは、着実に事を進め、活躍の場を広げるのに対し、大風呂敷を広げた連中は、へたってしまう。そこにかけられるのが、優しさであり、それを期待するのが、連中の常なのだ。だが、地道に努力することなく、口だけで終われば、事を成すこともない。そんな人々が、勝手に自滅するのに、手を差し伸べる必要はあるのか。実際には、「優しい」人ほど、冷たいものはない。実際には、親身になっている訳でもないし、その場を繕えば、それで良しと考えているだけだから、

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9月13日(水)−引き際

 市場の堅調が続く、今年に入ってから、利益を上げているのは、投資家の大部分だろう。それほど、大きな伸びを示しているが、その原因は、殆ど明らかになっていない。初期は、大国の新政権への、政策期待が込められていたが、ほぼ全てが、空振りと終わったのに、伸びは止まらない。
 相場の変動は、様々に解釈されるが、実際には、検証が殆ど行われない。その為、新たな変化があっても、同じことが繰り返されるだけで、原因追及は、行われないのが、普通のようだ。結果、勝手な解釈が流布され、実しやかな紹介がなされる。脆弱な根拠に対し、批判が集まることなく、日々の変化を、追い続けることに、時間の殆どが、費やされる。それでも、現状のように、利益が上がっていれば、投資家達は、満足する。特に、他に生業がなく、収入の殆どを、株式投資などの、運用に頼る人間には、濡れ手に粟の如くの状況は、笑いが止まらぬものとなる。だが、将来の安定は、伸びが著しい程、不安を感じさせるのではないか。今のうちに、儲けるだけ儲けて、それを貯めることが、将来への不安を、払拭する為の、方法の一つとなるが、手に入れば入る程、更なる儲けを、求めたくなるのが、人間の性だろう。バブルの時代に、痛い目に遭った筈の人々も、今回の騒動に、加わっているだろう。だが、痛い目についての記憶は、いつの間にか薄れ、次こそは、と挑んでいるのではないか。気にしていては、思い切ったことができない、との思いから、今度は、と思っているのかもしれないが、次も同じで、との考えを、捨てるのは無理だろう。何処かで、ふと気付くことがあれば、適度な儲けで、済ませることも可能だ。では、引き際は、いつ来るのか。これがわかれば、苦労はしない、となる。

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9月12日(火)−今こそ

 平和が続き、変化も少ない時代、皆の思いは、将来へと向けられる。今が安定しているからこそ、将来への不安は、より高まると言われるのだ。だが、この状況が強まると、別の問題が起きてくる。未来に目が向くことで、今を見ない人が、増えているのだ。何が悪い、と言われそうだが。
 未来は、現在を無事に過ごして、初めてやってくる。なのに、今はどうでもよく、将来性だけを、追い求めていることに、何の疑問も抱かないのか。今やるべきことを、指す言葉の一つに、本分なるものがある。誰もが、今を生き抜く為には、本分を果たすことが、最優先となる筈だが、将来を気にする人々は、それを、後回しにする。この不思議を理解できない人には、例え話を聞かせるしかない。将来に必要となる資格は、今手に入れないといけない、ということは、理解できても、それを実現する為に必要なのは、今現在の努力であることに、気付かない人が居るのだ。何故、こんなことが起きるのか。常識的な人間には、理由を見出すことは、難しく映る。日々の積み重ねにより、将来への備えができる、という考えを、普通にする人間には、今より将来と考える人の、論理は理解不能と映る。もっと直接的な例えで言えば、卒業を条件とする求人で、卒業できなければ、資格を失うということだ。この論理は理解しても、今やるべきこと、本分を蔑ろにする人の多くは、突如として、別の論理を、展開しようとする。その結果、折角の計画は、頓挫することになるが、この手の人々の特徴は、この原因を、自分ではなく、他に押し付けようとすることだろう。責任転嫁は、将来の相手ではなく、今目の前に居て、自分の邪魔をする、と映る人間へと向く。こんな人間に、入ってこられても、職場は困るに違いない。だとしたら、ここで、線引きをして貰えば、回避できる。本人は、大真面目に、将来を語るが、その資格を、手に入れてからに、したらどうだろう。

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9月11日(月)−殺す

 人材活用は、いつの時代も、重要な課題となっているが、絶対的な手法がなく、行き当たりばったりのものが、繰り出されている。手を替え品を替え、とでも、言えそうな状況だが、渦中の人々は、大真面目に取り組んでいる。だが、効果の程は怪しく、結果は、芳しくないままのようだ。
 何故、こんなことばかりが、繰り返されるのだろう。人材そのものに、対する考え方も、的外れなものが多く、評価の基準さえ、怪しい状態では、どう活用すべきかなど、考える糸口さえ、見出せないままである。にも拘わらず、現場では、何らかの変化を起こさないと、現状打破が難しい、という認識が広がり、次々に、新たな手立てが講じられる。だが、しっかり考えることなく、手当たり次第に進めれば、今のような混乱が、起きるのは当然のことだろう。その反省もなく、上辺だけ貼り替えたものが、試され続けるのでは、良くなることより、悪くなることの方が、遥かに高い確率を示す。その中で、現場は混乱した末に、疲弊する訳だ。肝心の人材も、正しく使われなければ、活躍の場も、得られない。こんなことが繰り返され、間違った活用法が、適用され続けると、はじめはあった筈の、意欲さえも、減退し始める。いい加減な対応では、この状況を打開することは、難しいのだが、妙案がない状況では、諦めるしかないのだろう。だが、そんな状態が明白なのに、いつまでも、掛け声ばかりを、張り上げているのでは、こちらも、ただ疲れるだけとなる。能力がないだけでなく、折角の潜在能力さえも、使い捨てにしてしまう、こんな事態が、様々な組織で続いている中で、さて、どんな打開策を、講じるべきなのか。もう遅いとも言えるが、それでも、少しは考えてみたらどうか。その気もないなら、さっさと、負けを認めるべきだろう。

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