パンチの独り言

(9月18日〜9月24日)
(応用例、奇怪、坊主憎けりゃ、暴走、言語、予知、我慢)



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9月24日(日)−我慢

 気が弱いだけなのか、それとも、忍耐強いのか。この国の民は、様々な障害に対して、我慢強く、対応しているように見える。宰相が、馬鹿げた行動に出ても、仕方ない、とばかりに、諦め顔を見せるだけだし、政治家の愚行にも、選んだ方が、悪いなどと諦める。日常も、その調子のようだ。
 長蛇の列で、待ち草臥れる姿も、我慢の一つだが、待つ中で、状況が不明確なままでも、文句一つ並べずに、じっとしている。これも、忍耐の表れの一つ、なのかもしれない。だが、言っても無駄、という考えも、そこには、あるのではないか。自分が、当事者だった場合、誰も、責任を取らず、誰も、決めようとしない。そんな事態に、巻き込まれた経験を、持つ人も多い。それでも、相手が、黙っていてくれさえすれば、それで、事が済んでしまうのだ。その調子で、次々に起こる、異常事態に、対処してきたから、この程度のことは、無駄と諦めれば、それで済む、という訳だ。だが、国際化が叫ばれる中、本当に、このままでいいのか、怪しくなってくる。観光を、一大産業と見做し、外国人を、諸手を挙げて、歓迎する姿は、少し異様に見えるが、そんな中で、こんな事態が起こると、一度に、歓迎色は、衰えてしまう。叫びにも似た、文句が投げられ、対応が迫られる中で、何の解決策も、講じられない。自国民なら、それで済むところが、他国の人々は、我慢を知らぬときている。更に、金の重みまで、加わり始めると、事態は、悪化の一途を辿る。結果は、既に知られるところだが、混乱が、現場で起こり、収拾のつかぬままに、手放し状態に陥る。これが高じれば、国の間の争いへと、変貌しかねないが、そこでの遣り取りは、例の愚かな政治家達に、任されるのだ。どこに向かうか、誰にもわからないが、そこでも、また、我慢を強いられるのは、国民なのだろう。

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9月23日(土)−予知

 予知という、夢のようなことは、やはり、夢で終わったようだ。その地域に住む人々に、恐怖を植え続けてきた、地震予知に関する研究は、その事業が始まった後も、継続されてきたが、他の地域でも、また、肝心の地域でも、実際に起きた地震の、「予知」ができなかったことで、諦めたらしい。
 初期の段階でも、様々な意見が交わされ、賛否両論による、激しい議論が起きた、と今では伝えられる。だが、当時は、学界全体として、唯一無二の意見として、予知が可能である、との結論に達した、と伝えられていた。まさか、学者の一部が、反旗を翻して、国外に出て行ったなどとは、周囲の人以外には、誰も知らなかった。半世紀ほど前に起きた、こんな騒動も、学界内では知られたものの、傍目には、一致団結して、夢の実現に邁進する、という姿しか、見えてこなかった。だが、その後の凋落ぶりは、特に、近年のものが、著しいと言われている。地震学会が、予知を諦めたと伝えられるに及び、一般大衆でさえ、期待を捨て始めた。欧州でも、地震国として知られるところでは、学者が、裁判所に訴えられる事態が起き、研究だけをやっていればいい、という考えが、社会的には容認されない、と思えるほどとなった。だからという訳でも、あるまいが、肝心なことから、逃げ出そうとする研究者が、地震の起きる確率という、意味不明なことを、言い出す始末。それでなくても、確率への理解は、一般には低いにも関わらず、それを更に、捻ったような数値を示し、それで、責任は果たせたとする、研究者達の、逃げ口上については、批判の声も高まっている。にも拘らず、更なる研究費を、要求する態度には、懲りない連中、との声も出る。研究が、研究だけに終わらず、一般社会への影響を、強く出し始めた頃から、こんな遣り取りが、様々な所で起き始めた。混乱は、まだまだ続くだろうが、その中で、うまく立ち回る人間が、利を得るのは、いつの頃も同じなのか。

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9月22日(金)−言語

 情報伝達に、必要な手段として、ヒトという種は、言語を身に付けた。他の生き物が、同じようなものを、備えているかは、研究の進展を、見守らねばならないが、言語から、文字という媒体を、編み出したことが、その後の人類の発展に、強く影響したことに、反対する人は居ないだろう。
 だが、多様性の法則は、こんな所にも、如実に表れている。地域差が、人種の差を生じるだけでなく、言語にも、大きな違いを、生じてしまい、互いの意思疎通を、難しいものとしてきた。互いに、確立したものを備えたことから、埋められない差が、歴然となった。その後は、その溝を埋める為に、互いの言語を学び、意思疎通を、滑らかなものにしようと、互いに努力をし続けている。だが、生まれ育った土地の言葉には、それぞれに独自の意味が、込められていて、それを埋めることの難しさは、学べば学ぶ程に、大きくなるようだ。こんなことを書くと、今学校で他言語を、学ぶ人からは、異論が聞こえてきそうだ。そうでなければ、学ぶことの意味が、無くなってしまうからだが、まだ、浅い所に居る人々には、理解できないものだろう。真の意味を伝えるためには、やはり第一言語でないと、と思うのは、身勝手な考えであり、努力を放棄しているように、映るだろうが、実は、そうではない。他言語を学んだからこそ、自言語で伝えられる、微妙な機微を、意識できるのだ。最近は、共通言語という形で、更なる圧力がかかるが、この意義を、改めて考える機会を、持った方がいいのかもしれない。相互理解に必要だから、という考えで、推進が図られているが、どうにも、怪しげに映る。特に、自言語の習得が、不十分とも思える中では、真剣に考えるべきものと思われる。

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9月21日(木)−暴走

 理想主義とも違うが、何故、このような誤解が、当然のように扱われるのか、不思議で仕方がない。助け合う為には、相手のことを、尊重すべきという考えに、何の誤りもない、と感じる人が多いけれど、自分の立場が、危うくなる場合、彼らは、どう考えるのか。無私の愛こそが、大切なのか。
 一見、人道的な話と、考えられるが、人の道と雖も、自身が人として、生きていかねば、成り立たない話ではないか。自分を中心に置く考え方は、利己的として、批判されることが多いが、自分の存在が、危うくなるのに、他人を救うのは、人道的な行いとして、評価され、その中で、命を失えば、英雄として扱われることさえある。成る程、と思えることも、時にあるけれど、自分を当てはめて考えると、その行為を、自分でしたいとは思わない。自分勝手と言われようが、まずは自分を、と考えるのが、普通ではないのか。こんなことが、世界を駆け巡る中で、批判の声は、高まり続けている。自国を第一と考える、大統領の存在は、最強大国であるが為、殊更に強調され、非常識とか、利己的とか、厳しい声が、喧しい程に、届けられている。だが、自らの崩壊を、前面に出してまで、他国に利益を追い求めるのは、本当に正しいのか。そこまで話が及べば、流石に、反論も収まるだろうが、現代社会は、自分でできないことを、他人に押し付ける人が、大きな顔をしている。困ったものと考えても、彼らの持論は、大きな賛同を得やすい。このままでは、矛盾が強まるばかりだろう。今の混乱は、この国が、戦争へと突き進んだ時代の、暴走にも似た行動を、隣の独裁国が、進めていることで、起きている。同じやり方では、再び、止められないだけとなる。では、何をすべきか。あの非常識な大統領の言い分も、一理あるかもしれぬ。

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9月20日(水)−坊主憎けりゃ

 年間の販売数の、世界順位が発表された時、首を傾げた人が、多かったのではないか。この国の慣習に従えば、不祥事は、どんなことでも、業績に悪影響を及ぼす、と言われてきた。しかし、多くの国は、そう考えていない、ということが、この結果は、示している。特に、あの国では。
 技術の高さを誇る、という意味では、あちらとこちらに、何の違いもない。しかし、こういう事柄に対する、考え方には、大きな違いがあるようだ。不祥事は、会社の責任であり、それは企業体質の表れ、と見做されるのが、この国の特徴であり、それにより、業績は悪化してしまう。それに対して、あの企業が本社を置く国では、不祥事が、全社的なものか、あるいは、個人的なものか、を厳しく区別し、たとえ経営陣の責任が、明らかになったとしても、それが、個人的な責任に帰せれば、企業自体の責任は、問われないこととなる。だから、今回のような、技術的な不祥事でも、他の車には、何の問題もない、とされ、売れ行きには、特段影響が出ない、となる訳だ。だから、こちらが、どんなに不思議に思おうとも、こんな結果が生まれる。また、世界順位が表すように、もしかしたら、この国以外は、そんな考え方が、普通のこととなる。なぜ、などと、考えてみても、わかる筈がない。兎に角、風評被害ばかりが、強調される風潮が、当然と受け取られることに、そろそろ、気付いてはどうか。こんなことが起きる度に、被害を受けるのは、何の罪もない、その組織に属する人々だろう。そちらに立てば、やっと気付くが、そうでないと、馬鹿げた考えを、押し付けてくる。こんな間違いにも、気付かぬ程に、思考力が、落ち込んでいることに、気付かねば、それこそ、世界から、置かれてしまうのだから。

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9月19日(火)−奇怪

 奇を衒ったのだろうか、それとも、ジリ貧な状況を、打開する為の妙案だろうか。何れにしても、碌でもない思惑に違いない。確かに、任期を満了することは、殆ど無い職だから、解散して、選挙をしようとしても、特段、おかしなことも無い、と言えるのかもしれない。だが、やはり。
 突然の思いつきにせよ、責任を負うつもりは、ありそうにない。新体制の混乱や、新しい集団の形成で、対抗勢力は、力を貯めきれていない。だから、今、選挙に突入すれば、再選だけでなく、新たな勢力さえも、取り入れることができる、と信じているのだろう。国を率いる人が、こんなことで、勝ち負けを決しようとするのは、何とも情けなく映る。だが、本人は、例のごとく、大真面目なのだろう。街頭演説での、大失態についても、既に、忘れ去られた、と信じているからこそ、今こそ、絶好の機会と見做す。だが、勝敗は時の運、とも言われる。対抗勢力が、不利と見られていても、これからの遣り取りで、全く異なる事態が現れる場合がある。ほんの一つの、軽率な一言が、情勢を左右しかねない。特に、注目が集まる中で、以前程ではないにしろ、調子に乗った一言が、失態を犯すことがありうる。まあ、どちらにしても、無駄な金がばらまかれ、時間もまた捨て去られる。そんなことが分かっていても、絶対的な優勢を、手に入れたいと願う宰相が、こんな不可解な行動に出たとしても、誰も止められない。どこに向かうのか、そんな暇はあるのか、様々な疑問が出されても、勝負事に耽る人間には、何も聞こえないのだろう。

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9月18日(月)−応用例

 教育の効用について、卒業後に、一度も使ったことがないから、無駄と断じた話は、作家の無知を、晒しただけだった。しかし、そんな話が、殊更に取り上げられるのは、世の中が、役に立つかどうかを、重視し過ぎるからだろう。勉学を強いる為に、そんな呼び掛けが、必要とばかりに。
 確かに、目的意識を、持たせることは、ただ無為に暮らすばかりの、若者達を導くのに、有効なのだろう。だが、目的を明確にする為に、更に余分な事柄を、押し付けねばならず、そこから歪みが、強まった結果が、現代社会の病状を、深刻にしている。目的を達成する為、という掛け声では、達成された途端に、次の目標が必要となる。だが、ただ受身的に、目的を定めさせられた人間は、次の指示を待つだけで、自力では、何もできない状況に陥る。この事態も、深刻なものであり、解決の手立てを、講じる必要は、あるのだろうが、個人の成長は、敢えて手を差し伸べずとも、勝手に打開できることがあり、運に似たものに、任せることも一つの方法だろう。一方、目的に対して、どう役に立つかを、一々説明しているらしいが、それが、不十分だろう、と考えられることが、数多くある。想像力の欠如を、露呈したとも思える、例の作家の話と同じで、多くの子供達は、教えられたことを、懸命に守る。だが、教える側が、十分な思考の上で、説明を施せば、更なる広がりが、期待できるにも関わらず、多くの教員達は、卑近な例にしか、目が向けられず、その効用を、発展的に伝えることを、できていないのではないか。時に、将来、役に立つから、などと、実例を示すことなく、言い続けている。結果として、勉強の為の勉強が、繰り返され、苦痛は増すばかりとなる。もっと、実社会での応用を、きちんと伝えたらどうか、と思うが、その能力は、ないのだろう。幾つもの実例が、将来に転がっているのに、それを示せないのは、勉強しかしてこなかった、偏狭な教員が、現場に居座るからだろう。

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