パンチの独り言

(9月25日〜10月1日)
(先取り、保守的、新機軸、究極の選択、無争点、里親、順序)



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10月1日(日)−順序

 順序立てて、物事を教えることの大切さが、強調されている。背中を見て育つ、などと言われた時代と異なり、相手の実力を見定め、それに見合った教え方を、実践することが、重要と見られているのだ。少し長く生きた人なら、この矛盾に気付くのだが、世の中は、気付いていないらしい。
 背中しか見せず、仕事の様子さえ、隠していた時代に、職人の技は、盗むものとされていた。しかし、大量生産の時代となると、それを実践する現場では、全く異なるやり方が、行われていた。一から順に、懇切丁寧に教え込む、という方式は、多くの企業が、実践していた。高等教育の現場が、未だに、職人の世界のような、見せているのか、いないのか、はっきりしない程の形で、教えることが、苦手な人に、任せられていた時代に、職業教育は、順序立てることが、第一とばかり、大学には頼らぬ姿勢が、貫かれていたのだ。ところが、様相は一変した。即戦力を求める声が、高まるばかりで、時間をかけて、一から教えることは、すっかり、どこかに放り投げられてしまい、不十分な状況でさえ、客の前に晒すという、異常事態にも、違和感を覚えぬ人が、中枢に居座るようになった。となれば、十分かどうかは、高等教育に課せられた、任務となる。職人の世界でさえ、懇切丁寧さが、重視される時代となり、盗ませないとばかりに、隠してきた伝統は、いつの間にか、全てを開帳するようになる。これと同じことを、通常の教育現場にも、という声は、強まるばかりとなり、その為の指南書が、世に溢れる事態となった。だが、そんなものが、通用するのは、現場が、整備されていないからであり、依然として、ただの思いつきを押し付け、てんでバラバラなものを、理解せよと言い切る。この中で、理解を深めることは、更に、難しくなりつつあり、教える側の、能力低下も加わり、混乱状態が続く。おそらく、順序立てることさえ、実現できない人が、その任に当たり、意味不明な論理を、展開しているのだろう。必要な能力を、論じるだけでは、それを身に付ける為の手立てに、思いは及ばない。何が、足りないのか、わからないのか。

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9月30日(土)−里親

 三月ほど前、近くで、子猫の声がする、という話が出た。覗いてみると、小さな母猫に、もっと小さな子猫達が、四匹くっついていた。付近は、交通が激しくなく、猫にとっても、過ごしやすい地域からか、いつの間にか、新しい猫が加わり、今回も、それが増えたという訳だ。
 家の猫も、その中の一匹で、生後一週間程で、拾ってきたから、母猫の乳の代わりに、ミルクを与えて、何とか育ったものだ。昔と違い、猫には猫の人工乳を、という考えが、定着したのだろう。高価と思えるものが、店で売られている。猫や犬が、愛玩動物として、人間と共に暮らすのは、大昔に始まったことだが、ここ四半世紀程か、人工飼料が普及し、彼らの寿命も、それと共に長くなった。一方で、野良の問題は、拡大しており、犬の方は、人間の病気との関係からか、厳しく取り締まることで、ほぼ見かけなくなったが、猫は、依然として、増え続けている、と言われる。様々な活動が、対策として行われており、先日読んだ、猫島を扱った本でも、各地それぞれに、異なる対策が、取られていると書かれていた。島とは違い、普通の町では、自身での移動も、可能であるだけでなく、捨て猫の問題も、大きいと言われる。その上、一旦野良となってしまった、猫達も、繁殖活動は続き、餌やりをする人との関係から、害を及ぼすもの、とまで言われる地域もある。そこで、あるがままの猫の姿を、人間の手で、変えようとする動きが、起き始めた。野良を、飼い猫とする動きだけでは、十分な対策が取れず、結局、産児制限という手段を、猫の世界に持ち込むことが、行われた訳だ。近くの母子猫も、保護の対象と考えられたことから、ある日、捕獲を決行したが、まさに、その日に、狸か何かの野生動物に、襲われて、一匹が命を奪われた。その後の捕獲は、無事に終わり、母猫も、うまく手術を受けさせることができた。ただ、子猫達は、里親会と呼ばれる活動で、飼い主を探しているが、一匹しか、見つかっていない。どうしたものか。

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9月29日(金)−無争点

 愈々、保守対決の、幕開けのようだ。元々、この国では、政治の力は、極めて弱々しく、官僚と呼ばれる人々が、裏で操ってきた、と言われている。だから、誰が、政権を握ろうが、大きな変化はなく、それが、安定を産み出してきた、とも言われる。だが、現状は、どうだろうか。
 官僚と呼ばれる人が、政治の混乱を、収める為と称して、詰め腹を切らされた。これまでなら、そのまま、舞台を降り、何処かに去るだけだったが、その行き先さえ、奪われた人間は、圧力をかけた人々に、反旗を翻した。内部事情が、次々と漏れ出し、裏工作が、表舞台に引き出されるに至り、当事者達は、慌てふためいた挙句、開き直りを見せたが、その姿は、情けない、としか表現できない程に、猿芝居の主役を、演じていた。その収拾をつける為、と言われた議会は、幕引きという、更に情けない状況となり、大いなる無駄遣いと共に、大義も主張も、見えないものとなりつつある。どたばた喜劇でさえ、こんな展開はない、と思える程、恥も外聞もない、情勢となった結果、まさに、保守対決の図式が、出来上がりつつある。争点はなく、政策も酷似する中、どんな区別ができるのか。愚民達は、元々、人気に左右される体質だから、中身を吟味することは、全くない。だからこそ、どうでもいい戦いが、展開されるだけとなる。官僚政治を、破壊する為と、人事権を剥奪したことが、この混乱を招いた、とも言われるが、それより、官僚自身の、質の低下が、あまりに著しいことが、大きな問題となっている。政治家の質は、見るも無残な状況で、勝ち負けに拘った、以前の宰相の、選挙対策により、地に堕ちたとも言われるが、これが、表面化したのは、実は、官僚の凋落に、始まったことだろう。これでは、安定など、望むべくもなく、ただ、荒れ果てていくしかない、のではないか。

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9月28日(木)−究極の選択

 勝ち負けに拘る人々の、愚かな戦略に呆れるが、これでは、まつりごとが、政ではなく、お祭り事となってしまう。などと言ったら、祭りに血道を上げる人々から、馬鹿にするな、と叱責されそうだ。それにしても、主義主張なく、勝つの負けるのと、騒ぐのは、やはり中身がないからか。
 街頭に出て、有権者の前で、主義主張を、声を張り上げて、訴えるつもりだった。のだが、現実には、反対派の煽動に乗り、ボロい地金を、曝け出しただけだった。あの辺りから、急坂を転げ落ち始め、友達の勇み足が続くと、誇った筈の人気も、凋落の一途を辿った。だが、大衆の気変りは、彼にとっても幸いなことに、あっという間に起こり始める。敵の混乱に乗じて、勝利を確実にしよう、との思惑が働き、今度の思いつきも、下賤の企みと思える。だが、敵もさる者、折角選ばれた筈の、頂点の地位を、母屋が崩れては、元も子もないとばかり、他人の家に、押し掛ける始末。あの選択肢は、碌でもない結果を招く、と思った人々からは、それ見たことか、とばかりに、批判の矢が飛んでくるが、もう一つの選択肢も、一株乗っているのを眺めると、やはり、烏合の衆としか、思えない。野合を、批判する声が、仲間内からだけでなく、敵からも寄せられるが、同じ穴の狢に、過ぎない人々なのだ。これでは、やはり、お祭り騒ぎ、と見做すしかない。それも、国費を、60億円もかける、と言われ、実際には、その他の経費は、もっと多額になるに違いない。子供の喧嘩にも似た、馬鹿騒ぎに対して、税金が、捨てられるのを見て、経費節減は、世迷い言に、過ぎないとなる。無駄と見て、一番の無駄は、やはり、政治家を飼うことか、と思えてくる。二度と、火傷は御免とばかり、思いつき宰相は、煽動に乗るまいと、質問に耳を傾けず、勝手な戯言を、放ち続ける。どちらの愚者を、選べというのか。

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9月27日(水)−新機軸

 平和な時代が続き、安定を当然のものとして、受け入れてくると、そこから、新たな展開を、目指そうとする気が、起きるのかもしれない。従来のまま、続けていけば、安定も続く筈、との考えがある一方、それが、どこかで、何かをきっかけとして、破綻を来すのでは、との不安が過る。
 それで、従来とは異なるやり方を、という提案に、至ったのか、それとも、同じことが繰り返される中で、徐々に、閉塞感が強まるだけでなく、衰退期に入ったような、感覚を抱き始めたことから、打開策としての、新たなやり方の導入を、という提案に、至ったのか、どちらにしても、新しいことを、始めようとする意欲は、何も悪いことではない。だが、その実践において、旧態依然とした考えに、縛られたままでは、同じことを繰り返そう、という漫然が、邪魔をしてしまう。十分に整備された、やり方を進める中では、多くの可能性を、考慮に入れた形で、対策は十分に講じられており、実践にも、深く考えることなく、指示通りを続ければ、問題なし、ということになる。ところが、新しい試みでは、そんな指示書は、十分に検討されておらず、その場で、新たな対応を、編み出す必要が出てくる。新しいことを、という意欲に関しては、それなりにあったとしても、思慮深く、様々な可能性を、検討するということに関しては、不慣れな人々が、取り組まざるを得ない、という状態となる。その結果、現場では、試行錯誤を余儀なくされるが、その殆どが、誤りと終わるだけでなく、何の成果も得られぬ、時間が長く続く。その結果、意欲は、徐々に減退し、対象となる人々は、振り回された挙句に、放り出されるのだ。結局、新たな試みは、何の成果も上げず、失敗と批判されるが、その原因は、試みること自体にあるのではなく、その為に必要となる、運用能力の欠如にある。これをどう鍛えればいいのか、答えは見えないが、少なくとも、これが必要との意識を持たねば、何も始まらない。彼らに、その気はあるのか。

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9月26日(火)−保守的

 競い合いが、激しくなる気配の中、二大政党への移行に、期待する声も、大きかった。だが、その後の展開は、期待外れと言うより、政治自体の自壊を、招いたとも言われる。保守と革新の、鬩ぎ合いが、この国の政治の特徴、だった筈であり、正反対の論理の、競い合いが、均衡を保っていた。
 だが、二大政党の実現を、目指し始めた頃から、互いに、対案の提示を、要求し合い、政権を握る、という条件が課され、それにより、実現性を重視すると、そこに、異種の保守が、並ぶこととなった。これでは、殆ど区別がつかないばかりか、目指すべき方向にも、大きな違いが見えない為に、運営能力の違いが、選択の要素となってしまう。これでは、慣れのある連中に、有利に働くのは、当然のことだろう。不慣れな連中が、声高に訴えた、節約の大鉈は、ほぼ空振りに終わり、その後の、増税の導入に、支援者達は、裏切られたとの罵声を、浴びせた上で、鞍替えをしていった。これも、二つの大きな集団という、表面的に、区別ができない人々が、僅かな違いを元に、競い合いをしようとする、馬鹿げたやり方が、大きな問題に違いない。少数政党として、生き残った人々には、声を張り上げることが、できたとしても、動かす為の力は、明らかに不足している。数の論理で、勝負する中で、二大政党が、歓迎されたのだが、結果としては、同じ穴の狢が、二匹並んでいるだけとなり、海の向こうのような、政権交代による、大転換は、起こり得ない状況にある。いっその事、昔の形に戻ればいい、と思う人も居るだろうが、実は、二大政党制の導入が、小選挙区制から始まったことを、少し考えれば、これ自体を戻さない限り、保守一つに対し、革新乱立、という形には、戻せないのだ。このことに、気付いていながら、何も起こせないのは、少数に止まるからであり、一瞬の多数派となった時も、その制度が、有利に働いたからであり、一度味をしめてしまうと、やはり、元に戻す気など、起こる筈もないからだ。

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9月25日(月)−先取り

 人生には、様々な岐路があり、そこに来る度に、悩み苦しんで、苦渋の決断をする、というのが、以前の考え方だった。だが、今は、どうだろう。長く続いた安定は、分かれ道のそれぞれを、どう選択したかで、どんな結果を招くのか、実例を挙げながら、示しており、先が見える、と言われる。
 では、先行きが、はっきりしたことは、各人に、どんな影響を、及ぼしているのか。先が見えるのだから、安心感がある、という意見がある一方、先が決まっていれば、何の楽しみもない、という意見がある。特に、貧困に苦しむ人々は、その境遇からの脱出を、何としてでも、果たしたいと願うが、このままでは、打開の道が、閉ざされてしまう、と思う。それが、貧富の差から、出てくるとなれば、無い袖は振れない、とばかりに、道が塞がれている。安定した時代だからこそ、こういう人々にも、光を当てよう、という政策が、検討されているようだが、強い違和感が残る。意欲の有無に関わらず、兎に角、援助が必要、との考えに、無駄との声も、強く残る。これと似た状況が、学年を飛ばしたり、早期学習などといった制度に、現れている。その道を歩めば、必ず通る場所だから、それを、早目に仕込めば、効率良くできる、という考えらしいが、準備の整わない中で、学ぶことの意味は、考慮に入れてないようだ。何事も、順序立てて、準備を整える、という考えが、古くからあり、あらゆるものに、適用されていた。人間の修行も、それに似たもので、手伝いから始まり、徐々に、仕事を覚えていく、という過程が、当然とされていた。ところが、何事にも、即席が重要という考えが、台頭し始めた頃から、先走りこそが、他人を出し抜く方法とばかり、皆が挙って、手をつけ始めたのだ。やりたければ、やればいい、という選択肢がある場合なら、そのままでいいのだが、全員が、同じ経験ができる、という、この国の若者の多くが、経験する学校教育では、このやり方は、適さぬ人も多く居る。それを無視する政策は、愚策に終わるだけで、その労力は、無駄と終わる。

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