パンチの独り言

(10月2日〜10月8日)
(委譲、数の論理、偏見、貧相、二重取り、執着、防衛策)



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10月8日(日)−防衛策

 疑心暗鬼に過ぎない、と一笑に付されるのか。それとも、冷戦期のように、大真面目に取り合うのか。互いの思惑が、入り混じり、答えは霧の中、となるだけだろう。派遣された兵士達の、武器ではなく、情報伝達機器に、敵対する国からの、侵入があったと報じられた。
 これとても、個人の持ち物だろうから、隊としての対応より、それぞれの対応が、求められるのではないか。同じことが、私達の日常でも、起きている。ここでも、国と国の争いの、結果としてのものもあるが、単に、他人から、金や権利を、奪う為のものも多い。情報伝達が、容易になるに従い、この手の犯罪が、急速に増加し、知らないでは、済まされない状況に、市民達も追い込まれている。何らかの情報機器を持つ、ほぼ全ての人が、利用するものが、電子メールだろう。最近は、SNSの普及が、急であるが、それでも、割合としては、対象を、メール利用者に絞ることが、犯罪者の目的となる。そこで利用するのが、メールに載せる武器だろう。大きく分けて二つあり、フィッシングと呼ばれる、魚釣りとは異なる、詐欺行為の一種で、メールをきっかけに、自分達が仕掛けた罠に、不特定多数の人々を、誘うというものだ。もう一つは、パソコン上で動く、ウィルスと呼ばれる、悪意に満ちた行為を、実行するプログラムで、感染すると、様々な不都合が生じる、と言われている。だが、どちらも、稚拙なものが多く、利用者が注意すれば、被害を防ぐことは、難しくない。何故なら、その殆どが、当事者以外の人間の存在を、表に出すことになるからだ。本来とは異なる、企業のウェブサイトに誘うのも、見たことも聞いたこともない人間から、メールを受け取るのも、怪しさを通り越している、とさえ感じられるものだ。最近受け取ったもので、呆れたのは、自らの名を語った後、”What’s your name?”、と続けたもので、相手知れずに、メールを出すか、という疑問に至る。ここまでやるか、と思うしかない。

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10月7日(土)−執着

 公共放送、というからには、公共の利益を、追求するものとなる筈、と思うのが普通だが、この拘りは、何だろうか。政府の代弁者、かの如くの振る舞いに、人々の目と耳が、離れて行った頃、独自色を出そうと、躍起になっていたが。その結果、独自の解釈も、使うようになった。
 それで、初めに書いた話となる。前にも触れたが、核兵器の禁止を謳う、条約が制定されつつある中、多くの保有国は、筋が違うと、参加を拒否した。先進国と呼ばれる中には、核を持たない、あるいは、持つことを、「許されていない」国もあり、経済的な影響力が、大きくなった後も、自ら、抑止力を手にしていない。ある解釈によれば、それは、保有国との協力により、直接的ではなく、間接的に、その力を得たとなる。これが、「傘」と呼ばれるものらしいが、この言葉を、この国の公共放送では、殊更に、強調する姿勢が、貫かれている。条約制定への不参加は、その存在によるもの、との解説が、当時、何度も繰り返された。舵取りをする、政府自体は、その言葉を使わず、条約の問題点を、指摘していたが、それより何より、「傘」の存在が、最大の要因、とばかりに使い続ける。それが、平和賞との関わりで、再び話題となり、再度強調される。別に、傀儡となるべき、とは思わないが、この方針は、どんな思惑で、続けられるのか。客観的な見方、という考えもあろうが、それにしては、他のことで、主観的な解釈が、繰り返されており、どこにも、客観主義は、ないように見える。報道の姿勢とは、何か。大衆政治と同じで、人気商売と化した、報道が、貫くべきものは、多種多様の主観を集めた上での、客観なのではないか。

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10月6日(金)−二重取り

 同じ軸に乗っている、と思われるのは、心外というつもりか。少しの違いを、殊更に大きく見せよう、とする動きに、所詮は、同じ穴の狢としか思えない。目先の利益を、ちらつかせるのも、同じことで、違いを強調する程、変わらぬ下賤さに、反吐が出そうになる。偉そうに、と。
 先立つものが無ければ、何事も始まらない。当然のことだから、一方で、魅力的な話をすれば、他方で、むしり取る必要が出てくる。税制は、庶民には、理解しにくいもの、という印象があるが、これとて、貰えるものは、受け取るが、出すのは、金輪際嫌だ、という考えの人には、理解などという考えさえ、ないのだろう。減税の一言が、多数の票に、結び付くという話も、卑しい考えとしか思えないが、増税を止めるのも、同じ効果と見做される。だが、どちらも、出るものを、抑えられなければ、どこからか、資金を調達する必要がある。最近、企業の内部留保なるものが、話題になっていたからだろうが、それに飛びついた人々が、新たな課税対象と主張し始めた。だが、ものが解る人間なら、法人税を納めた後に、残った金に、更なる税を課す、まるで加算税のようなもので、溜め込むことが、悪事のような扱い、となる。これが問題なら、法人税を上げれば、良いだけのことだが、それとは違う、と思うのだろう。下らない考えに過ぎず、議論の価値もないが、本人達は、大真面目で主張する。どちらにしても、票を握る国民から、遠い所なのだから、関係なさそうに、思えるが、法人税を下げるのは、世界の趨勢だから、触れられない、ということか。それにしても、政治家の思いつきも、昔に比べると、水準が落ち込んでいる。普段から、治世に取り組まず、何も学ばぬ人々に、列島改造論の宰相の話は、金権政治の主としか、映らないのだろう。

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10月5日(木)−貧相

 任せる相手が、見当たらないことに、焦りを感じないのか、それ程に、この国は、平和呆けに陥ってしまったのか。などと、言いたくなる程に、さもしさばかりが、目立つ顔だけが、並ぶことに、諦めにも似た、感覚が過る。だが、それでも、先週取り上げた状況よりは、ましか。
 顔が違うだけで、中身が同じ、という状態に、苛立ちを覚えた人も、多かっただろう。選ぶ気が無いのに、選択肢が無いと、嘆くのは、おかしなものだが、そんな状況だったものが、対立軸ができたことで、少しは改善された。だが、これで、この国の行く末が、安泰となった訳ではない。何しろ、多数を占めようとする勢力は、どちらも、保守という皮を被った、過激思想の持ち主だからだ。となれば、反対勢力による、邪魔が必要となる。その為にも、対立軸の均衡が、大きく役立つに違いないのだ。ただ、どちらの側も、大衆政治に、どっぷり浸かった為に、確かな論理より、目先の魅力に、注力するだけで、行く末などに、目が向いてはいない。これでは、どんな思いつきも、早々に、崩れ落ちていく。その最たるものが、間接税の使途に、現れているではないか。前回の選挙では、年金に、との主張があったのに、今では、そんなことは、すっかり忘れ去られ、次代を担う人材に、となってしまった。自由な使い方ができるから、便利なものという考えは、本来、政治に対して、用いられる論理だが、愚かな宰相は、それを、選挙戦略に用いている。これほど、馬鹿げたものはないのだが、彼と同じように、さもしい選挙民は、駄賃を欲しがり、魅力と感じるのだろう。だからと言って、減税を、別の餌として、撒こうとする人々が、信頼に値するかといえば、それもまた違う。必要なものを、揃える為に、必要な財源を、どう整えるかを、真剣に考えない人に、政を任せるのは、無理なのだから。

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10月4日(水)−偏見

 経験よりデータ、と言われたのは、野球の監督の実績が、高まっていた頃だろう。ただ、彼の解釈には、ある限定があるのに、それに気付かぬ人が、多かったようだ。経験重視の人々の多くが、ある偏った記憶に頼り、データを、全体として分析していない、というのだ。
 日常にも、こんなことが起きており、印象深い経験を、殊更に強調する人が、世に溢れている。その結果、状況把握を誤り、判断の間違いを、次々に犯す。一度誤ると、更に過ちを重ね、修復不能に陥った結果、試合には敗れ、日常生活では、失敗を繰り返す。それより、数値に頼り、それを全体として、分析しておけば、傾向を、正しく見出すことができ、対策を、講じることが可能となる。これが、データ重視、と呼ばれる手法だが、野球のように、記録が正しく残されれば、データそのものに、誤りが入る可能性は、殆ど無いが、日常では、そうはいかないものだ。結果として、誤ったデータの蓄積により、正しい判断が、遠のくこととなる。如何に冷静な判断を、しようとも、元となる数値に、誤りがあれば、何の意味もない、こととなる。逆に言えば、経験を頼りにする場合も、冷静に記憶さえすれば、判断を誤ることは、少なくなるのではないか。このことに気付かぬまま、データ収集に、躍起になる人々は、経験に基づいていた時と変わらず、偏った記憶の代わりに、偏ったデータを、せっせと集めることになる。これでは、手を変えても、品は変わらず、判断力を、鍛えることは、無理難題となりかねない。要するに、何にどう接しようとも、冷静さ、客観性、などといった能力が、肝心となる、ということだろう。表面的なことに、目を奪われるようでは、この能力を、身に付けることなど、できる筈もない。

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10月3日(火)−数の論理

 昔なら、経験がものを言う、と評されたことが、今では、データがものを言う、となったらしい。膨大な数値を、解析することで、何が起こりうるのか、予想しよう、とする動きが、強まっている。経験に頼るのは、余りに不確定であるばかりか、間違った経験が、横行し始めたからか。
 自称経験者が、社会に溢れ、それを理由に、自らの優位性を、主張する。安定した時代には、こんな人間こそが、役に立つと見られたが、自称では、心もとなく、現実に、外れ籤を、引かされかねないのだ。となれば、経験者を見分ける手立てが、必要となる、と一時は、考えられたが、その数の少なさに、殆どの努力が、徒労に終わってしまった。他の手立てを、模索し始めた頃、データを導き出す、検索手法の発展が、データそのものを収集する、能力の向上をも、達成し始めた。その結果、膨大な数値が、手元にあることに、気付いた人々が、その活用法を、模索し始めた訳だ。これが、今、持て囃されている、ビッグデータと呼ばれる分野の、発展へと結びついた。数値から、傾向を炙り出し、そこから、将来の予測を、立てようとする商売が、金の卵を産む鶏、と見做されるようになり、多くの企業や研究者が、群がる事態となった。だが、光があれば、影もある。膨大な数値さえあれば、何でも可能となる、との考えに、重大な欠陥がある、との指摘がなされ、数値の収集法に、ある規則が、当てはめられることが、明らかとなりつつある。と言っても、絶対的な手法がある訳ではなく、単に、基本となる扱い方が、あるというだけのようだ。それを参考に、周囲を見渡すと、如何に杜撰なことが、行われているかが、見えてくる。ただ、数を増やすだけでは、偏りを防げず、母集団の分布を、反映したものでなければ、信頼性が、失われる。だが、世間では、多数の論理ばかりに、注目が集まり、馬鹿げた解析や説明が、施されているのだ。先日も、職場の留守電に、選挙アンケートの録音があった。無作為とは、勝手な論理と、思えてくる。

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10月2日(月)−委譲

 土地の話で、耳を疑うようなことが、起きている。登記というのは、土地が誰のものかを、明らかにする為のものだが、その記録が、とんでもないことに、なっているという報告だ。記録が始まったのは、百年以上前のことで、それから、正確に、現状を表すものと、信じられてきた。
 だが、肝心の記録を、全体として、紐解くことはなく、必要となった事例のみを、点検するだけだったことが、明らかとなった。眠り続けてきた記録は、長い間、誰の目にも触れず、現状から程遠い状況に、なっていたのだ。その結果、どんなことが起きたか、そこに、驚愕の事実がある。権利は、相続されるものと、この国では決まっている。土地に権利を持てない国では、政府を始めとする、管理組織の横暴が、時に起きており、国ごとの違いに、驚かされることも、多々あるけれど、権利があるからと、安心できる訳ではない。所有者が、死亡した時に、誰がどう相続するかは、法律に従って決められる。遺書による場合もあれば、法律で定めた比率で、分配されることもある。誰もが、そう信じてきたが、実態は、程遠いものとなっていた。登記簿によれば、遥か昔に死んだ人の名が、そこに記されており、現時点で、権利を有すると思われる子孫の数は、膨大に上ると報じられた。その土地が、更地ならまだしも、訳の分からぬ建物が、廃墟として崩れかかる中では、権利放棄も含め、法律的措置を、行う必要があるという。だとしたら、膨大な数の人々に、その確認を取る必要があり、その為に必要となる手続きには、金と時間がかかる、となる。もういい加減にして欲しい、と思う人もおり、特に、近隣の人々には、危険も含め、様々な迷惑が起きる。そろそろ、法律を変更し、違う形の処理を、考えるべきだろう。自治体による処理と、その後の手続きを、組み合わせることは、さほど、難しいものではない。隣国の、住む人さえ追い出すやり方より、ずっとましな方法が、ある筈だ。

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