パンチの独り言

(10月9日〜10月15日)
(悪巧み、服従、叱る、研究資金、煙害、優秀、冷徹)



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10月15日(日)−冷徹

 感情の生き物なのだから、好き嫌いがあるのは、当然のことだ。だが、巷に溢れる、好悪で、全てを判断する人々に、呆れることが、何と多いことだろう。物事の判断に、こんな感情を入れ始めると、正しい判断が、できなくなるばかりか、敵味方を作ることになる。
 一方で、好き嫌いとは別に、論理的な考えで、物事の判断を、下す人々は、ある面で信頼されるが、別の面では、冷たいと批判される。冷静な判断は、味方になれば、正しいと評価されるが、敵対的なものであれば、冷たいと言われるのだ。これは、結果として、判断が正しく、利益に浴したとしても、自分の考えと、異なる結果だった時に、よく出てくる反応だろう。だが、結果の良し悪しが、判断の全てであり、自分が好ましく思う人々に、好かれようと、判断を誤る人は、やはり、無能と見るべきだ。特に、これが目立ち始めると、組織全体に、好き嫌いの噂ばかりが、飛び交うようになり、論理を展開する為に、必要な情報までが、それを基準に、流れるようになる。嫌いだから教えない、という、馬鹿げた言い訳が、罷り通るのも、そんな状況だろう。そこから、組織は崩壊し始め、修復不能に陥る。その多くは、組織の上部に、好悪の感情が、蔓延ることから起き、好かれるという感情に、浸る非常識が、肝心な常識や論理を、排除してしまう。権力を握る人々には、感情を表に出さず、決断を下す役割を、きちんと果たして貰いたい。それが出来ぬなら、さっさと辞めて仕舞えばいい。誰も止めずに、論理に頼り、信頼に値する人間を、次に据えればいいだけだ。いい人だ、などと言われて、酔い痴れるような人間に、冷静さは、備えられず、他人の顔色ばかり、伺いながら、味方にだけ、良いように振る舞うのだから。

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10月14日(土)−優秀

 身近に、「できる人」は、居るだろうか。一目置くとか、信頼するとか、そんなことを含め、自分との違いを、意識しつつ、評価する対象となる。だが、端から見ると、随分違う印象を、抱かされることが多い。この違いは、何処から来るのか。考えておいた方が、良い場合が、多いように思う。
 こちらから見ると、見掛け倒し、と思えることが多いのも、所謂、「できる人」の問題だろう。評判倒れ、などとも言われ、時に、評価する側の、見識のなさまで、批判が及ぶこともある。仕事をこなす速度は、こういう人にとって、一番大きな要素、となるのではないか。決断力がないとか、煮え切らないとか、そんな自己評価を、する人々にとっては、何とも、羨ましいもの、と映るようだが、実際には、こなした仕事の質を、確かめなければ、何にもならない。周囲の人にとって、速度は、すぐにわかる要素であるのに対し、質の方は、それを受け取る人間にしか、判断が下せない。そういう立場の人間の多くは、軽率に、それを漏らすことはなく、こう見れば、周囲の評判とは、一部からしか、判断されていない、というものとなる。実際に、そんな評判の人を、眺めてみると、その多くは、テキパキと動いているようで、多くの無駄を、生じている。上下関係が、常にある中では、それを飛び越して、動くことは、必ずしも、歓迎されない。報連相、と呼ばれる行為が、上司との間での約束、とされる中では、特に、派手な振る舞いは、評価を下げる。その上、判断を委ねられた人間の、権限を侵すような行為には、余計なこと、という印象さえ残す。このことは、任務を果たせば十分、と言っているのではない。関係を守った上で、全力を尽くすべきで、その順序を間違え、騒動を起こすようでは、とても、「できる」とは言えない、ということだ。

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10月13日(金)−煙害

 肩身が狭い、と、まるで弱者のように、振る舞う人が居る。けれど、その原因は、本人が、周囲に振りまく、煙にあり、それが、排除の理由となる。様々な施設で、禁じられることとなり、小さな部屋に、押し込められたり、外に出ることを、強いられ、窮屈に感じるらしい。
 しかし、その悪影響が、科学的に証明されつつあり、以前のような、臭いとか、煙いという、感覚的な排斥とは、大きく異なる事態となっている。臭いの問題が、強調された頃は、飲み物の匂いも、嫌いな人にとっては、不快だとの反論を、当然のように話す人も、居たのだが、今の状況は、そんな逃げは打てない。迷惑も、心理的なものだけでなく、肉体的なものにまで、及ぶに至り、反論は、殆ど消滅した。だが、愛煙家と呼ばれる人々は、弱者社会の中で、自らも、その仲間入りをしようと、企んでいるようだ。元々、手をつけた理由の多くは、背伸びであり、優位に立とうとする、目論見だったのではないか。だとすれば、強者になろうとした訳で、風向きが変わり、迫害されたとして、弱者に転じようとするのは、全く、都合のいい話でしかない。その上、彼らの身勝手が、現れる話が、次々に現れると、余計に、邪魔者的な扱いを、激化させたくなる。ホタル族、などと呼ばれ、家族の健康を、考えている、と見做されていた人は、近所から、煙害と名指しされることとなった。戸外でも、煙が漂えば、それを吸わされた、と思うのも当然だろう。身内はいいが、他人は嫌、という勝手な考えの、表れと受け取られる。先日も、禁じられていた、自室での喫煙を、傲慢に続けた結果、部屋の汚染の浄化が、問題とされた。傲慢さは、放置する形で、原状回復を、怠ることとなり、後任者から、告発が起きた。こんな規則に、縛られるのも、弱者を実感させるのかもしれないが、これこそ、暴力の一種というべきだろう。特に、規則破りという、組織に属する人間に、あるまじき行為については、懲戒の対象となるべきものだ。そんな奴が、弱者である筈がない。

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10月12日(木)−研究資金

 例年の大騒ぎは、何も起こらなかった。自国民が、栄誉を受けると、何故だか、我が事のように、喜ぶ人々が、出てくる。誇りに思う、という意見もあるが、何をどうして、自分のことと結び付くのか、こちらには、全く伝わらない。だが、そんな騒ぎが、数年の間、続いていたのだ。
 水準の低下が、危惧される中、まさに、その状況を表すもの、と思う人も、居るかもしれない。だが、水準は、現在の状況であり、栄誉は、過去の業績に、与えられるものと、実は、全く違ったものを、表している。にも拘わらず、騒げなかったことを、恨みにでも思うように、厳しい批判の声が、上がるに違いない。それも、別の騒ぎが、偶々、時期を重ねて、始まったことから、彼らが関わる、政策の問題として、本来ならば、争いの最中に、取り上げられてもいいのだが、愚かな民衆と、そのご機嫌を伺うことに、終始する候補者の間では、こんな論戦が、起こる筈もない。権利を得た人々に、新たな課題として、投げかけられるのも、わかりやすい話題が、一通り片付いてから、となるのだろう。騒ぐことは好きだが、その中身に、理解を示すことはない。まさに、愚かさを、体現させるものだが、遠くの出来事として、放っておいてくれれば、ずっとましな状況を、創り出せるのに、自分達の利益を、強く要求した結果、しわ寄せは、こんな所にも、現れてきている。そんなものに、誇りを感じる、という話も、こんなことを、論じた後では、矛盾だらけの、身勝手な行動、としか見えてこない。日々の精進が、ずっと後になって、評価される、ということが、こういう受賞の内容であり、その為に、先立つものが、などという連中には、殆ど資格がないのだろう。質の回復を願うのなら、あれこれ文句を並べずに、好き放題に、置いておけばいい、と思う。

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10月11日(水)−叱る

 叱れない時代、なのだろうか。昔なら、間違ったことを、していると、誰かが、厳しく叱っていた。子供心にも、自分の悪さを、意識しており、それを指摘されるのだから、縮こまったものだ。その様子が、いつの間にか、変化してしまったらしい。叱りは、まるで、悪いことのように、扱われる。
 悪事を繰り返す、大人の存在が、その原因だ、などと思う人は、居る筈もないが、大人の開き直りと同じで、子供たちは、叱られた途端に、自分の悪さを、棚に上げて、怒られたことで、心が傷ついた、と言い出す。こんな過ちに、真剣に対応する、一種非常識な、大人が居ることが、一番大きな原因だろう。ここでも、自らの無知は、棚に上げて、子供の味方を、演じようとする。それが、どんな歪みを、産み出すかについて、正義を謳う人々は、考えが及ぶ筈もない。ここでも、無知が横行し、その悪影響が、広がり続ける。見せかけの優しさに、自ら、酔い痴れているが如く、善悪の区別を、一切教えることなく、子供の主張を、受け入れる。彼らが、無垢な存在で、嘘など吐かない、などとは、お笑い種だが、大真面目な様子だ。だが、その悪影響が、世代を超えて伝わり始め、多くの人が、薄々感じ始めたようだ。このまま行けば、道徳も倫理も、果ては法律さえ、守る必要のない存在となり、無法国家ができるかも、という心配だ。優しく叱る、ということも、少しはましな人々とはいえ、大切なことと、訴えられるが、これとて、効果のない話を、実しやかに、しているだけだろう。こんな状況だから、人々は、叱る人を避け、大事なことを、拒絶しようとする。学校での勉強も含め、様々な学びの、機会が与えられるが、それを、怒られるとか、叱られるとか、そんなことで、逃していることに、気付かぬ人々が、次代を担うとは、とても言えないのではないか。

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10月10日(火)−服従

 ものを教えてみると、様々なことが、見えてくる。それまで、理解していなかったことに、はっと、気付くことがあるのも、その一つだろう。だが、世の中には、その準備ができていない、あるいは、その気配さえ見えない、といった人が、一杯居るようだ。教える気分に酔って。
 不幸な人々に、違いないのだが、それにも増して、そんな人に教わる人達は、ある意味、もっと不幸なものだろう。訳の分からない、話を聞かされるのも、その一つの表れだが、もっと悲惨なのは、意欲を削がれることだろう。知ることの喜びについて、様々に語られるが、その経験を、得たことのない人は、実は、数多居るのではないか。課題を与えられ、それを、こなすことばかりが、目的となった人々は、ノルマを果たす、営業社員の如く、目の前の荷物を、片付けることばかりに、目を向けさせられる。その先にあるものに、目が向かう筈もなく、将来への展望は、開かれることはない。勉学は、まさに、勉強と書く如く、強いられたものに、なってしまう訳で、そこに、内から生まれる、喜びが出てくる筈がない。服従を主体とした、教育の現場では、こんなことが、日常的に行われ、素直な子供を、育てることに、多くの時間が費やされる。その結果、命令に従えても、自ら考えることが、できない人間が、次々に、育てられる訳だが、ある種の人々にとって、こんな人間は、使い勝手のいいもの、と見做されるのだろう。これ程の停滞と閉塞感が、社会全体に満ちていても、この種の教育者が、居なくなることも、反省することもない。理由は、ごく簡単なことで、それだけの能力を、持ち合わせていないからなのだ。無能だからこそ、教えることによって、学べる機会にも、触れることなく、傲慢なやり方を、続けるだけとなる。どうにも、始末に負えない。

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10月9日(月)−悪巧み

 絶えない不正、それも、一流と呼ばれる企業の、意図的なもの、となれば、皆の注目が集まる。誰もが、何故、と耳を疑うような行為に、厳罰を望む声も、出てくるに違いない。特に、度重なる不正から、自立回復が、不可能となった企業を、傘下に入れた所のものは、お前もか、と思える。
 製造が、正確に行われれば、最終検査など、不要のもの、とでも言いたいのか。常態化した不正に、愛用車の心配を、した人もいるだろう。制度が、何の為にあるのか、傘下に入れた企業の、不正を暴いた筈の、親会社の慢心は、この国の抱える、近年の病を、如実に表したもの、と言えるのかもしれない。自分さえ良ければ、とか、会社の為には、とか、そんな言い訳は、何度使われても、使い古されることなく、またか、と思う形で、表明される。過剰反応は、必ずしも、良い結果を産まないものだが、慢心が、最悪の結果を、導くことがあるのは、今傘下にある、企業の状況を眺めれば、すぐに分かりそうに思う。だが、慢心が伝染したのか、それとも、それ以前から、悪事に手を染めていたのか、おそらく、後者が、当てはまるのだろう。それほどに、この国の企業は、苦しい状況に、追い込まれている、のだろうか。それとも、濡れ手に粟の如く、儲けを出す為の、打ち出の小槌、とでも思っていたのか。発覚しなければ、業績向上に結びつく、妙手となるとでも、思っていたのだろう。それは、最終製品ではなく、その原料を供給する、製鉄企業も、同じことだ。不良品を減らし、製造効率を上げれば、利益に直結する。その為の不正は、当然のように行われ、発覚した途端に、それを使う製品へと、悪影響が及ぶ。久しぶりの国産品、と呼ばれた飛行機も、未だに、商売へと繋がらず、苦境に立たされているが、そこにも、使われていたとある。高性能を謳った材料が、データ捏造となれば、低品質と言われかねない。問題ないとの見解が、出されたものの、前途多難は、続きそうだ。

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