パンチの独り言

(10月16日〜10月22日)
(激情劇場、知識欲、特別な経験、束縛、無法地帯、茶番劇、警鐘)



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10月22日(日)−警鐘

 少年と呼ぶには、余りに薹が立ち過ぎている。名を成し、財を成した人が、これから訪れる、危機について、大真面目で語っている。技術発展が、急速になり過ぎると、予想外のことが、重なり続け、喜びを表す人が居る一方で、不安を口にする人が、出てき始めるらしい。
 事ある毎に、危機を口にする人が、様々な分野から、出てきている、と言われる。宇宙論で、指導的な立場にある、と言われる、筋萎縮症を患う科学者から、ネット社会に、革命的な技術を導入し、莫大な財を築いた経営者まで、誰もが、人工知能と呼ばれる、計算機の能力を、爆発的に推進した、と言われる技術に、何らかの形で、関与していると言われ、その発展の果てには、開発した人間の能力をも、上回る力を獲得し、人間の存在を、脅かすものとなる、と予想している。命令に基づき、作業を、驚くべき速さで行う、当たり前の能力が、ある水準を超えると、そこから、新たな展開が始まり、機械自身が、自らの判断で、あらゆることを行うようになる、と予想すれば、人間を凌ぐのは、当然のことであるばかりか、世界から、開発者である人類を、排除するようになる、との筋書きが、彼らの予想なのだが、愚かな庶民と異なり、成功した科学者や経営者という、賢者の頂点に立つ人々が、真面目に伝えるものだけに、無視する訳にも、いかないと言われる。先日読んだ本は、これらの警鐘が、如何に的外れであり、目論見を含むものかを、語るものだったが、これとて、人工知能の開発に関わる、哲学者からのものとなれば、まるで、学界での紛争のように映る。社会への警鐘に対する、反論だからこそ、書物の形で、ということなのだろうが、それにしても、高度な論争が、今ほど似合わない時代も、ないのではないか。人々は、見せかけに惑わされ、不安を煽る言葉に、踊らされる。不確実な未来に、何の関心もないのに、不安を口にする。騙されるのは、誰か。

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10月21日(土)−茶番劇

 書いても無駄、だろうか。それは、ここが、読まれないから、という意味ではなく、たとえ、読んだとしても、理解して貰えないから、という意味だ。本質を見抜くことなく、うわべの輝きに、騙され続ける人々に、見向きもされないばかりか、今や、輝きさえ、失われているのに、だ。
 意味不明、という言葉が、飛び交ったとしても、自らの権限を、押し通そうとする宰相に、諫言は、聞こえなかったらしい。意味不明と言えば、精神に支障を来したのでは、などと噂が飛んだ、辞任直前の世迷い言を、思い出されるが、当人は、自信過剰の顔つきを、強め続けていて、そろそろ、前と同じの、崩壊直前を見せ始める。目的は何か、様々に問い掛けても、何とかの一つ覚えの如く、ブツブツと、本質と無関係な話を、呟き続ける。さてどうしたものか、周囲も、困惑しただろうが、そんな態度は、微塵も見せず、支援体制を、整えていた。一方、戦いに向けて、着々と準備している、とばかりに、悦に入っていた対抗勢力は、突然の急転に、あたふたとした挙句、馬脚を露わしてしまった。実をとるなどと、これまた世迷い言を、ぶちまけた人間は、大舞台を降りるだろうし、緑を好む人間も、欲呆けの体が、露呈してしまう。これでは、政とは何か、問う訳にもいくまい。口先だけで、生きてきた人間に、本質を見抜く力はない。そればかりか、他人というより、国民や都民を巻き込み、迷走に邁進するなど、何のことか、と思うしかない。一方、旧態依然とは、言い過ぎとしても、旧来の政治を、取り戻そうとする勢力に、逆転の力はない。残った席を、奪い合うかのような、戦いは、これも、小選挙区の効果、と言えそうだ。終了後の命名では、茶番劇選挙、となりそうにさえ思える。

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10月20日(金)−無法地帯

 見識、という言葉は、全く当てはまらない。にも拘わらず、様々な場面で、引き合いに出される。そんな存在が、ネット上の発言ではないか。SNSに属する、好き勝手な暴言村も、それより、少しはマシと言われる、ブログなどの、論説街も、所詮は、偏見の展示場に過ぎない。
 なのに、世の中は、そこに流れる情報に、責任を委ねている。マスコミは、まさにマスゴミと呼ばれる如く、ゴミ漁りを始め、人の気を惹く話題を、殊更に取り上げている。その結果、見識を保とうとする気は、何処かに投げ捨てられ、ただ、騒ぎ立てるだけの場を、提供することとなった。ワンセグは、一瞬しか、その立場を築けず、端末の発展は、異なる媒体を、成長させた。その結果が、マスコミの凋落を招き、彼ら自身が、自らの立場を捨て、見識も、脱ぎ捨ててしまったようだ。そんな中で、井戸端会議の噂や、野次馬根性の露呈のような、下品で下世話な話題が、人気の的として、取り上げられる。以前なら、非常識と片付けられたものが、今や常識と化した、と言われるのは、多数を占めるものが、常識であるべき、との考えらしいが、ここまでくると、見識は死語と化した、と言わざるを得ない。車や素材の製造業から、情けない程の不正が、噴出するのを見て、理系人間に、責任を押し付けようとするのは、逆に、文系人間の、身勝手によるものだろう。収益を上げれば、営業の業績とし、不正が出れば、製造の問題、とするのは、まさに、その表れと言えよう。こんな区別が無駄なのは、今や、誰もが知る所だが、責任転嫁の体質は、こんな曲解をも、罷り通そうとする。そんな暴言も、あの世界なら、誰にも邪魔されずに、披露できる。一つ間違えば、炎上もあると言われるが、言い逃げを常とする人間に、怖いものなどある筈もない。法で裁くより、倫理・道徳に、頼るべきだろうか。

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10月19日(木)−束縛

 多くの人が、免許を保有し、実際に、毎日車を運転している。改めて、制限速度に関して、問いかけたら、どんな答えが、返ってくるだろう。自分が、安全だと思えば、制限をかけられなくても、大丈夫、と思うのではないか。しかし、これは、法律で決められたものなのだ。
 この話題を始め、縛られることに、抵抗を覚える人は、多いだろう。しかし、社会秩序を保ち、安全な暮らしを、保証する為に、倫理や道徳だけでなく、法律が重要な役を果たす。でも、窮屈を感じることが、多いのも事実だ。その中で、制限や制約を、強く求める声が、高まっていることには、どんな感覚を抱くのか。人一人が、死を選ぶというのは、一大事、と考える人は、多いだろう。何かの形で、圧力を受け、それに抗うことが、できないことから、自身の存在を、消し去ろうとした結果、と言われるが、逃避の選択肢は、別にもあることを思えば、何故、と首を傾げたくなる。抵抗が極まった末の、選択の結果と見れば、死を賭けた反抗、と見ることもできる。まさか、そんな思いが、日の目を見た訳でもあるまいが、過重労働とか、いじめの問題とか、そんなものを、防ぐ目的として、極めて厳しい制限が、法律という形で、かけられるのを見ると、この窮屈が、別の問題を、生じ始めるのも、それ程先ではない、と思えてくる。弱者保護、という風潮は、こういう所に、大きな歪みを、産み出しているが、人情話や悲劇に、感激する人の数は、増え続けているように見え、その結果、社会制度が、大きく捻じ曲げられている、ように見える。働き方は、人それぞれであり、選択の自由は、保証されるべきと思う。ところが、悲惨な結果を、如何に避けるかが、検討された結果、制限を強める仕組みが、当然のものとして、導入される。だが、現場から、別の悲鳴が聞こえ、仕事が成り立たない、と訴える声が、起こる。安全安心の為の縛りは、どこまで必要なのか、考えねばならない。

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10月18日(水)−特別な経験

 経験が重要、という考えに、反論を唱えるのは、難しい。特別なことを、しなくても、それ自体が、経験となることは、誰もが知る所だが、それを、特別なものにすれば、もっと大きな影響を、与えられると考える。だが、何も意識しない人間に、どれ程の影響が、あると言うのか。
 経験を売りにする、様々な産業が、雨後の筍の如く、次々に登場し、一部は、急速な伸びを見せている。確かに、これまでにない仕組みが、導入されれば、影響は小さくないだろう。しかし、それが、ある程度増えてしまえば、特別な経験は、いつの間にか、当たり前のものとなり、結局、無意味なものへと、なってしまう。それまでに費やした、経費も人も、一気に無駄と化して、廃棄するしかなくなる。そんなものを、追いかけているのも、安定した時代の特徴で、無駄を出しながら、車輪を回し続けようと、躍起になっている訳だ。だが、その中で、育った人々の多くは、無気力であり、意欲の喪失が、目立っている。こんな人間に、次代を任せねば、と思った途端に、焦りが、更に募ることとなり、別の特別を、用意しようとしてしまう。落ち着いて、普通のことを、繰り返し与えれば、それはそれなりに、良い経験となる。最近、とみに感じられるのは、気付きの無さであり、与えられることに慣れ、それを待つ姿勢を、続ける人々が、世に溢れていることで、積極的とか、気力に溢れるとか、そんな表現が使われても、基礎から固めて、というより、即席とか、即効性に、走る人ばかりで、結局、別の無駄が、山積みになるだけなのだ。特別だからこそ、それが陳腐化した時に、却って、悪い状態を導くということが、問題視される中で、いつまで、こんなことを続けるのか。気付きを待つ為には、じっくり見守ることの方が、遥かに重要なのではないか。

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10月17日(火)−知識欲

 知らないことに対して、不安の声が上がる。当たり前、とも見えるが、これに関係して、不思議なことが、二つある。一つは、不安を口にするだけで、知ろうとしないことである。不安を払拭したいなら、知ろうとすれば、と思う。もう一つは、知っていることに対する、不思議な感覚だ。
 身近な話題に対して、興味を抱かないのは、既に、知っているから、という意見がある。確かに、そんな一面もあるが、本当に知っているのか、確かめなくていいのか。思わぬきっかけで、改めて聴いてみたら、知らないことが、一杯あった、という経験を持つ人は多い。それでも、次の機会は、敬遠することが、多いものらしい。何故、こんな行動を、するのだろう、と不思議に思わないか。知るという作業に関して、少し考えてみると、面白いことが、見えてくる。知ったかぶりをする、という人は、確かに、それなりの知識を持つ。だが、十分かどうかは、尋ねてみれば、ばれてしまう。他人よりは、少しは知っているのだろうが、全部、ということは、あり得ない。おそらく、誰一人として、完璧な知識を、持ち合わす人は居ない。だからこそ、知ろうとすることは、大変重要なものだが、終着点が見えない中で、努力を怠らず、ということの難しさは、より大きく感じられるのだろう。皆、このくらいで、という思いを抱き、満足してしまうものだ。ただ、興味を、完全に失う必要はない。偶々でも、新しいことが、耳に入ってきたら、成る程、と感心すればいい。それだけのことで、意欲は失われない。そう思いながら、知らないことを、知ろうともしないことについて、考えてみると、こちらも、別の意味で、意欲の喪失と思える。不安を、切り札として、多用する人々は、結局、何も学ぼうとしない、愚かな人間なのだ。

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10月16日(月)−激情劇場

 欧米では、冷徹な判断に、評価が集まっていた。だが、最近の傾向は、大きく異なっているように見える。国の統合により、極端な抑圧社会から、自由社会へと変貌し、その中で、頂点を極めた、女性宰相は、ある意味同じ境遇とも言える、移民や難民に、寛容な姿勢を取った。
 これも、見方によれば、冷徹な判断、と言えるのかもしれないが、世間の解釈は、別の形でなされ、感情的なもの、と見做されたようだ。そこから、皆が、自らの感情を、露わに表すことに、躊躇せず、身勝手な意見が、飛び交うこととなる。それでも、人気が保たれれば、問題視する必要もなかったが、凋落の兆しが、見え始めると、それまでの自信も、崩れ始めた。海の向こうの、棚ぼた的な当選を、果たした大統領も、まさに、選挙民の感情に、強く訴えた結果、勝利を手に入れた、と言えるだろう。対抗馬の女性は、そこまで上り詰めるのに、何度も、冷徹な判断を下し、そこに評価が集まっていたが、今回は、それが仇となったようだ。だが、感情戦略をとったのは、まさに、自身の激情主義を、表に出しただけ、と言えそうなのは、その後の、ツイッターでの暴言を、眺めていれば、誰にも分かることだろう。選挙時の、熱狂的な支持者が、離れていくのも、感情と感情の衝突の結果、と言えそうだ。彼から、フェイクなどと揶揄される、マスコミの姿勢も、以前のような、冷徹さを、貫けていないと見える。愚かな民に、擦り寄る戦略は、確かに、一時の勝利を、確実にしたものの、その後の混乱は、感情の起伏にも似た、異常な程の上下を繰り返す。目標も定まらず、落ち着きもなく、どこに向かうのかさえ、見えてこない。これは、実は、人民が愚かなのではなく、愚かにさせる手立てを、講じ続けている、報道と政治の責任、と言えるのではないか。

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