公共放送の危機、となるのだろうか。受信料と呼ばれるものが、憲法違反であるとの訴訟が、起こされ、最高裁判所で、最終的な判決が出される。どちらになるか、徴収の頼りとなるべき規定が、法律の専門家により、違反と判断されれば、財源の確保が困難となる。
この話題が取り上げられる中で、欧米の事情が取り沙汰された。寄付行為が、納税の仕組みにおいて、優遇されると知られる国では、publicが付けられた放送局の運営は、寄付金で賄われている、と画面で示される。一方、集団からの離脱で、依然として、不安定な状況にある国では、国営放送は、こちらと同様に、受信料によって支えられている。ところが、徴収の仕組みが、全く異なっているらしい。支払わないと、受像機自体を、手に入れられない、という仕組みなのだ。同じ感覚で見れば、契約の自由とは、異なる状況に思えるが、こちらでは、購入は自由だから、受信料契約も、となるかもしれない。さて、どんな判断が下されるか。だが、危機は、別の所にもある。公共性を保つ為に、何が必要とされるか、を考えると、一つは、国民全員が、同じ情報を手に入れられるように、という点がある。災害時の、しつこい程の報道には、この観点が感じられ、それに接することは、利益と思う人も居るだろう。それは維持されているものの、公共性の観点は、不偏不党と表現されるように、自由・公正である必要があり、そちらについては、どうも、中立とは思えぬ状況にある。数値を伝える際に、一部のみを伝えたり、あるものだけを強調したりと、思惑が漂うものが、増えつつあるのは、どうかと思う。分かりやすい報道が、偏りを強めたことは、明らかだろうが、それが、公共性を弱めたのではないか。ただ、支払い拒否の根源には、強い意志があり、そこでは、偏りも強まり、自由・公正を嫌うことも、明らかだろう。
若者達の資格志向が、異常とも思える程に、高まっていた。卒業前に、どんな資格を取得すれば、就職に有利になるか、などと言われ、俄仕込みの勉強や、宝探しに走る人々が、目立ち始めていた。だが、それも、遠い過去のことに、なってしまったのかもしれない。
一つには、売り手市場となり、求人数の増加が、学生達に、余裕を与えたからであり、自分の特長を、殊更に強調しなくとも、それなりの職を得られる、という状況が、生まれたからだろう。競争が激しかった時代には、他人を出し抜く種を、何かしら持たないと、不安に苛まれたが、濡れ手に粟は、言い過ぎとしても、手に余る程の数を、与えられるようになると、落ち着いて、実力勝負に出ることができる、という訳だ。もう一つは、不安感により、判断ができずに、噂に振り回されたのだが、現実に、使える資格が、殆ど無いことに、余裕が生まれることで、気付き始めたということだろう。その中で、資格離れの状況が、強まるのではないか、と思える事件が、次々に起きている。実際には、長年の間、不正が続いたということで、資格の有無は、現場では、無視され続けてきた、ということらしい。製造者の責任が、ある法律が施行された時から、より厳しいものとなった、ということも、既に忘却の彼方となり、また、国の誇りとしての、品質の高さも、本来ならば、資格制度によって、保たれている筈だったが、守られていない現状では、汚ればかりが、目立つこととなる。まして、業界の代表者たる人物から、検査制度の見直しが、今語られるようでは、消費者の、騙されたという感覚は、さらに傷口を、広げられた気がしてくる。資格とは何か、改めて考えるべきは、若者だけでなく、製造業に属する企業全体に、課せられたものだろう。失墜した信用が、回復できるかは、真摯な態度に、かかっている。
名誉と言えば、名ばかりで、何も手にしないこと、となるだろうか。給与を伴わない、職のことを、名誉職と呼び、地位は保証されるものの、それ以外は、何も手にしない。無駄と思う人は、多いだろうが、逆に言えば、手に入れたくても、中々入れられないもの、と言えるだろう。
表彰されることも、名誉の一つだが、それを手に入れる為の努力は、それぞれに、怠らなかったからこそ、そんな栄誉に、浴することが、できたのだろう。ところが、最近の傾向は、先程の無駄の話ではないが、名誉しか手に入らないのであれば、要らないとなるようだ。これも、別の見方をすれば、名誉としか思われていなかったものを、何かを手に入れる為に、使う人が増えたということだ。本来、名誉職でしかなかったものも、社会的地位を、上げる為に使われるし、表彰されたことで、名前が知られることで、別の機会を、手にすることも、多くなった。こうなると、選ぶ側にも、様々な責任が、降ってくる。お墨付き、などと言われ、保証したかのような、扱いを受け、何か不正が行われると、その責任を負わされる、などということになりかねない。これも、逆の見方をすれば、相手の実力を測るのに、自分の目ではなく、他人の目を信じ、それに頼るということだろう。本来、品質は、製品を眺めたり、調べれば、それで見極められるし、力量も、直に確かめてみれば、大凡のものは、見えてくる筈だ。しかし、そんなこともせず、世間の評判や、識者の推薦を、頼りにすることが、増えてきたことが、名誉と呼ばれるものを、汚しているような、気がしてくる。こうなると、様々な思惑が飛び交い、何かを選ぶにも、本質的なことではなく、表面的なものに、振り回されることになる。困った事態だが、その原因は、自分達の中にあるのだから、自ら手で、何とかせねばならない。
膨大な数字を、どう扱うかが、最大の課題である、などと言われる。確かに、情報収集が、盛んとなるだけでなく、その為の手立てが、様々に講じられる中で、半自動的に、膨大な数値が、集められている。しかし、それをどう扱うかは、まだ、明確な答えが、出されていないようだ。
宝の持ち腐れ、などと揶揄されるが、数値を集めるだけでは、何も起きない。しかし、集めなければ、また、何も起きない訳で、どちらが先に来るのか、ということだけだろう。そこで、最近話題となる課題は、集められたものを、どう整理し、役立つ情報を、そこからどう拾い上げるか、であると言われる。今巷で話題となっている、解析手法は、確かに、希望に満ちたものの如く、見えなくもないのだが、実際には、夢ばかりが語られ、本質的な問題に、取り組む姿勢が、作られていない。こんなことが、あんなことが、とできそうな話が、語られているが、一度も、確実な話が、紹介されたことはない。このままでは、夢が萎んでしまうのでは、と懸念する声が聞こえるが、実際には、確実なことが、数値解析から、語られる筈はないのだ。元々、数字を集めて、そこから傾向を、導き出すという手法では、確率を論じることはできても、確実な話はできない。にも拘わらず、それが確立されれば、道が開けるかのように、確実な話として、紹介することに、大きな問題がある。そこに横たわる、大きな問題は、確率のような、数値に対して、正しく理解し、対処することが、できない人が、あまりに多過ぎることだろう。愚かな庶民には、その気はなく、ただ単に、結果のみを知れば、自分の選択を、後押ししてくれる、という気持ちしかない。だが、国や企業の中枢に、座る人間にとっては、数字を理解し、そこから、決断する必要がある。だからこそ、数字の理解が不可欠なのだが、どうにも、怪しい状態のようだ。
爽やかな季節の筈が、長雨が続いた挙句、季節外れの台風襲来で、更なる雨量が、舞い落ちてきた。水不足が懸念された、夏の初めの話は、すっかり忘れ去られ、迷惑と感じる程の雨に、運動の秋は、難しくなっている。不平不満と、異常気象と、心配の種は尽きない。
今回の雨で、異常が感じられたのは、傾斜地下の舗道に、幾つも水の流れが、見えていたことだ。都会と違い、地方では、まだまだ土が顔を出し、自然に溢れていると、実感できるが、そんな環境でも、吸い切れない程の、多量の水が、落ちてきたということだろう。通常、傾斜地では、崖崩れが心配され、その兆候の一つに、普段とは違う、水の流れが挙げられる。今回のものは、どれも、澄んだ流れだったから、表土が流され、そこから、土砂崩れが始まる、という流れには、なっていなかったが、それにしても、溜め切れない程の量とは、どんなものなのだろう。雨の最中ではなく、止んだ後に見え始めた流れに、どんなことを考えればいいのか、天気予報の中では、殆ど説明されない。災害から逃れることを、第一に取り上げるのだから、大丈夫な話は、不要ということか。人間の身勝手な考えに、警戒を出し続けることを、あの業界は保っているようだが、判断力の無い人間には、どんな情報も、効力を失う。言われたことを、正しく守る、のではなく、ただ、勝手な判断の為に、誰かが言ったことを、利用するだけなのだから。今回の現象から、どんなことが、考えられるのか。自分なりの解釈を、するしかないのだろうか。それとも、情報社会では、こんな話も、どこかに行けば、説明を聞いたり、読んだりできるのだろうか。済んでからなら、調べる時間もできるが、災害が襲う最中では、そんな暇も見つからない。やはり、自分の判断だけが、頼りということなのだろう。
公教育に、求められるものは、何だろうか。人気取りに、腐心する人々は、無償化を、切り札の如く使い、勝利を得たと、思っているようだが、中身を論じずに、只だからと言うのは、如何なものか。それこそ、只より高いものはなし、となり兼ねない。愚民に有り勝ちなことだが。
公教育でも、義務教育の期間は、金銭価値に目を奪われず、質を保つことが、容易にできそうだが、現実は、状況悪化を、止められずにいる。家庭との関係も、問題の一つとなり、分担が模索されてから、随分長い時が経っている。にも拘わらず、荒廃が止められないのは、応分の負担、という考えが浸透せず、無償化と同じ心情から、教育現場に、過度な負担を、求めているからだろう。だからと言って、親達だけに、責任がある訳ではない。教育に携わる人々の、一つ覚えのような、教育の力に関する認識も、その原因の一つとなっている。機会さえ与えれば、全ての人間が、ある程度の能力を、身に付けることができる、ということが、信じられているが、現実との違いは、縮まる気配さえ見えない。運動能力について、ある程度の諦めがあるのに、勉強には、それがないことに、不思議を感じない人に、判断力があるとも思えないが、自分達の力を、過信する人々に、子供達の将来を、任せていいものか、もっと考えるべきではないか。基礎的なものについては、まだ、可能性があるだろうが、それを積み重ねた上に、築かれるべき、発展的なものについては、歴然とした差が、あるのが当然だろう。だが、現場では、兎に角、機会均等が保たれ、その上に、同程度の能力獲得が、達成されると信じられている。個々の能力を、如何に伸ばすかが、肝心と見ながら、その一方で、同程度を目指すのは、どんな感覚なのか、想像がつかない。その中で、無償化は、問題を、更に複雑にさせそうだ。
書く気が失われる程、惨憺たる結果だ。でも、これが現実なのだ。失敗を恐れ、不安を口にする。そんな人々が、巷に溢れた結果、現状維持が、一番の願いであり、冒険は、無駄なものと片付けられる。変化を望まねば、何が起きるか、経験の無い者には、わからないのだろう。
安定した時代に、一番適合した制度、と言われるのは、たった一人を、選ぶ形式なのだ。現状への不満を、強く感じた時だけ、情勢が大きく動き、それ以外は、現状維持となる。変化は、良い方にも、悪い方にも、動くのだから、楽しみだと考える人は、こんな時代には、ほんの一握りしか居ない。兎に角、今が一番と考えるのだが、成長過程での、今が一番とは違い、前者は、成長を含む、変化自体を望まないのだ。経験済みの人々からは、それがゆっくりとした、衰退を始めた時、誰も気付かず、油断する中で、取り返しのつかない段階へと、進んでしまう、と見える。その時になってから、気付いても遅い、と訴える人々が、今回も、声を張り上げていたが、それも、的外れな指摘に終わり、人々の心に、響くことは一切無かった。その通りの結果となったが、無駄な浪費を仕掛けた張本人は、自らが進めた変化への、賛同が得られた、と思い込んでいる。このまま、次の変化を、始めればいい、と思ったとしたら、それは、あらゆるものへと、適用されるのだ。変化を望まぬ人々は、そんなことに、気付く筈もない。今のまま、何も起きなければ、幸せと思うだけで、たとえ、変化を仕掛けても、身の回りに、大きな変わりがなければ、それでいいと思う。それこそ、あの人物の、思う壺ではないか。まあ、結果が出てから、こんなことを言っても、詮無いことだろう。経済さえ、安定成長をしていれば、それで良し、と思うかどうか。でも、と思うから、こんなことを、書き続けるだけなのだ。