文章より、映像で、理解させる。今や、ごく当然のこととして、認められているが、何がどう違うのだろうか。こんな疑問を、ぶつけられたら、どう答えるのか。分かり易いから、とか、視覚に訴えるから、とか、まあ、様々な答えが、返ってくるだろう。でも、本当にそうなのか。
視覚に訴えることで、一つの答えを示す。それにより、誤解を避けることが、できるという訳だ。だが、それは、逆に、たった一つの答えを、示しただけとなる。答えが、幾つもあって、それぞれに、別の展開が、考えられる、としたら、映像にすることは、可能性を狭めることに、ならないだろうか。元々、一つの答えしかなく、道筋を、決めることが、話の展開において、重要である場合には、このやり方で、何の間違いも起きない。しかし、そこから、考えを巡らすことで、色々なことを、思い描くことが、重要となると、制限をかけることは、強く誘導することになり、多様性が失われ、場合によっては、話の深みが、失われてしまう。文学作品の多くは、読み手の想像力に、頼る部分があり、それによって、面白さを強めることもある。それが、演劇や映画になると、筋を追うことが、容易になる代わりに、展開の面白さが、損なわれてしまうことがある。どちらが良いのか、人によることだが、近年の傾向は、映像に軍配が、上がるようだ。分かり易さが、優先された結果、とも言えるだろうが、実は、もっと重要なことが、あるように思える。それは、想像力の欠如、という問題だ。部分的に与えられた情報から、全体を組み上げる為には、失われた部分を、自ら補う必要がある。そこで、活躍するのが、想像力の筈だが、成り行きを考えるより、その場で、思考停止してしまう人が、急速に増えている、と言われる。原因は、いつもの如く、傾向と対策だろうが、それにしても、これ程となると、心配したくなる。
村起こし、町起こし、田舎と都会の区別なく、様々な催しが、様々な思惑を抱き、行われている。だが、その中身は、玉石混淆、というよりも、何か、石ころのようなものが、目立っている。人が来ないから、とばかりに、集めようとすれば、無料のばら撒きが、最も効果的だ。
ただで、何かを配れば、人はやって来る。呼ぶ方も、来る方も、情けない心持ち、としか思えない。人寄せパンダを、用いる手法も、相変わらず、行われているようだが、ボランティアを除き、利を得るのは、既に名を売った人、だけだろう。商店街の催しも、最近は、そんなものばかりが、目立っている。賑やかさを、取り戻したいから、との理由が、何度も出されるが、嘗ての繁昌は、人の数ではなく、客の数で決まっていたのだ。人はやって来たものの、無料のものに、参加するだけで、肝心の商店の、店先に並ぶ商品には、目もくれない。馴染みのあるものだが、通信販売の方が、遥かに安いから、という理由のようで、流通の仕組みの変化が、本来の原因であり、人が来なくなったのは、副次的なもののようだ。その中では、人集めだけでは、何も起きない。他では、手に入らないものを、売り捌くか、あるいは、安売りを徹底するか、しか、方法がないのだろう。でも、後者では、薄利多売の競争相手を、負かすことは、殆ど不可能だろう。では、前者はどうか。地元の商品を、並べることで、新たな展開を、手にした地方もあったが、どこでも通用するものではない。ただ、独自の品を、売ろうとする人は、どんな場所にも、居るだろう。その仲介をすれば、複雑な仕組みを省き、直接の利益を、得られるかもしれない。簡単に思えるが、どうも、不慣れな人々にとって、妙案が出てこないらしい。これでは、また、同じことの繰り返し、さて、打開への道は、見出せるだろうか。
人間が、生きている中で、唯一、自分の意思で決められないものは、死であると言われる。どれ程避けようと努めても、避け難いこととして、皆が認識する所だが、逆に、その選択を、決断する人が居る。決められない、と言われたのは、結局、避ける方だけなのか。
何故、そうしなければ、ならなかったのか、残された人々は、それぞれに、心を巡らす。しかし、本人でない以上、答えに行き着くことは、ないだろう。だから、という訳でもあるまいが、何かしら、原因なるものを、掘り出そうと、努力し始める。その結果の現れが、例えば、学校でのいじめや虐待、職場での過剰労働、などとなる。確かに、それらも、一因となったには、違いないだろうが、同じ境遇の人が、居ない訳でもないだろうから、その中で、あの選択が為されたのは、何故なのか、疑問は残る。当事者達が、こう考えるのであれば、今、社会で取り上げられている、問題の多くは、手付かずのままに、放置されていただろう。だが、現実は、全く違う方に、向かっている。いじめや過労の、原因を作った人々が、全ての責任を負わされ、彼らに対する、社会からの糾弾は、厳しいものとなる。被害者保護の観点から、彼らの主張に対して、異論を唱えることが、難しい時代となったことも、今の社会の歪みを、強めているのではないか。敢えて、この場で、こういう指摘をすることは、殆ど意味を成さないだろうが、でも、言わないままでは、社会全体が、あらぬ方に向かうのを、止めることは、とても難しくなる。そういう思いで、一つだけ指摘するのなら、死にゆく人の、心の状態に、もっと光を当てるべきではないか。そこに至る過程で、どんな要因があったか、に注目するだけでは、この問題は、解決の糸口さえ、見いだせないように思う。
断定を避ける言動に、厳しい批判の矢が、向けられた。その一方で、不思議に思えたのは、批判を繰り返す人々の多くが、日常的に、断定を避ける言葉遣いを、繰り返していることだ。特に、若い世代に目立つが、「のような」「の方」「〜とか」などと、言い続けている。
批判に晒されたのは、多くの科学者で、様々な情報を、分析した結果は、あくまでも確率として、示されるのみで、その結果は、「確実」となることは、決してなく、僅かでも、別の可能性が残る場合、それに言及する必要があり、断定できないとなる。つまり、これは、避けたのではなく、分析結果という事実を、そのままに報告しただけのことで、科学の世界では、当然のこととして、扱われる。ところが、不安や心配に、苛まれる人々は、安全・安心を、追い求めるから、その為の確実な答えを、要求し続ける。だが、知識が豊かで、学問を究めたと思う、目の前の人は、何事も、確実とは言わず、自分の心配を、取り除いてくれない。だが、扱き下ろすのも、当然との態度を見せるが、では、自身の言動は、どうか、顧みたことがあるのか。自分のことは、棚に上げて、他人を批判する。現代社会には、よく見られる現象だが、これを、許す風潮にこそ、大きな問題がありそうだ。何故なら、科学者は、根拠を持って、断定しないのに対し、この手の人々は、何の根拠もなく、怪しげなことを、口走るだけでなく、その際に、責任を避けようと、断定していないだけなのだ。こんないい加減な人々に、混乱していた時は、あれ程に、振り回されていたのか、と思うが、実は、その状況は、依然として続いている。一昔前の騒動が、収まる気配がないばかりか、それが一層深刻化し、好き放題の言動が、流布する状況は、悪化の一途を辿る。それは、自己崩壊に、見えてくる。
道路上のことだから、という理由だとしたら、何と馬鹿げた話か、と思う。昔は、業務上という用語がつけられ、違和感が強まった挙句に、別の呼び名が付いたが、免許取得により、権利を得たからこそ、業務と呼ぶのだ、という論法は、受け入れられなかったようだ。
それでも、自動車運転という作業の、最中に起きた事故に対して、適用されるものであり、車を降りて、殴り合いが起きたとしたら、普通の事件として、扱うべき話なのではないか。高速道路上で、相手の車を、無理矢理止める所までは、自動車運転に違いないが、その後、車から相手を引き摺り下ろす、という行為をするには、運転を離れる必要がある。となれば、路上の喧嘩と同じ扱いを、するのが道理だろう。だとしたら、道路上での行為は、その後に起きた事故を、予測できるものであり、それが、人の死に繋がったとしたら、未必の故意、この場合は、未必の殺意、と呼ばれる行為、と見做すことができる。罪状を、どう扱うべきかで、運転の危険度を、高く評価しようとする動きが、あると伝えられるが、現実には、誰も運転しておらず、免許とは無関係な出来事と、見るべきと思う。法律の解釈、などと言われるが、そんなものの前に、もっと深く、状況を把握し、何が、原因だったかを、検討すべきと思う。現代社会は、様々に、複雑な要素が、絡まっているから、困難が伴うなどと、苦情や心配を、訴える人が居るが、冷静に、判断することなく、ただ、闇雲に、感情に訴えようとするのは、最も悪いやり方、ではないだろうか。この事件に関しても、感情の昂りを、抑えられない人が、居るようだが、的外れが甚だしく、間違った扱いが、横行している。同情しようが、判断を誤れば、何の意味も成さない。そんなことも、見極められない社会は、やはり、歪んでいるとしか、思えないのだ。
世の中は、何と理不尽なことばかりか。自由を追い求め、賛同者を募って、行動に出る。現代社会では、当然のこと、と認められているが、何の制限もない、という訳ではない。様々な柵があり、それらに縛られつつも、自由を謳歌するには、色々な条件を、満たさねばならない。
ある東欧の国から、一部地域が独立した、との報道に、驚いた人は、多かった。住民投票によるもの、との報道に、耳を疑った人も、多かっただろう。現実には、ある国の介在により、力でねじ伏せた、と言われている。武力による独立に、投票との話は、やはり謀略を、覆い隠す為のものだったのだ。当事国は、依然として、異なる見解を、貫き続けているが、東側、と呼ばれた時代の、何度も繰り返された、暴挙を思う人には、通用しそうにない。多くの地域が集まり、国という形を保つ中では、不平不満が募ることも、多くある。占領され、抑圧を感じる中で、独立は、唯一の答え、と思うことが多いのは、彼らにとっては、当然のことだろう。だが、長く続いた共和制において、多種多様な地域が、協力して、国を築く中では、独立という離脱は、幾つもの痛みを伴うものとなる。民主主義に則って、とのことから、投票という手段に出たとしても、全体からの同意が得られなければ、暴動や革命の一つと、見做されても、致し方ないだろう。反逆との判断が出された、と伝えられるが、首謀者と思しき人間は、既に国外脱出したとも伝えられる。理不尽は、ここにこそあるのだ。騒動を起こし、それに住民を巻き込んだ挙句、自らは、さっさと逃げ出す。残された人々は、何を思うのか。他国に攻め込まれる度に、逃げ出す王に比べ、庶民は、強く生き残らないといけない。そんな歴史が繰り返された、隣国の様は、やはり理不尽と思える。だからと言って、好き放題の発言が、許される訳ではない。
ここでは、なるべくカタカナ語を、使わないようにしている。意味不明なことが多く、多くは、この国でしか、通用しないからだ。最近は、どちらかと言えば、和製英語より、英語をそのままに、という場合が増えてきたが、それでも、意味の理解は、不十分なことが多い。
最近も、スマートなる言葉が、多用されている。ただ、この言葉は、ずっと昔から使われ、それなりの市民権を、得ているから、違和感は少ないようだ。では、どんな意味で使われるのか。こちらは、元々の意味が、多種多様であるだけに、一つに絞られる訳ではない。体型の良さを、表す意味で、使う場合が、昔は多かったが、こちらは、少し誤解に基づくようだ。その用法が、避けられるようになり、暫くは、余り耳にしなかったが、最近の用法では、賢いという意味に、使われている。それも、初めのうちは、多機能の機械を、指すことが多く、スマホなどと呼ばれるのも、その一つとなる。この使い方に、問題はないのだろうが、それでも、英語でも新語なのだろうから、意味が固定するまでには、暫くかかりそうだ。同様に、人間に関わる部分でも、スマートは、賢いという意味に使われる。特に、働き方という点で、賢さが、注目されているようで、多用され始めたようだ。効率や成果が、重視される中では、この考え方に、注目が集まるのは、当然のことだろうが、小手先ばかりの対策が、頻出する中では、俄かに信じ難いものでしかない。効率と称して、時間短縮を目指すやり方では、実質を見る姿勢が、失われてしまうし、成果と称して、過大評価を繰り返せば、基盤から崩れかねない。従来の考えは、否定されることが、多くあるものの、自分の意識として、実は、愚直こそ、大切にせねばならない、感覚なのではないか。それを貫きつつ、どう賢く生きるのであれば、何とか均衡は保てるだろう。