できなくてもいい、と言われたことは、ないだろうか。強いることが、忌み嫌われる時代には、こんなことが、あらゆる場面で、起きている。では、何もできないで、本当に良いのか。そんな訳はなく、突然、何故できないのか、と指摘される。突然の圧力に、悩まされる訳だ。
大切に育てられ、悩み一つ持たずに、成長してきた人間は、ちょっとした負荷や変化に、弱いと言われる。一概には、言えないものの、周囲を見渡すと、そんなことが、当てはまる人の顔が、すぐに浮かぶのではないか。彼らの悩みは、正体の知れない抑圧に、どう対応したらいいのか、判らないという所から、始まっているらしい。できなくても、という救いの言葉に、文字通り、救われた経験の持ち主ほど、こういう場面で、悩みの淵に、沈んでいくとも聞く。小さな頃から、難しいと感じたことに、取り組む姿勢が、築かれてきた人は、同じように悩むにしても、解決の糸口を、見出そうとする。投げ出したりせず、少しずつでも、前に進もうと努力するのだ。ところが、順調に成長してきた、と思われた人々は、実は、自力で解決した経験はなく、糸口の見つけ方にも、触れた経験はない。悩みから逃れる為に、解決へと繋がる道を、模索することは、一見無駄に思えるが、他人からの助けを、得るよりも、後々役立つことが、沢山あるのだろう。ところが、その獲得を、妨げるように、手が差し伸べられ、対策法が、伝授されていく。心の動きとして、悩みは、思い通りにいかない、不安が伴うもので、不安定が高まると、精神的に厳しい状況に、追い込まれる。このことも、幼い頃なら、大した傷も残さずに済むが、成長した後では、大怪我となるだろうし、時に、回復不能に陥ることもある。こんな見方をすれば、幼子に向かって、何でもしてやることは、害ばかりとなる。それでも、心配だから、助けてやりますか。また、差し伸べられた手を、払ってみようと思いますか。
できないから、しないと言って、何が悪いのか、と思うのだろうか。教える側から見れば、今できることで、満足してしまうと、成長の機会を失うと思える。この矛盾が、どこから来たのか。本人の責任は、当然のことだが、彼らを育てた人々の責任も、同様に重いのだ。
初めに書いた話が、別の形で現れたものが、知らないことは、わからない、との主張だろう。全ての情報を、手にすれば、そんな戯言も、真実となるが、人工知能と雖も、そんなことは、まだ夢のままだ。成長を妨げられた、と騒ぐ人々の多くは、実は、一方で、こんな主張を、当然のものと思い、大真面目に唱える。要するに、妨げの張本人は、まさに、本人であることに、気付かぬ程に、愚かなのだ。できないことを、できると大ぼらを吹くのは、馬鹿げたことに違いないが、だからと言って、こんな形で、自分の無知を曝け出すのに、何の抵抗も覚えないのか。不思議に思うのは、世代の断絶の為だろうか。最近の愚かな大人達の特徴に、分かってあげる、という話があるが、「あげる」を使うこと自体、無知が現れているが、それに加えて、相手の理不尽さを、叱責するどころか、その事情を、汲み取ることこそが、重要とまで言い切る。愚の骨頂と思えるが、世の風潮は、そんな方に向いている。寄り添うとか、理解するとか、優しさを表に出すことが、人を育てることに繋がる、という考えは、ある時代に、極端に持て囃された。ゆとり世代と呼ばれる人々が、育ったのは、まさにその最中だろう。一度歪んだ仕組みは、早晩には回復しない。今も、こんな連中が、学校や社会で、大きな顔を見せることに、苦い思いを抱く人は、沢山居るに違いない。だが、叱責は、ハラスメントと見做され、指導は、無理強いと断じられる。社会全体が難しいなら、目の前から始めるしかない。
他人に、ものを聞くことを、恥と感じる人が、多いようだ。昔から、聞くは、知らぬは、などと言われるように、聞かぬことは、戒められてきた。恥もあるだろうが、知らないことで、叱責されることに、怖気付く人も、多い。だから、という訳でもないが、面と向かわぬ仕組みが、好まれる。
顔が見えない世界、そんなものが、これ程に普及するとは、誰も予想しなかった。特に、利便性ばかりが、取り沙汰され、匿名性は、文字通り、姿を隠していたようだ。ところが、利用者の中には、手軽さより、恥や叱責を、避ける手立てとして、この世界を、使いこなす人が、急激に増えている。検索のように、一方向性のものではなく、意見交換の場を、提供すると言われる、双方向性のものでは、特に、顔を知られずに済む、という点に、着目した利用が、急速に広がってきた。その結果、無責任な発言が増え、煽動を目的とした、根も葉もないが、実しやかで、あり得そうに思える、話題を提供する場として、災害などの場面で、無駄な活躍を見せることとなった。嘘に固められたものでも、不安に苛まれ、冷静さを失った人々は、判断を誤り、振り回されることとなる。こんな道具が、更に、その悪影響を見せるのが、犯罪と結び付くことだろう。特に、若年層に、その被害が広がり、簡単に騙されることに、愕然とする。実は、顔を見せずに、寄り添うことが、不安を抱く心には、大きな魅力と映るようで、大の大人には、理解し難く見える。だが、その一方で、若者達の中に、不用意な発言が目立つのも、匿名性が産んだ、悪影響の一つと思える。「死にたい」と聞けば、大事と捉えるのは、大人だけであり、本人を含む連中は、日常的に、発言し続ける。表現の一つ、と見做すのは、人の勝手だが、誤解を招こうと、意図するのなら、罪は重い。ただ、それが、自らの命が、奪われることに、繋がるとは、本人も含め、周囲の若者達の誰も、思わなかっただろう。
不安を煽る言動に、厳しい批判の矢が、向けられるが、反面、それを、自分の不安に、寄り添うものと、受け取る人が、何と多いことか。付け込む隙を、与える人を、煽る人間と、同罪と見做すことも、可能かもしれないが、苛まれている心情を、考えると、厳し過ぎるのかも。
同じ罪と考えるのは、殆ど意味を成さないことだが、暴言を放置するだけでなく、その主達に、力を与えることとなるのは、看過できないことだ。では、何が必要となるのか。一つには、正しい説明を、理解させる手立てを、講じる必要がある。遅過ぎる、とも言われるが、論理を理解する為に、必要な要素を、幼い頃から、与え続けることが、第一であり、更には、論理の展開を、正しく行うことに対し、相応の評価を、与えることが、重要となる。理屈をこねる、などと冷やかしたり、口ばかり、と批判したり、論理を用いる人間は、年齢とは無関係に、冷ややかな目で、見つめられることが多い。だが、それを放棄すると、勝手な論理を使い、他人との協調が、図れない人間に育つ。今の社会には、こんな人間が溢れ、不安とか心配とかを、頻繁に口にし、他人の迷惑を考えず、自分の利益を追い求め、時に、秩序さえも乱すこととなる。本人の心情は、尊重されるべきだろうが、論理に沿わないものでは、冷たく扱われても、致し方ないだろう。冷静に考えれば、単純な論理を、用いるだけで、周囲から認められるが、それをせずに済ませるのは、弱者が、殊更に保護される、時代だからなのだ。だが、様々な歪みが、重なる中で、解決を模索しようとすれば、作られた強弱に、目を奪われてはならず、冷静に、論理に頼ることこそが、重要となるに違いない。時間をかけ、次代を担う人材を、育てることと同時に、今、論理が通用しない人々に、解らせる為の時間も、かけねばならないだろう。
騙される、それも、何度も。こんな人が、話題として、取り上げられるのを、眺めている人は、どんな思いを抱くのだろう。自分は違う、と思うのか、それとも、同じような目に、遭わされるかも、と心配するのか。何れにしても、騙される側の考えで、騙す側の考えには、及ばないらしい。
実は、ここに、騙される要因が、あるのではないか。騙す側の考えを、理解できるようになれば、どんな言葉が届き、どんな展開が広がるのか、前もって知ることができる。悪者の考えには、自分は染まらないから、と思う人からすれば、何を馬鹿げたことを、と言われるだろうが、単なる想像の範囲で、考えを巡らすだけで、実行に移さねば、騙すことはないのだ。こんなことを、毛嫌いする人の多くは、実は、想像力の欠如が、問題となっていて、相手への配慮や気遣いなどが、行えないことになる。これを障害の一つと、数える風潮が、今は異常な程に、高まっているが、その能力が、先天的に欠けていると、断定しても、何も起こらないのではないか。それより、自らの短所を、意識しつつ、それを補う手立てを、講じていけば、僅かながらも、変化を引き起こすことが、できるようになる。障害という救いの手も、一種の騙しに過ぎず、自己満足を、引き出す為の手立て、となっているようだ。ここでも、いとも容易く、騙されている人が、居る訳なのだ。互いの思惑の一致が、そんな風潮を高めているが、ほぼ無駄に過ぎないことに、何故、これ程多くの人が、引き寄せられるのだろう。ある新聞で、文章を理解する、能力の低下が、若年層で、著しくなっている、との話題が、取り上げられていたようだ。対象を、大学生と括っているから、そんな結論が導かれたのだろうが、現実には、あらゆる年齢層で、そんな傾向が、強まっている。読む力には、実は、想像力が、強く関係していることに、気付くべきだろう。
宣伝は、その提示方法が、変化しただけでなく、内容も、大きく変わったように、見える。過大広告は、法律で、禁じられているが、その一線を、越えることも多く、短い期間しか、目に触れるだけで、姿を消すこともある。それほどでないものも、何処かが違う、と感じられる。
実績を、表現するだけ、との説明が、行われるが、実際には、ほんの一握りに過ぎず、大部分は、その域に達しない。そんなものが、過大に当たるかどうかは、判断によるだろうが、画面の端に、読めない程小さい文字で、表示したからといって、正当と主張するのは、身勝手なものだ。それも、印刷物ならいざ知らず、映像という、一瞬しか提示されないもので、となれば、違法と断じるべきと思う。そんな手法が、多用されるに従い、訴えられるものが、増え続けているが、一方で、芝居として、広告内容を、訴える形のものも、昔とは、形を変え始めている。街角で、呼び止めた人に、性能を、実感させるという形式は、ドイツ生まれの髭剃りの、広告から始まったと言われるが、その全てが、芝居だったのでは、との指摘は、今でも残っている。そんな疑いを、かけられるくらいなら、との判断か、全てを芝居として、演じてしまうやり方が、最近は、よく見られるようになった。だが、そこで語られる内容は、広告主にとって、有利に働くものばかりで、怪しげな雰囲気が、プンプンと臭う。それでも、使われる言葉を、注意深く聞くと、断定とならず、しかし、誤解へと導く、そんな言い回しが、多用されている。魅力を、訴えようとするのに、都合のいい表現は、こんな小芝居では、好まれるようで、その用法は、他でも使えそうだ、とも思える。人の賛同を得る為に、言葉を弄するのは、一部の職業の人だけでなく、万人に共通する要素、となるだろう。しかし、中身を騙ることには、変わりがない。所詮、騙しているに過ぎないのだ。
広告の形態が、大きく変化した、と言われる。一方向だったものが、双方向になった、という話だが、何の変化も、感じていない、という人も居るだろう。何が変わったのか、一つには、自分が集めた情報に、見合うような対象を、画面に表示する、という仕組みがある。
インターネットでは、検索を利用する人が、一番多いだろう。情報収集、と言えば、その通りだが、それまでの、書物などからの収集と違い、他人に気付かれない、という訳にはいかない。以前は、何かを調べているらしい、と気付かれることはあっても、何を、という点にまでは、悟られる心配はなかった。ところが、検索という作業により、どんな言葉を、調べようとするかだけでなく、その言葉から連想される、事柄を導き出され、関連用語の検索を、促されるに至り、詮索されている感覚を、抱くことが多いし、更に、検索結果から、閲覧した頁を、自動的に解析され、それに関連したものの、広告が、画面に表示されるようになる。これでは、見張られている、という感覚を、抱くのも、無理もないことだろう。ネット上で、匿名を使ったとしても、詮索する側からすれば、どの地点から、閲覧するかの傾向から、人物を割り出すことは、さほど難しくない。こんなことが、繰り返されるうちに、利用者は、全て正体を知られ、どこかで、それらの情報が、活用されることになる。個人情報に、世間は煩くなっているが、こんな状況で、秘密の保持を、声高に訴えたとしても、殆ど役立たないだろう。秘密だから、問題になるのなら、大っぴらに、話せば済むことなのだ。