パンチの独り言

(11月13日〜11月19日)
(伝統工芸、気配、降板、傍迷惑、親心、子育て、盲進)



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11月19日(日)−盲進

 同好の士、であればまだしも、赤の他人に、自分の嗜好を押し付けるのは、如何なものだろう。とはいえ、自分の言動を、振り返ってみると、思い当たる節が、無い訳でもない。だが、若者達の言動には、理解できぬものが多く、目的も、不明確なだけで、価値は見出せない。
 年長者が、そんな調子で、叱責を繰り返すと、縮み上がった人々は、更に、あらぬ方へと向かう。そこに差し伸べられる、救いの手の多くは、理解を示し、変えずとも良い、などと、甘い言葉を重ねる。将来をどうするのか、人それぞれに、悩みの尽きない課題だが、だからと言って、目の前の敵に、背を向けて、何が起こるというのか。一見、繋がりのないことのように、思える事柄について、最近は、意外な程の連なりを、感じることが、多くなっている。仲間意識が、その根源にあるようだが、全てを託すことのできる、相手の存在など、あるはずもない。にも拘わらず、それを追い求める人の数は、増えるばかりで、減る気配さえ見えない。仮想空間での、繋がりを求めるのも、現実逃避の一種だろうが、そこから、現実に戻された途端に、命の危険を、実感することになるとは、思いもよらなかったのだろう。だが、普通の感覚から見れば、これ程、馬鹿げたものはない。逃避の原因も、多くは、身勝手な解釈によるし、独り善がりの考えが、膨らんだ末であることが、殆どだろう。自分勝手に、穴を掘り、そこに嵌った挙句に、悲鳴をあげるのでは、救いようがない。だが、そう断じられては、立つ瀬もない、となるのだろう。自分で書いた筋書きに、沿うが如くの、悲劇的な展開に、酔い痴れているように、悲惨な結末へと、走り続ける。勝手にしたら、と思うのは、普通の感覚ではないか。本当に、救いが必要なら、思い切って、告白しにくる筈なのだから。それができなければ、結末へと突き進むだけだ。

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11月18日(土)−子育て

 進路の話の続きだ。親心が、いかに役立たずか、そんなことを並べても、誰も、興味を抱かない。当人以外には、通じない話だから、所詮、無駄話に終わる、と言われる。だが、本当に、そうだろうか。他人の家の話、と片付けず、別の横槍を、入れてやるのも、一興ではないか。
 資格に走るのは、何も、若者に限ったことではない。親が、挙って、取得できる資格を、気にするのは、手に職を、という世相を反映したもの、と映るようだ。だが、実態も知らずに、そんなことを並べても、実は、何の意味もないことに、親は気付こうともしない。子供の人生を、振り回した挙句、「あなたの為」などと宣われては、迷惑千万となるだけだ。しかし、変化の少ない時代には、そんな声の方が、力を持つこととなる。先が見えないのなら、何をやっても、確実なことはない、となるが、見通せると思う中では、確実と保証することで、力を得る訳だ。これが、自分で変化を起こそうとする、子供の気持ちを、蔑ろにするなどと、指摘しようものなら、親の務めとの反論が、返ってくる。だが、将来を決めるのは、本人でしかなく、変化を経験するのも、親ではなく子供なのだ。資格に縛られる環境に、親の命令に従い、足を踏み入れた途端に、別の世界を目にしたら、本人は、どんな気持ちを抱くのか。心配性の親程、視野が狭く、他のことは、目に入らない。進学後に、問題が起きたとしても、親の心子知らず、とばかりに、嘆くだけなのだ。楽な道を、という親心も、いつの間に、そんな世になったのか、と思う人が多い。獅子が、子供を崖下に、という話は、所詮、作られたものだろうが、そんな時代もあった。今じゃ、とてもじゃないが、そんなことを、しようものなら、虐待で訴えられる。それは極端としても、自分で考えられる子供を、育てるくらいのことを、してもいいだろうに。

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11月17日(金)−親心

 将来への不安が、解消されることはない。何かが、解決すれば、別の不安が、姿を現す。だから、悩むだけ無駄、とは言わないが、今程、不安を口にすることが、何かの権利かのように、扱われることはないだろう。何故、こんな事態に、なってしまったのか。弱者保護、が鍵と思う。
 弱い者の、振りをする、ということが、重要とすることの問題に、当人達は、気付く気配はない。だが、今のままいけば、人は皆弱者となり、保護は立ち行かなくなる。何かの権利を、手に入れるにしても、現状を吐露し、弱みを見せるのでは、早晩、何も起きなくなる。だとしたら、及ばぬまでも、それなりの種を、手に入れる努力をすべきだろう。だが、何から始めればいいか、疑問が山積する。例えば、進学においても、何もせずに、手に入るものは、などと考える人は、楽な道を選ぶ。遊びながら、というより、遊んでいても、証書を手に入れられる。そんなところに、魅力を感じる。ところが、そのままだと、次の競争が、危うくなる。職を得たいと願っても、でもしかでは、何の役にも立たない。そこで再び、弱者演技の登場となるが、相手も、保護のつもりはなく、無視されるのが、当然だろう。少し、先が見える人々は、少し違った道を歩もうとし、学ぶべきものを、選ぼうとする。それでも、周囲からの横槍は、数々飛び込んでくる。特に、子の将来に不安を抱く、親達からのものは、厄介な場合が多い。自分は、勝手な選択を、し続けてきたくせに、子に向かって、訳知り顔で、勝手なことを言う。将来は、個人のものであり、親のものではない。にも拘わらず、あれこれと、要求を突き付けるのだ。多くは、手に職とばかり、資格取得を目指す道を、示すわけだが、足枷を嵌めることに、なり兼ねないことに、気付くことはない。たとえ、頼りなく見えても、自らの選択を、促してやるべきではないか。

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11月16日(木)−傍迷惑

 過激な言動、不可解な挙動、そんなものが、並んでいるのは、今に始まった事ではない。これまでなら、良識ある選挙民が、寄り付かなかった人間に、狂信的な人々だけでなく、淡い期待を抱いて、多くの人が、群がった。その結果、あっという間に、頂点に上り詰めた訳だ。
 そこにあった信頼は、たとえ、過激であろうが、不可解だろうが、大きな企業体を、経営してきた手腕に、対するものだったのだろう。だが、次々に出される政策の数々には、確かな経営というより、不可解さの方が、目立っていたのではないか。自らが築いた組織に、自らの考えを反映させ、それが、繁栄を続けてきた、となれば、そこに、自信の裏付けが、起こるのも当然だろう。だが、独裁的なやり方が、それを産み出したとしたら、同じことを、国の政治に対しても、行って当然だろう。だが、一企業と異なり、多種多様な人々が、それぞれに、異なった利害を持ち、暮らす国では、雇用関係のように、右向け右、とはいかないのが、当然だろう。その上、他国との関係を、どう保つかが、状況を、更に複雑にする。最近の外遊における、不穏当な発言や、不可思議な言動には、複雑な中での、不安定な心理が、現れていたのでは、ないだろうか。もしそうだとしたら、今後は、複雑というより、錯綜に似た、状況が起き始め、こちらの宰相の、前回の任期のように、迷走が始まるかもしれない。だが、そこには、海の向こうとこちらで、大きな違いがあると、指摘する人もいるだろう。要するに、精神的な強さの違い、周囲を気にするばかりで、自ら壊れてしまった心の持ち主と違い、あちらは、自分中心でしかなく、傍若無人ぶりを、発揮しているだけだからだ。だが、それにより、多くの人、多くの国が、振り回されることになる。何とも迷惑な、人の選び方だったのだろう。

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11月15日(水)−降板

 劇場、などと表現されるが、実態は、素人芝居に過ぎない。そんな思いで、見つめた人は、今回の幕で、やはりと思っただろう。まだ、終演を迎えた訳ではないが、一時の熱狂が、冷めやり、当人を含め、馬鹿騒ぎにも似た、演技に、飽きてしまったようだ。ある意味、筋書き通りに。
 いつから、政治家が、口先だけで、務まる商売に、なったのか。金に困らず、些事を気にせぬ人が、道楽のような気分で、一方、全体を考えつつ、行ってきた筈のものが、庶民も、一念発起、その立場を、手に入れられるようになり、収入の糧と、し始めた頃から、状況が変わってきた。掛け声だけでは、誰も動かなかった時代と違い、今は、掛け声こそが、大切と言われる。そんな中で、周囲からの応援もあり、人気の頂に、登りつつあるとの、自覚を持っていた知事は、颯爽と、新しい集まりを、組織して、戦いに出て行った。しかし、その過程での、口先三寸が、徐々に、馬脚を露わすこととなり、ついには、罵声を浴びせられることに、至った。残務整理にも似た、今後の運営に、派手なことしか、目に入らない人間が、魅力を感じる筈もなく、潔さを見せようと、また、余計な演出を、したようだ。任期を全うできるか、危ぶむ声が、高まっていたが、この行状で、払拭されることはない。肝心の、祭典への寄与も、得意とする、責任転嫁の連鎖で、舞台を整えられない、との声が、高まり続ける。これをきっかけに、人気が凋落すれば、どんな行動に出るか、知れたものではない。掛け声だけの、嘗ての宰相を、敬愛するようだが、同じ穴の狢にしか、見えてこないのだ。所詮、素人芝居では、大掛かりな道具は、使えず、下手な台詞読みだけでは、観客の心を、掴むこともできない。人の注目を浴びたいだけでは、飽きっぽい性格が、更なる悪影響を及ぼし、終演を迎えることに、なりそうに思える。

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11月14日(火)−気配

 働くことを、考えると、仕事とは、どんなことと、思えるのだろう。社会に出る前の、若者達の多くは、与えられるもの、と思っているらしい。つまり、与えられた課題を、片付ければいい、ということだ。一見、正しいことに、思えるようだが、これが実は、大間違いなのだ。
 与えられたものを、片付けることに、何の間違いが、あるのか、と思う人が多いだろう。だが、与える側が、一から十まで、考えているとは限らず、時に、予想外のことが、起きる。にも拘わらず、与えられたことのみに、目を向ける人々は、異常を感じることなく、そのまま、言われた通りのことを、するだけとなる。結局、異常は放置され、気付かぬままだから、何の報告も、なされない。となれば、徐々に、問題が拡大し、誰が見ても、わかるようになると、修復が、難しくなることが多い。誰の責任か、と問われても、与えられることを、常識と思う人達は、自分ではなく、指示を与えた人の、責任であると思う。それが、全く無いとは言えないが、指示を受けた人間が、目の前で起きつつあることに、何も感じずに、機械的に動くだけでは、やはり、何かが間違っているのではないか。要するに、考えることをやめた人間には、仕事をこなすことも、難しいこととなるが、これから、その世界に入っていこうとする、若者達の多くは、その問題に、気付かぬままに、指示を待ち、それを片付けることが、仕事と思っているだけに、気付きもなく、発見などありえない、という状態にある。この問題について、色々な意見があるのだろうが、解決策はなく、指導法もない、と言われる。所詮、自らが、この状態に違和感を抱き、動き出すことこそが、重要な訳で、掛け声だけでは、功を奏さないのだ。

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11月13日(月)−伝統工芸

 産業の盛衰は、経営にあたる人々だけでなく、投資の対象を、模索する人々にも、重要な要素となる。そこにある大きな違いは、経営が、枠の中での話であり、投資は、あくまでも外からのものとなる。虎の子を失ったとすると、前者は、基盤さえ失うが、後者は、預けたものだけなのだ。
 だから、気楽に構えられる、という訳でもないだろうが、参加者を、増やそうと躍起になる業界は、過大広告にも似た話を、喧伝している。元本保証は、禁句の一つだが、それを、遠回しで伝えるような、雰囲気が漂い、状況を知る人間からは、怪しげなものと、なっている。損を嫌い、得ばかりを、追いかける人には、魅力的としか映らないだろうが、美味しい話は、早々に見つからないものだ。嘗ての大企業が、経営破綻を来す話も、時に聞こえてくるが、この際に、株主達が、被った損に、話が及ぶことは少ない。多くは、紙切れとなる、株券も、今や、現物を見たことのない人ばかりで、現実感は、失われてしまった。投資に関わる話として、こんな盛衰を聞くと、いかにも分かり易く思えるが、実際には、そんな形で現れない、産業も、嘗ての栄光を失い、時に、姿を消してしまったものが、ある。農業は、その一つと思え、経営とは呼ばず、生活の糧を得るだけに、目が向いていた。それが、いつの間にか、大規模農業という形の、経営方式が、導入され始めた。これは、農地というものが、存在しているからこそで、それさえも失ったら、何も始まらなかっただろう。実は、失われてしまった産業の多くは、基盤から全て、消え去ってしまい、回復の余地もない、というものが多い。例えば、伝統工芸の多くは、そんな状況にあり、職人が、次々に姿を消し、後継者も見つからぬ中で、技術や道具までもが、失われると、回復の余地もなくなる。そんな目で、振り返ってみると、多くのものが、失われてしまい、また、失われつつあることに、気付かされる。

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