環境問題は、確かに重要であるし、公害に苦しんだ人々にとっては、まさに、生き死にに関わる問題なのだろう。だが、これをどう考えるかについて、もっと真剣に捉える必要があるのではないか。重要だからと、何でもかんでも、大袈裟に捉え、時に、誤解に基づく、間違いを犯す。
河川汚染と森林破壊、環境破壊の事例として、半世紀程前から、度々取り上げられてきた。しかし、浅はかな人間は、ここでも、偏った考えに固執し、不思議な論理を、平気な顔で、展開する。知人から言われた事例は、今なら、誰も気に留めないものだろうが、牛乳の紙パックを、再生に回す前に、綺麗にしようと、水洗いをする人に向かい、別の人が、汚染排水を咎め、紙で拭き取るべきだと、指摘したのだそうだ。だが、その紙は、森林破壊の結果として、そこにあるのだから、環境保護の目的には、そぐわないと反論した、との話だった。均衡感覚は、こういう場面で、重要なのだが、偏狭な人間には、そんなものは、備わっていない。先日も、嘗ては美人俳優として、名を馳せていた人物が、都会の河川に棲む、外来生物の問題が論じられる中で、水温の問題を話題とし、風呂の湯を、そのまま下水に流すことが、河川の水温上昇に繋がる、と指摘し、冷ましてから流す、と語っていた。意識の高い意見、との受け止めが、番組中でなされたが、果たして、どうなのだろう。誰かが、そんな調査をし、科学的な根拠を持って、警告を出しているのか。だとしたら、もっと、話題として取り上げられても、いいのではないか。冷静に考えれば、風呂の湯が、直接流されたとして、河川に到達するまでに、どんな温度変化が起きるかは、想像がつく。それが、大きな影響を与える、などという戯言には、薄弱な根拠しかなく、おそらく、発電所から流される、高温の排水の影響の、軽薄な想像に過ぎないのだろう。
品質の高さを、誇りとしていたのは、過去のこととなった。などと、嘆く人々が居るが、いつもの過剰反応、と思えてくる。大企業の体たらくに、嘆きたくなる気持ちは、わからなくもないが、今度もまた、十把一絡げとなることに、考えの浅はかさを、強く感じさせられる。
確かに、部品の原料となるものの、品質管理において、様々な不正が横行し、改竄が繰り返されたとなれば、企業の体質への信頼は、大きく揺らぐだけでなく、それらの部品を組み立て、作り出された完成品の、品質への信頼も、失墜しかねない。それに輪をかけたのは、自動車業界の不正が、発覚したことだろう。黒船などと呼ばれ、大鉈を振るった外国人社長でさえ、無資格検査に気付かなかったのは、隠蔽工作が、入念に仕込まれたからだろうか。それにしても、優秀と言われようが、全体への波及効果はあっても、末端にまで行き届かないのは、仕方ないところだろう。一方、それらの心配から、初めの嘆きが、漏れ始めたのだろうが、1を10としてしまう、いつもの過剰反応に、呆れてしまう。こんなことの後には、嘆くより先に、何が問題かを、見い出すことの方が、大切だろう。そこでは、責任を問う声も、多く出されるが、それより何より、肝心となるのは、品質管理が、正しく行われている企業と、今回取り上げられている、不正企業との間に、どんな違いがあるのかを、見極めることだ。組織ぐるみだから、とか、誰が主体だったのか、とか、そんな話題ばかり、取り上げるのは、罪人を見つけるだけで、根本解決には、ならない。見つからなければ、などと考える人々に、厳しい罰を見せつけても、何の役にも立たないことは、誰もが知る所だろう。倫理や道徳が、取り沙汰される時代には、その欠如こそが、一番の問題なのだから。
できなかったことが、できるようになる。技術革新の現れだが、時に、深刻な副作用を、産むと言われる。便利になれば、何事にも、悩む必要が無くなり、無駄が減ると共に、精神的にも、安定が手に入れられる。そこに、問題など、生じる筈がない、と思う人が、多いのだが。
精神的な安定は、心理的な作用を、意味する所だが、そこから、全く別の心理が、働き始めることがある。できなかったことが、できるようになる、というだけで、別の作用があるとは、どんなことだろう。例えば、最近、ウェブページに、掲げられた広告の中に、画像から、余計なものを、消し去ることが、できるようになった、と伝えるものがある。観光地で、記念として、写真を撮ったのに、他人の姿ばかりで、落胆した、ということがある。再び訪ねるのは、面倒なばかりでなく、出費も嵩むから、避けたい所だ。今の記念撮影では、その場で確認できるから、何度も、試みることが、できるとはいえ、避けられない邪魔は、無くなることはない。記念撮影でなくとも、その瞬間を、捉えることが、重要となる場合も、多くあるのだが、ここでも、背景に、気に入らない邪魔が、残ることは、多くある。そんな時に、これさえあれば、不可能はありません、との謳い文句に、魅力を感じる人は、多いだろう。だが、事実を伝えるべき作業で、この機能は、どんな副作用を、起こすだろうか。描き加えるのとは、異なっているだけに、無いものを、あるようにする訳ではない。しかし、消去だけでも、証拠隠滅へと、結び付けることは、可能となる。個人的な作業であれば、自己満足へと繋がり、心理的な安定が得られるだろうが、公的なものや、事実を伝えねばならないもので、これが悪用されれば、碌でもない結果へと繋がる。一部の業界では、データ捏造が、大問題となっているが、これでは、鬼に金棒となりそうだ。
こういう日だから、という訳でも無いが、勤勉について、書いてみたい。無償化が、話題に上るにつれ、賛否両論が、出されてくるが、総論で考えることに、違和感を抱かされる。制度の多くが、平等化を目指すだけに、総論であるべきだろうが、その一方で、かけ離れた例が、多過ぎるのだ。
貧乏人は、貧しい生活を、送ればいい、などと言う人はいない。しかし、現実が、その状況を強いている、との解釈から、打開策が講じられ、その一つとして、無償化が取り沙汰される。本来なら、高等教育では、機会均等が、ある筈も無いのだから、必要となれば、奨学金という形で、金を借りてでも、現状打破を、目指すべきだろう。だが、甘やかされた時代には、この考えも、更なる貧困へ、突き進むことになる、との注意喚起があり、不幸な人々を、これ以上出さない為にも、無償化が、唯一の手立てと、されているのだ。でも、と思うのは、勉学に突き進もうとする人が、一体全体、対象となる中に、どの位の割合で、存在しているのか、という問題が、全く触れられていないことだ。機会を与える、と称して、結果として、無駄金が、更に増えることは、もう止めた方がいい。特に、税収の整備が、正しく行われない中で、出費の工夫ばかりを、行うことには、強い抵抗を覚える。やる気のない人間に、必要なものは何か。先立つものとの指摘は、明らかに間違っている。こういう人々には、肝心のやる気が、必要なのだ。彼らの言い訳の多くは、機会さえ与えられれば、やる気はいつでも出せるし、自分の能力は、一気に花開く、とまで言い始める。だが、試してみれば、すぐにわかるように、彼らのやる気は、萎えたままで、能力を測られることさえ、避けようと努力する。ドブに捨てるとは、まさに、このことかと思えるが、提案者達は、持論を展開するだけで、結果には、責任を感じる筈もない。
消費税率の引き上げが、迫ってくる中、様々な思惑が飛び交い、政治家達のいい加減さが、目立つだけとなっている。しかし、この背景には、政ではなく、国の運営にあたる人々の、思いつきがコロコロ変わる、ことによるものと、思われる。それにしても、面の皮の厚いことだ。
そちらはそちらで、政策の転換など、大きな変化を、生じ始めているが、朝令暮改よろしく、明日になれば、刷新されてしまうことも、多いだろう。その一方で、安定した税収は、所得税によるものだ。国民一人一人から、徴収されるもので、収入がなければ、扶養者として関わり、税金算定に影響する。これまで、触れられないこと、と政治家達が、考えてきたものに、愈々、手をつける時が来た、と官僚達が考えたのか、待望の増税が、発表された。増えるばかりの借金に、何の手立ても、講じられず、無能な政治家の、票読だけに拘る、狭い了見を、表しているとまで、言われ続けてきた。どういう事情か、税制改正を始めたのだが、その内容は、首を傾げたくなるものだ。単純な、税率の変化ではなく、細かな規則を、少し変えることで、人によっては、増税に繋がる、との解説からは、また、その手に出たのか、と思えてくる。人により、増減が異なり、それは、算出してみないと、はっきりしない、という論法は、票しか気にしない、人々にも、好意的に受け止められるらしく、このままいけば、成立しそうに思われる。しかし、根本的な問題解決には、程遠いもので、混乱を招くだけのことと、なりそうだ。まあ、所詮、小手先のものばかりを、次々に、提出する世相だから、官僚も、碌でもないことを、考え付くもののようだ。根本解決には、真の意味での、増税を打ち出さないと、将来の安定は、望めないものとなる。今日の不安を、気にするばかりで、明日を考えなければ、あっという間に、窮地に陥るのだ。
目上の人間と接する中で、最も大きな問題は、何が求められているか、という点にあるだろう。これは、特に、近年に強まった傾向で、受験の際によく聞かれた、傾向と対策という考えが、安定した時代に、あらゆることへと適用された、結果と言えるのではないだろうか。
その一方で、課題解決型ではなく、課題発見型が好まれる時代となり、不思議な状況が、生まれている。発見する為の、対策とは何か、という愚問が、出されることは少ないが、それでも、指示待ちと呼ばれる人々の多くは、目上の人間が望む形を、模索している。結果は、ある意味、悲惨な状況であり、そこから、新たな展開は、見込めそうにもない。つまり、現状では、一部の例外を除き、殆どが、指示通りに動くことを、唯一の解として、しがみ付くこととなり、思い切った行動に、出ることは期待できない。停滞と呼ばれる時代が続き、打開策が見出せない中で、こんな人々が、組織の中枢にも、居座るようになってしまっては、今更、想定外のことが、選ばれる筈もなく、意外な展開が、起こる可能性も、低いままとなる。更に、次代を担う人材が、同じままを望むとなれば、簡単には、状況を変えることはできない。それに比べ、今元気な国の多くは、新たな試みに、次々に挑み、成功を手にしている。それを遠くで眺めつつ、嘆息を漏らすだけでは、何も起きないし、それを悲観したとしても、一念発起へと繋がらねば、ただ、悔やんでいるだけとなる。大多数が、そんな状況に陥る中、では、この国は、このまま衰退し、表舞台から消えるのか、と問えば、違うという答えが、返ってくるだろう。無謀な自信ではなく、一部の例外への期待、と言うべきかも、しれないが、所詮、全体の底上げが、難しい状況では、例外にこそ、期待すべきなのだろう。
不安を解消する為に、様々な試みがなされている。だが、総じて功を奏していないようで、無駄な投資や手間が、捨て去られているだけだ。ただ、この辺りの遣り取りに関して、少し注意深く、観察してみると、わかることがある。不安を抱くことと、解消することが、同じ手順のようだ。
人の行動に、何かの基準を、見出そうとする動きは、それを科学とする見方が、広がるに連れて、強まってきた。だが、根拠は、薄弱なままで、勝手な解釈ばかりが、一人歩きすることが、増えただけのようだ。広告は、世相を反映すると、昔から言われてきたが、今は、それを眺めると、庶民の状況が、見えてくるように思える。対面式の売買が、当然だった頃と違い、今は、間に通信設備を、挟んだ形での売買が、日常的になっている。それでも、一部の業界は、例外とされると、その広告は、訴えており、それが「誤解」だと、断じている。だから、客に抱かれる不安も、誤解に過ぎず、何の問題もない、と論じるのだ。だが、同じ会社が流す、別の型式の広告では、今度は、商品の信頼性を、客の感想を述べさせることで、保証したふりをする。根拠の薄弱さは、不安も自信も、どちらも同じであり、そこには噂に過ぎない話が、並ぶだけとなる。だが、それを、恰も確実なものと、見せかけることで、客の獲得を目指そう、とする訳だ。新規開拓とか、業績拡大とか、そんな目標を掲げ、新たな商品を、導入することで、実現を目指しているように見えるが、商品の説明からは、何ら目新しいところは、見えない。それを誤魔化すかのような、客と担当者の話には、どう聞いても、他商品との違いが、見えてこないのだ。この程度のことで、買ってみようとする人の多くは、根も葉もない噂に、惑わされて、不安に苛まれる。自業自得とは、まさに、これだ、と思える程、杜撰な内容の宣伝なのだ。