パンチの独り言

(11月27日〜12月3日)
(介護問題、限界、偽善者、引退後、偽弱者、不安定、繰り返さず)



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12月3日(日)−繰り返さず

 戦時中、軍隊のカメラマンだった祖父の話を、する人は、英語を教えに、この国にやってきた。久し振りで流れる、再放送の画面から、流される内容は、70年以上の月日を経て、戦争が如何に悲惨だったかを、伝えようとする。語られるのは、二度としてはならない、との言葉だ。
 徹底殲滅を目的に、非戦闘員さえも、皆殺しにしようと、焼夷弾を落とし続ける。今、中東などから伝えられる、子供達を含む、非戦闘員への被害と、当時の考え方に、戦略の違いは、全くと言っていいほど存在しない。ただ、周囲の人々の、目の向け方が、変わっただけのことだ。どちらにしても、戦争を始める、過ちを繰り返すのは、二度と御免と言いたくなる。ただ、それを伝える手段として、語り部の必要性を、強調することに対しては、強い抵抗を覚える。この番組のような、冷静さを含んだものさえ、ほんの一面しか、語られることはない。その場の悲惨さを、伝えることができたとしても、戦略を定めた人々を、狂気と呼ぶことはできないし、渦中の人々の、その時の心境を、窺い知ることはできない。先日読んだ本の中でも、戦時の記録として、語られたものに、人それぞれに、大きな違いが存在することが、書かれていた。ある者は、敵国に抑留される中で、洗脳に遭ったとされ、その他大勢の、意見との違いは、妄想から来るもの、と片付けられていた。しかし、ある全国紙は、彼らの妄想かもしれないものを、確かめもせず、垂れ流し続けた。意を決して語る者は、騙る筈がない、との根拠には、まるで、嘘を吐いたことのない、幼子の思いが、あるようにも見えるが、子供の残酷さは、知恵の付いた大人には、理解できない。悪いことをやった奴は、徹底的に、懲らしめるべき、という意見も、戦争へと繋がるが、それが、あのような悲惨さに、繋がることを、理解できない愚者に、語り部が、戦争本が、あの番組が、どんな意味を成すのだろう。

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12月2日(土)−不安定

 不安の一番の要因は、先が見えない、ということだろう。逆に言えば、先が見えている、というのが、安心へと繋がる。そう聞いた時に、唖然とするのは、ある年代から上、のことだろう。今や、突然の変化に、襲われることがなく、同じままで暮らせることが、一番の安心なのだから。
 だが、そのことに、拘る姿勢が、様々な問題を、招いている。快適な場所に、居続けたい、と願う子供が、異常な程に、増えているからだ。当人達は、何が悪いのか、と首を傾げるだろう。誰にも、迷惑をかけず、何も、悪いことをしていない。なのに、何故、問題とされるのか。自分が、一番大事と思う人は、特に、そう思うようだ。自分のやり方が、最善と考え、それを貫くことに、批判が起きないのは、今の時代の特徴だが、その微温湯の中で、自分を大事に、邪魔なものを、排除しようとする。それが、取り除けない場合には、自分が、そこから出て行けばいい。それ程に、今の自分を、大切にしようとする。他を排除することも、大きな問題であり、それが、無視を含めた、苛めへと繋がるが、一方で、自ら身を引くことは、社会への参加を、著しく難しいものへとし、その数が、今のように増え続けると、社会全体が、急速に沈み込むことへと繋がる。既に、その兆候が見え始める中で、周囲は、様々に助言を与えるが、過保護の姿勢が、変わらなければ、結局、本質的には何も変わらない。安定した時代に、将来も、何も変わらないとしたら、それが、安心だと考える人に、変化を求めても、無駄なだけだろう。では、どうすればいいのか。一度、安定を失えば、何か思う人が、出てくるかもしれない。そうなれば、安定を求める為に、必要な努力が、見えてくるかもしれない。だが、そこまで、落ちてしまうのは、巻き込まれる人間には、迷惑な話だ。何とかしなければ。

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12月1日(金)−偽弱者

 弱者保護、安定し、平和が続く時代に、不幸に陥った人々に、手を差し伸べるべき、との考えが、広がり続ける。この考え自体に、間違いがある訳ではないが、実例が掲げられる度に、首を傾げざるを得ないものが、余りに多いのではないか。何故、こんなことが起きるのか。
 弱者の実態に、真剣に目を向けることなく、彼らの声に、耳を傾ける。多くの場合、一方的な意見のみを、汲み取り、同情にも似た感情から、手を差し伸べている。その結果、様々な問題が生じるが、保護を声高に訴える人々は、その解決には、全く関心を抱かない。保護の為の手立てにこそ、意味があるのであり、そこから生じる、別の問題は、自分達の窺い知る所ではない、とでも言いたげだ。だが、初めの保護において、脆弱な論理を、無理矢理押し通し、それが、様々な方面に、歪みを生じているのであり、原因は、そこにあることが、明白なのではないか。にも拘わらず、弱者は保護されるべき、という主張を繰り返すのみで、肝心の対象が、本当に不当な扱いを受け、弱者にさせられたのか、という点を、明らかにするつもりは、毛頭無いのだ。一言で言って仕舞えば、自業自得となる、弱者の仮面を被った人間達は、如何に、悲惨な状況にあるかを、切々と訴える。だが、冷静に考えれば、原因は、周囲ではなく、自身の中にあることは、明白であり、そんな人間達に、救済が必要とはならない。だが、保護を訴えることで、世の中を変えようと、躍起になる偽善者は、そんな真相に、気付く気配もなく、うわべに騙されるというより、その片棒を担ぐことや、悲劇の台本を捏造することに、血道を上げる。最近読んだ、「ブラック」を訴える新書の著者は、まさにその代表とも思える。脆弱な論理を、僅かな実例で、押し通そうとする姿勢には、偽善しか感じられない。

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11月30日(木)−引退後

 業界を代表する組織の、役割とは何だろうか。私企業が、何らかの主張をしても、一企業の論理でしかなく、国への働きかけなどにおいて、耳を貸してもくれない、という事情がある。そこで、団体として、交渉を進めることで、業界全体の論理で、働きかけようとしたのだろう。
 この手法は、国内に限らず、他国との交渉においても、様々な効果を、産み出してきた。最近の、隣国への訪問団も、そういう観点から、組織されたものであり、互いの思惑の違いから、不安定なままの政府間より、民間の交流として、成果を目指そうという、意図があったらしい。これ自体は、活動の幅を広げ、互いの繁栄を築く為に、重要な役割を、果たしてきたものと思う。そういう見方をすれば、団体を作り、そこで意見を集約させ、活動へと結び付けることは、十分な効果を、産んでいると言える。しかし、一線を退き、全体を見渡す立場で、運営に当たるとはいえ、元々は、それぞれの企業の経営に、当たっていた人々である。客観性を、強調したとしても、柵は、無くせるものではない。不祥事が続く中で、企業の姿勢を論じる時、全体として、取るべき姿勢を、示していたのだが、まさか、自分が操っていた、企業で同じことが、発覚するとは、思ってもいなかっただろう。それも、自分が、最終決定権を、握っていた時代であり、責任は、専ら自分にある。この状況は、以前取り上げた、黒船と言われた、外国人経営者の登場で、V字回復させた企業が、最終検査に、無資格者が関わっていた、と報じられた、あの話と、どこか似ている気がする。不正が、長く続いた場合には、その任に当たっていた人々が、引退した後に、発覚する場合が、殆どとなる。その結果、責任を問われるのが、関係を絶った後、となる。本来なら、先達として、年の功を、発揮できる筈が、泥まみれに、なってしまう訳だ。

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11月29日(水)−偽善者

 不祥事が、次々と発覚する企業、ついこの間までは、品質や能力の高さを、誇っていたのが、ハリボテに過ぎなかったと、批判の声が、鋭く刺さる。経済の回復に、意を強くした経営者達は、発覚前には、強気の弁を繰り返し、様々な要求を、突き付けていたが、袋叩きの中で、どう変わるのか。
 経営を、更に確実なものへと、結び付けるために、法人税の引き下げを、要求していたが、その一方で、内部留保を溜め込み、従業員への分配は、殆どなされていない。これは、税を納めても、痛くも痒くもない、という状況を、表しており、増税こそが、労働者への分配を、約束させるようにさえ、思えてくる。献金の問題とは、違うだろうが、こんな輩に、擦り寄る姿勢を見せていた、政治家達も、自らの不明を、恥じることなく、突然の方向転換を、見せ始めてきた。利潤追求こそが、最大の目的とする、経営者には、その為の、社会との関わりなどは、見えている筈もなく、金の動きだけが、目に入る。重税が、経営に与える、悪影響を、強く訴えておいて、それとは、全く逆の行動を、選ぶ態度には、社会的地位を、極めた人間にはあるまじき、卑しい心が、はっきりと見えてくる。どうすればいいのか、答えは、既に決まっているが、当事者達は、依然として、私利私欲に走り、社会への責任など、考える気は、全く無い。違法行為かどうかについて、追求しようとする動きが、あるらしいが、実際には、そんなこととは無関係に、倫理・道徳に基づき、行動規範を、定める必要がある。搾取を繰り返すのは、企業だけでなく、政府にも見られることだが、税金の使い道も、これほどに、揺れ動くのでは、明日どころか、今日の状況さえ、見えてこないのだ。無責任が、社会全体に蔓延り、ここまで、人心が乱れてしまうと、将来は、危ういものになってしまう。

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11月28日(火)−限界

 教育の力を、信じる人は、沢山いるだろう。特に、実例を挙げ、様々な効果を、見せられると、何となくだが、その効果を、信じたくなるものだ。だが、ほんの一握りに過ぎない、成功例を示されても、周囲に溢れる、その他の例については、当て嵌まらないことが、多いのも事実ではないか。
 特殊な例について、成功例を見出そうとすれば、苦もなく、見つけ出せるのに、総論として取り上げようとすると、上手くいかないのは何故か。現場でも、この悩みを抱えた人が、日々、目の前の問題を、解決しようと努めるが、事は簡単には、進まない。何が足らないのか、見出せないままに、成功例ばかりが、注目を浴びると、こちらの状況が、更に悲惨なものに、見えてくる。何が違うのか、実は、平凡な例ほど、明確な効果を、見せることは難しくなる。何もしなくても、何ら困ることはないし、平均という枠に、含まれる中では、そこから、上に向かって抜け出すことは、簡単ではないからだ。だが、平均的で、何の問題も抱えない場合、どんな効果を、望むのだろうか。劣悪な状況からの、脱却を目指す場合と異なり、熱意の強さも、平均に留まる。その結果、大した変化も起きず、何も得られない、という落胆を感じる、場合もある。だからと言って、思い切って、大きな変化を目指せば、逆効果も起こり、意欲や実力の低下へと、結び付くことさえある。そんな中で、携わる人々の忙しさは、効果を求める声が、強まるに従い、過酷さを増し続ける。そこで、様々な手立てを、講じようとするのだが、多忙は、大きな障害として、立ちはだかる。何が足りず、何が違うのか。そんな疑問とは別に、手を出せない事情が、そこに出てくる訳だ。でも、この状態、教育の限界を、示しているのではないか。あげき続けても、何も起こらない、という。

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11月27日(月)−介護問題

 介護事業の歪みは、余りにも多種多様であり、どこから、手を付けていいのか、監督官庁も専門家と呼ばれる人々も、全く分かっていないのではないか。そんな思いは、現場を見れば、すぐに理解できる。雨後の筍の如く、続々と参入してくる新興勢力に、膨らんだ期待が、突如として萎むからだ。
 従来にない特徴を、有する施設として、大々的に取り上げられ、注目を浴びるが、その後は、いつの間にか、忘れ去られ、入居者達も、社会から顧みられなくなる。計画通りに、事が進まない中で、鳴り物入りで登場した、経営者達は、焦りを隠せず、更なる改革を試みるが、根底に横たわる、大問題を解決しない限り、新たな展開も、絵空事に終わってしまう。現場を見れば、わかることとは、よく取り上げられるのは、介護にあたる人々の、貧困問題だろう。利益追求に走る、経営者にとって、安易な経営戦略は、賃金の削減となるらしい。重労働であり、時間外労働が、強いられる環境であるにも関わらず、低賃金に抑えられる、現状に関して、大きな問題があることは、事実だろう。マスゴミも、挙って、この問題を取り上げるが、その背景には、例の如くの、弱者保護の考えが、あるように思える。だが、ここでの、真の弱者は、介護者ではなく、被介護者ではないか。様々な被害が、報じられているが、その根底にある問題について、論じようとする報道は、殆ど存在しない。本質を見抜けぬ、間抜け共に、こんなことを、真面目に論じることは、やはり不可能なのだ。現場検証を、常とした筈の業界も、噂に惑わされ、いい加減な情報を、垂れ流し続ける。こんな人々が、事件も起きない、ごく普通の現場を、地道に調査せず、大騒ぎを繰り返す。低賃金の問題ではなく、低水準の問題を、真剣に取り上げねば、介護の未来は、見えてこないだろう。足らないからと、促成栽培を繰り返し、未熟な馬鹿者達を、巷に溢れされた制度に、大きな責任がある。彼らの未熟さに、悩まされるのは、被介護者なのだ。

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