パンチの独り言

(12月4日〜12月10日)
(底打ち、浅慮、時間の無駄、戯れ言、波風、破れ傘、危機迫る)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月10日(日)−危機迫る

 宇宙の彼方から、見守る目がある。隣国の異変や、遠くの国々に、拡大政策を続ける隣国が、築き上げた施設など、多くの画像が、そこから送られてくる。諜報員という存在が、なくてもできる、監視の仕組みは、便利なものと映るのだろう。だが、映画の世界では、違うものが紹介されていた。
 当時は、SFの世界として、描かれていたのだが、今や、ほぼ同じことが、実現可能となっている。解像度の向上は、続々と、細かなものを見つけ出し、それが、監視から得られる、情報の質をも、向上させ続けている。国の間の争いが、絡むことこそが、この技術の向上へと、結びついたと思うかもしれないが、おそらく、この段階のものは、民生品の範疇で、達成可能となったのだろう。その意味で、便利な生活を、追い求める力が、基盤技術の発達に、大きな影響を、及ぼす時代となりつつある。ただ、そこに結びつくのは、先端技術の開発に、携わる人々の、努力なのだろう。役に立つかが、はっきりしなくとも、ある目標を抱いて、進み続けるのは、基礎研究の原動力となる。だが、便利に結びつくものが、ある日突然、悪魔の道具となることがある。武器開発に結びついたり、日々の生活を危うくすることもあり、その責任を、技術を開発した人々に、負わせようとする動きもある。皆が、技術の本質を、見極めることなく、便利さを享受する時代には、誰が、これらの危険性を、考えるべきかは、大きな問題となっている。にも拘わらず、問題が発覚するまでは、誰もが、便利さのみを追い求め、その発達に、喜びの声を上げる。この矛盾を、どう考えるべきか、また、誰が考えるべきか、答えは出されていない。安全を求める余り、誰かを危険に曝すとしたら、どこまで求めるべきか。危険が迫ったら、どう防ぐべきか。様々な問題が、山積しているが、享楽に耽り、安全に浸る人々は、正面から、捉えようとしないようだ。

* * * * * * * *

12月9日(土)−破れ傘

 海の向こうの大統領が、受賞したのは、何年前のことだったか。期待のみの授賞で、訝る向きも、沢山あったが、結果は、懸念された通りだった。では、今度の事例は、どんな展開となるのか。口先だけの約束でなく、多くの国を巻き込んだ結果、なのだから、という期待もある。
 だが、それとて、数だけの評価であり、中身が伴わぬ。肝心の保有国は、悉く参加せず、脱け殻と見る向きもある。でも、市民運動の一環として、高い評価を与える人も居る。今の時代に、市民が関わった上での、成功事例は、注目を浴び易いからだろう。一方で、保有国以外にも、参加しなかった国は、それぞれの抱える事情で、批判の矢面に立たされている。この国も、傘の下などと揶揄され、身勝手な論理であるばかりか、被害を受けたにも関わらず、などと、更に厳しい言葉を、浴びせられる。だが、その論理は、正しいのか。被害者だから、という方に関しては、廃絶と結び付ける活動に、別の手法があるし、賛同せねばならぬ、という論理は、通用しないだろう。もう一つの、傘の下という論理は、まさに古色蒼然としており、いつまでこんなものを、と思っていたが、どうも、この国の中枢で、後生大事に抱え込む人々が、居ることが見えてきた。冷戦時代に、互いの均衡を図る、という意味合いだった、開発合戦の脇で、それが抑止力として働く、という解釈を、国相互に共有していたのだが、既に過去のことであり、当事国間でも、異なる解釈が、定着し始めている。その中で、惚け老人の如く、一つ覚えを繰り返す。こんな連中が、国の行く末を、決める立場にあること自体、余程、大きな問題だろう。傘などと惚けたことを言わず、正論で、不参加の理由を、説明すればいい。だからと言って、あの市民運動が、無駄なものと、断じるつもりはない。運動の成果、そのものを、評価することに、吝かではない。

* * * * * * * *

12月8日(金)−波風

 外圧に弱い国民性、などと揶揄されるが、これは、国の外からの話だ。閉鎖的な社会で、内側からは、変化を引き起こせず、様々な歪みが、蓄積する中で、利害関係から、外からの圧力がかかった途端に、あっという間に、変化が起き始める。結論を導けぬ、内部の議論は、何だったのか。
 舶来主義などと呼ばれるように、内を蔑み、外を持ち上げる、考え方に、何の違和感も抱かず、外圧の際にも、外からだから仕方ない、と簡単に、諦めがつく。同じ結論でも、内外の違いが、表に出ることに、内側で働きかけた人々は、苦々しく思うものだ。しかし、この考え方は、国の内外による違い、だけでなく、組織についても、当てはまりそうに思える。おそらく、外圧についての話が、出始めた頃には、多くの人が、鎖国の時代を経て、開放政策が打ち出されて以来、組織の内外で起きていたことが、そのまま、国に当てはまるようになった、と思っていただろう。だが、いつの間にか、組織の話は忘れられ、国の間の軋轢だけに、目が向くようになった。では、組織の話は、消え去ったのだろうか。根底にあるのが、心の持ちようであれば、そんなことがある筈もない。身内に対して、ぐずぐずと言い続けた人が、他人に、少し言われただけで、受け入れる、などといった経験は、誰もが持つだろう。組織についても、同じことが、度々起きている。たとえ、真剣に議論しても、結論が導けない、のであれば、まだましだろうが、実際には、内部のことには、手をつけようとせず、外からの圧力を、待つということさえある。時には、それを促すように、外に手出しを求める、などということもある。恥を忍ぶのなら、と思うが、そんな感覚さえ、抱かないままに、助けを求める。閉鎖的な社会では、何事にも、無難を選ぶとでもいうように、だ。こんな状況で、改善が、図れる筈もないが、当事者達は、波風を避けたい一心らしい。

* * * * * * * *

12月7日(木)−戯れ言

 普通の人間には、理解できないのだろう。自殺願望に関して、その情報交換の場として、ツイッターなどのSNSが、使われている、と報じられるが、身近な人間には、話せないことを、赤の他人に、赤裸々に語ることは、全く理解に苦しむ限りだ。顔が見えないから、という理由で。
 友人を求めに、大学に入ると語る、若者達に、「死にたい」と相談されたら、どう答えるのか、真の友人ならば、考えておかねばならない、と助言する人が居る。馬鹿げたこと、と思うのは、訳知り顔の大人達で、友達願望の強い、若者達は、困惑に満ちた顔を見せる。その一方で、初めに書いた話があり、何とも不思議な状況だが、これは、友達と思った人間に、裏切られた結果、と見ることもできる。しかし、だからと言って、見ず知らずの人間を、信頼してしまう心理は、やはり理解し難いものだ。連続殺人事件が起き、騒がしくなった業界は、その手の書き込みに、強い警戒感を抱き始めた。だが、ここでも、空騒ぎに似た、騒動と見ることができる。「死にたい」との書き込みは、少し眺めてみれば、何とお気楽に、書き連ねているか、すぐに判るからだ。失敗を悔いて、その一言を書き込み、反省するフリとして、その一言を書く。彼らの心には、深刻さなど、微塵もなく、ただの遊びのように、繰り返し続ける。「だったら、死ねば」と返す人が、出てきたら見ものだが、そんなからかいは、いじめの世界で育った人には、できる筈もない。こんな阿呆が溢れる中で、大の大人達が、真剣に、事件を防ぐ為の、手立てを議論する。愚の骨頂であり、無駄なことに過ぎない。おそらく、責任逃れの一つとして、提示しているだけで、何も、真剣には考えていないだろう。所詮、一時の騒動であり、ここから、何かが生まれることも、あり得ないのだ。

* * * * * * * *

12月6日(水)−時間の無駄

 奨学金、授業料免除、果ては、無償化と、次々と、支援の手が差し伸べられる。機会均等、という考えから、これらの支援が、検討されているようだが、貧富の差が、機会を奪うことばかりに、目を奪われて、肝心なことに、考えが及ばないのは、時代の趨勢なのだろうか。
 手立てを講じる上で、原資を考慮するのが、肝心なことの様に、扱われているが、無い袖をどうするか、という点で、この問題も、大問題に違いないが、そんなことより、何より、一体全体、何を目的に、進学を望むのだろうか。そちらの問題は、貧しい家庭の人々に、免除を検討する場合には、意欲を測る、とするように、少しは検討されているが、入る目的ではなく、出た後に、どんな利益があるのか、という問題についてである。大学卒業という資格が、就職に必要不可欠だから、と言われた時代に、こんなことは、ごく当たり前の話だったが、今は、かなり事情が異なっている。いざ卒業したものの、手に職はなく、自己宣伝も不十分で、何処からも声が掛からない、という事態に陥った人々が、街に溢れ、彼らへの支援を、声高に訴える人も居る。一方で、手に職を、とばかりに、卒業後に、専門学校に入り直す人は、大学への期待は、何だったのか、と思えてしまう。一方、「ブラック」という言葉を、好んで使う人々は、生業にも、それが付くものがあり、そこから、更なる苦しみが始まる、などと書き連ねる。そうなると、何の為に、大枚叩いて、大学に入ったのか、それ自体が、無意味であったとの解釈も、可能ではないか。当然のように、機会を得る為、と思い込むが、その誤った解釈が、この歪みを、強めているとしたら、実際、進学自体の意味を、考え直す必要があるのではないか。ただ、入り、ただ、出ておけば、未来が開ける、という時代は、戻ってはこない。その中で、何が肝心で、何をすべきか、社会全体で、改めて考える必要が、強まっている。

* * * * * * * *

12月5日(火)−浅慮

 自分の意見を、こういう場に書く人々は、所詮、無責任な発言を続けるだけ、などと言われる。だが、評論家なる商売が、電波に乗せられ、好き勝手な意見を並べるのと、何が違うのか、と思う人もいるだろう。無責任は、お互い様で、こちらの方が、余程ましな意見を、書いているぞ、と。
 確かに、画面や紙面を賑わす人々は、それなりの意見を、並べているように見える。だが、一時の理解ではなく、時間をかけて、それを検討してみると、綻びが、次々と見出せるのだ。そんな劣悪なものと比べ、こちらは、もっとまともな意見を、書いている、との思いがあり、独り言を含め、様々な形で、意見を書き連ねる。以前は、ブログと呼ばれる場だけだったものが、今や、SNSと括られるものの中で、即興に似た発言が、吐き出されている。だが、こちらは、画面で展開されるものと、そっくりであり、底の浅い、脆弱な論理が、繰り広げられているだけだ。文字数の制限が、という言い訳も、一時、聞かれたが、口頭での意見と、同じような形で、出されるものは、所詮、浅はかな考えに、基づくものとなる。じっくり考えていては、相手の突っ込みに、反応できないから、という話も、そんな遣り取りで、本質的な議論が、可能となると、どうして思えるのか、と思ってしまう。だが、最近は、本来なら、時間をかけ、十分な思慮の元に、書き上げられる筈の、紙面での論評でさえ、論理性の欠如や論理の破綻が、目立ち始めている。要するに、そういう行為を、正しく行えない人々に、発言の機会を与えたり、要職に就かせたりする、どこか、ねじ曲がった仕組みが、出来上がってしまったように見える。少々間違ったことがあっても、揺らがないような安定が、そこにあるからだろうが、それにしても、こんな暴論が、などと思うことは、屡々である。もっと厳しく、糾弾する必要があると思う。

* * * * * * * *

12月4日(月)−底打ち

 安定した時代に、変化が生じない、訳ではない。だが、変化を望まぬ人の数が、矢鱈に増えてくると、変化自体が、どんな方向にせよ、危機へと結びつく、という意見が出てくる。この考えが、如何に危ういものかは、おそらく、結果が出てきて、初めて、意識されるのだろう。
 この独り言が、掲げられているのは、証券社員に関わる場であり、元々は、相場に関する話題が、中心となっていた。だが、今や、その当時に、関わった人々の姿はなく、ただ、役を引き継いだ人間が、思いつきを書き続けている、だけとなっている。これもまた、一度起きた変化が、そのままに引き継がれ、ある意味、活性の低い安定を、続けているだけだ。それなら、書くことも、止めて仕舞えば、との意見もあろうが、まだ、その気にはならない。世の中の歪みは、消えることなく、より深いものへと、変わり続けている。表面的には、安定などと言われるが、実態は、非常に不安定な状況にあり、少しの動きが、不安を煽ることになれば、容易に止めることが、難しくなる。にも拘わらず、安定という環境に、慣れきった人々は、何の危険も感じず、ただ、慢心へと向かっている。慢心を、危機と見る向きもあるが、享楽に走る人々は、今を楽しむことに、何の罪悪感も、危機感をも、抱いていない。このままでいいのか、と問いかければ、何が悪いのか、と返ってきそうだ。一方、安定の時代にも関わらず、経済状況には、少しずつ変化が起き始めている。成長へと繋がる変化に、期待を抱く人がいる一方、その変化自体にも、何の反応も示さぬ人がいる。泡が弾けた時代を、経験した人は、懐疑的な反応を示し、その時代を、経験していない人々は、変化を感じ取る感覚さえ、失ってしまったようだ。体制への不満は、依然として大きいが、自ら変えようとする気は、全く持たない。そんな人々が、大勢を占める中では、やはり、安定のみが、目標となるのだろうか。たとえ、低迷が続くとしても。

(since 2002/4/3)