パンチの独り言

(12月18日〜12月24日)
(捨て金、保身、暴れる、安直、好景気、愚帝、相互加害)



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12月24日(日)−相互加害

 総称すると、「いじめ」となるのだろうか。強者と弱者がおり、立場の違いが、明確になっている。そんな中で、弱者保護の風潮が強まり、主張の強さは、逆転することとなった。弱者の主張は、全て取り上げられ、強者のものは、殆ど切り捨てられる。例え、矛盾に満ち満ちていても、だ。
 社会が弱い者の味方を、始めたのは、いつの頃からか。この均衡は、振り子のように、その力関係が、往復してきた。力が弱くとも、声を上げられる時代は、これまでにもあったのだ。だが、今の状況は、それらとは、大きく異なるように、思える。振り子の振れ幅が、極端に大きくなり、どちらか一方の、主張のみが取り上げられるからだ。それはまるで、庶民達が圧政に苦しむ、独裁政治が、逆転したように見える。そこにある解釈は、圧力に苦しむ人間を、救う為の手立てとして、彼らの主張を、一方的に取り上げる必要がある、というものらしい。だが、過ぎたるは及ばざるが、と評される如く、このやり方では、多くの冤罪が頻出する。痴漢行為は、その最たるもので、始めから、被害者の主張が、全てと扱われてきた。恥の文化と呼ばれるように、それを覚悟の上での告発には、真実しか残らない、という考えのようだ。だが、最近の傾向は、全く違う方向に進む。人を陥れたり、金を得ようと、恐喝紛いの手段にまで、及ぶ人間が出る始末、世も末と言われる所以だ。これと同じとは言えないが、「いじめ」の世界にも、同じような極端が、横行している。加害者の言動には、真実は一欠片もないが、被害者は、真実しか語らない、というものだ。国技の場が、外国人に占領されているように、感じる人は多いが、そこで起きた事件には、様々な要因が絡んでいるらしい。ただ、その中で、重い口を開いた、被害者の言動には、まさに、時代を映すようなものが、鏤められていた。原因が、礼を失した行動と言われたが、彼の口からは、そんなことはしていない、と出たらしい。被害者だから、という理由だとしたら、礼を失することの被害者は、ここで加害者とされる人物だろう。その流れには、一事が万事、という安易な考えがある。ここに、現代社会が抱える病の、一番の問題が現れている。

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12月23日(土)−愚帝

 築き上げるには、手間も時間も掛かるのだが、それを壊すには、手間も掛からず、一瞬のことで済む。これは、家を建てることだけでなく、あらゆる事を、成す為の手順にも、適用できることだ。問題点を指摘し、その解決法を講じる。一言で言えば、それだけだが、手間も時間も必要だ。
 場当たり的に、不平不満を並べる人々は、解決への手立てを、講じることができない。何故なら、問題は、その場で生じるのではなく、そこまでの過程で、徐々に積み上がるものだからだ。これに気付かず、目の前に並ぶ、問題に向かって、文句を並べても、何も解決しないし、それを抱える人間を、正しい道に歩ませることが、できる筈もない。教育現場の多くが、こんな状態を放置し、先送りという、便利な言い訳で、片付いたふりを決め込む。教え育む環境で、これを続けた結果、長年に渡り、多くの役立たずを、社会に放出することとなった。このことの、最大の問題は、負の連鎖が続くことで、一度劣化した人々からは、それにも増して、劣る人間しか、産み出せないからだ。この問題に、正面から取り組み、今すべきことを、一つ一つ並べていくことで、解決の糸口を、見出そうと努力してきた。ところが、この変革は、当事者に課題を突き付け、それを進めることを、強いる為に、それまでの放置と比べて、過度な負担が増えたとの印象を、与えることとなる。痛みを伴うのは、現状打破において、当然のことなのに、理解する能力のない人々は、まるで、暴力が行われたかの如く、過剰反応を示す。その上、地位のある人々は、保身に走る為か、責任転嫁に走り、折角の変革を、水泡に帰すことを、簡単に行う。関係者を排除し、当事者が喜ぶように、負荷を取り除く。この愚行により、漸く始まったことが、いとも容易く、打ち捨てられる。権力を笠に着る人間は、自らの無能に気付かず、彼らに与する人間は、事の重大さに、気付ける力さえ、備えていない。あらゆる教育現場で、こんなことが、横行している。

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12月22日(金)−好景気

 景気の回復は、実感できるのか。この話は、数値によるものは、殆ど確実と言える状況に、あるのだが、一方で、心理的なものは、正反対の状態に留まっている。悲観の台本を、あらゆる場面で、使おうとする人々にとって、確実な筈の数値も、無意味なものと片付けられる。
 昔なら、投資の世界は、庶民には馴染みがなく、一部の富裕層が、更なる利益を、上げる為に利用する場、と見做されていた。だが、様々な方策により、少額の投資でも、通用するようになり、また、手数料などの、目減りを強める要素が、より低く抑えられてきたことから、随分、事情は変わってきた。だから、海の向こうの市場が、1年で約2割の上昇を、実現しつつある中、実感がない、と言い返すのも、庶民の代表的意見とは、言い難くなっている。ただ、株価の上昇に比べ、給与が殆ど変化せず、特に、2割などという数値が、そのまま、収益と結びつくとすれば、誰が、どのように、それらの儲けを、隠したのか、という疑問が、出てくるのも当然だろう。変動が激しく、一時の上昇が、下降へと変化するのも、すぐそこに、来ていること、との見方もあるが、その割に、1年の中で、上がり続けたことには、意外という感覚が、あるのではないか。海の向こうは、政権が変わり、赤字覚悟の政策が、多く出され、富裕層への優遇措置が、講じられる傾向が、強まりつつある。このまま、国が破綻するまで、などとは、誰も考えていないが、減税などの措置が、どんな結末を迎えるのか、そんなことを、考えるより、今の上昇の波に、巧く乗ることこそが、重要となるのだろう。ただ、庶民的感覚からすれば、やはり、手にできる金額が、増えない限り、実感はない。その意味では、これ程の好景気にも関わらず、法人税の引き下げを、優先させる考え方には、賛同できない。末端にまで、この勢いを行き渡らせる為には、経営陣の英断が、不可欠となるし、その時期は、もう来ているに違いない。

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12月21日(木)−安直

 気忙しさ、を感じる季節だが、自分の仕事も、慌ただしさが高まり、追い立てられている、とさえ思える。そんな気持ちで、年の瀬を迎える人も、多いのではないか。気の持ちようだけで、日々の仕事に変わりはなく、季節の違いなど、と思う人も、最近は増えているだろうが。
 自分の仕事ではなく、他人の仕事に関して、こんなことを、感じさせられることが、最近あった。テレビの番組の内容で、以前流したものを、再び使うことが、目に付くからだ。番組全体を、再放送という形で、時間を繋げるのは、以前から、頻繁に行われていたが、これは、年の瀬に限ったことではなく、番組編成の変化が起きる時期、特に、春と秋に、そんな現象が起き始める。特集番組、などと銘打って、流されるが、使い古しの内容ばかりで、目新しさが見えず、怠慢という文字が、思い浮かぶことさえある。新番組への誘い、という形であるべきが、逆効果となることも多く、始まる前から、負けが決まることさえある。これとは別に、最近目立つように思えるのは、公共放送が、毎朝流している、報道番組の中で、一度放送したものを、その日ではなく、別の日に、改めて流すことが、増えているのだ。その日の違う時間に流すのは、前のものを見逃した人の為、という意味もあるし、時間の有効活用、というつもりもあるだろう。だが、別の日となると、全く違う意図を感じる。受信料の徴収が、合憲であるとの判断が、下されたからでも、あるまいが、怠慢とも見えるやり方だ。それも、二度目を意識させないように、前後の流れを、少し変化させるという、ほんの少しの違いを、採り入れるなど、念を入れたようにも見える。だが、肝心の内容は、同じままなのだから、取材にも編集にも、何の手間もかからず、安上がりとも見える。これで十分、という判断が、経営陣にあるとしたら、油断と思えるのだが、どうだろうか。

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12月20日(水)−暴れる

 手に入れる、という感覚は、薄れているのか。では、手に入る、となるとどうか。能動的、積極的、そんな言葉が、何処か遠くに、行ってしまったように、「待ち」の姿勢で、ぼんやりと構える人が、増えている。時に、積極性が見えても、それは、要求の場合だけとなる。
 自分の力で、何かを、手に入れる、という感覚は、失われてしまったのか。草食動物のように、温順しく構え、周囲から施される、様々なものを、楽しむ姿が、巷に溢れている。遊ぶことに、積極的に見えても、それは、与えられた範囲に留まり、そこから、何かを見出すことも、新しい考えを持つことも、殆ど起きない。何故、こんなことになったのか。理由は定かではないが、平和と呼ばれる安定が、長く続いたことも、無関係ではないだろう。だが、この状況を打ち破るには、どんな手段があるのか、その筋で考えるのは、ある意味、危険が伴う。不安定で、何が起こるか、判らない世の中に、すればいいということでは、別の問題が、生じることは明らかだ。では、別の方法は、あるのだろうか。一つあるとすれば、そんな微温湯に、浸かりながら、享楽に耽る人は、始めから数に入れず、無視すればいい、ということではないか。本当に、それを始めるべきかは、自分が、どちらの側に属するか、にかかっている。無視される側に、属するのであれば、社会の中心から、排除されることになり、耽るうちに、存在さえ、失われかねない。だが、こんな時代にも、積極性を失わず、何かと働きかける側に、属するのであれば、そのまま、続けられるだけでなく、評価の対象とされることが、あるからだ。どちらがいいのか、本人が決めればいい。簡単なことなのではないか。

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12月19日(火)−保身

 突然の災害に見舞われ、自分の身を守ることの、大切さが実感される。生き抜いた人々の、ちょっとした違いに、自身の考えとの比較を、改めて、行おうと思うようだ。危機が迫った時、どう行動するかは、人それぞれの判断に、任される。人と同じも、違うも、選択なのだ。
 災害という、突然降ってくるものでは、こんな考え方しか、通用しないのだが、普段の生活となると、全く違う考えが、通用すると、思ってしまうらしい。どんな時も、自分の身は、自分で守る、という姿勢で、何の問題も生じないが、できれば、誰かが守ってくれると、と思うのは、当然なのだろう。だが、「くれる」という感覚ではなく、それが当然のこと、と受け取る風潮が、蔓延していないだろうか。障害者だけでなく、健常者にとっても、安全を保証する仕組みの導入は、歓迎すべきものと映るが、それを当然と見做すのは、少し度が過ぎる、と思える。安全を追求するのが、当然と見做されるのは、度々の災害による、長い期間の被害の大きさから、芽生えた考えのようで、例の「被害者保護」という考えでは、まさに、我が意を得たり、と思えることだから、歓迎は勿論、当然と見るのも、当たり前となる。だが、本当に、そうすべきかどうか、きちんと検証する必要がある。自分の身を守る為に、どんな手段が必要か、皆がそれぞれに、考えることは、安全策を講じるのとは別に、必要となることだろう。それを省いて、他に頼るだけでは、結局、守ることは、中途半端に終わる。その結果、被害を受けたとして、誰かに責任を、負わせたとしても、受けた被害を、消し去ることはできない。基本は、自ら、という考えを持った上で、整備を促すことこそ、こういう問題の解決に、必要なことなのだろう。

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12月18日(月)−捨て金

 何かを、手に入れたいと思ったら、資金を用意せねばならない。これは、商取引では、当然のことだ。だが、この原則を、破ろうとする動きに、諸手を挙げて賛成する、その心理は、何処から来るのだろう。そんなものは、ある筈がない、と思う人がいるかもしれない。
 その何かとは、教養である。これでは、曖昧過ぎるかもしれない。教育の無償化、と呼ばれる施策は、多くの賛同を得て、実現へと向かっている。だが、その為の資金は、定まった訳でもなく、絵に描いた餅の如く、雲散霧消する可能性は、まだ残っている。一方で、義務教育の仕組みが、初等教育ばかりか、中等へ、果ては、高等教育にまで、及ぼうとすることに、異論を唱える人の数は、かなりのものではないか。その根拠は、様々にあるが、例えば、初等教育は、国民総てが、備えるべき教養を、身に付けさせようとするもので、それが義務化されたのは、例外を排除する為の、唯一の手段だったからに、過ぎない。だが、皆が進むからと、中等教育を受けようとする割合が、急速に伸び、総てという意味で、同じ環境が整ったとばかり、平等を持ち出すのは、明らかな過ちだろう。望むから、という理由も、その根拠は薄弱で、意欲という点では、不十分なままだ。資格としての必要性は、本人の自由選択に過ぎず、備えるべきという基準は、中等教育には、当てはめられない。それが、高等の範疇となれば、議論の余地さえない。これ程に当然のことを、明らかな誤解に基づき、あらぬ方向へと進む愚かさに、呆れるだけでは、押し留めることは、できないだろう。ただより高いものは、と言われるように、無駄金をばら撒く悪政は、止めさせねばならない。意欲を測る、との提案もあるが、どうやるかだけでなく、それが無くなった時に、どうするかも、決めねばならない。元より、今や、大卒の資格は、就職の手形にさえ、ならないのだから。

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