パンチの独り言

(2017年12月25日〜12月31日)
(不平等、無競争、性悪、意識改革、甘言、制動、役割分担)



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2017年12月31日(日)−役割分担

 年の末、巷では、どんな年だったのか、姦しく論じられる。だが、世間がどうあろうとも、自分がどうかこそが、皆の思う所ではないか。経済回復、景気上昇、様々に伝えられるが、今、自分の生活が、どんな具合か、どうなっているのか、そちらの方が、遥かに重要だ。
 景気の上昇を目指したのは、税収を増やす為、との見方がある。ある意味、穿ったものに過ぎないが、的外れとは、言い難いものだろう。ただ、その一方で、景気を支える為と、企業からの徴収は、下げようとしている。では、何処から、更なる収入を、上げようとするのか。簡単には、各自の所得を、上げて仕舞えば、そこから取り立てる税は、増やせる訳だ。そこで、という訳でもないだろうが、その一言を加えて、景気を更に良くしようと、働き掛けてきた。だが、その実態は、どんなものか。この一年の動向を、眺め直してみても、明るい所は、殆ど見えてこない。では、このまま、明るい未来は、やってこないのか。景気を支えるのが、製造業を代表とする、企業と思うのは、浅はかな考えだろう。人々の購買意欲が、今以上に、上がってこない限り、更なる上昇は見込めない。では、どうすれば、いいのだろう。他力本願で、経済回復を願い、景気上昇を喜ぶだけでは、何も始まらないだろう。社会全体の勢いを、戻してこそ、このままの道筋を、突き進むことが、可能となる。時には、痛みを伴うものだが、各自が、支える役目を、果たしてこそ、実現できるものが、あるのではないだろうか。さて、これから先、どんなことが起きるのか。少しずつでも、自分のこととして、考えることで、何かの役割を果たすことが、できるのだと思う。何処から始めるにしても、だ。

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12月30日(土)−制動

 平和を享受するのは、何も悪いことではない。だが、それを維持する為には、何が必要なのか。この疑問に対する、答えは用意されていない。人々は、長く続く平和を、維持したいのだろうが、極端な変化をさせずに、安定した状態を、続けることに、躍起となっている。
 だが、何も変えずに、同じ状態を続けることは、大きな変化の前触れに、気付かぬ事態を、招きかねない、と言われる。そこで、徐々に変化を促し、同じ状態を続けぬように、働き掛ける。では、どんな変化が、それに適しているのか。強大な権力を、獲得しようとする動きに、歯止めをかける、というのが、一つの方法だろう。独裁者を、登場させない為の、方法の一つは、民主主義の尊重だが、時に、それが、独裁を導くことがある。人々の人気に応え、政の中心として、一人の人間が、長く居座ることは、時に、独裁を招く。二度目の世界大戦の端緒は、このようにして、始まったと言われる。そこまでの民主主義に、何らかの誤りが、あった訳ではないが、大衆の不満が、ある政党の台頭を、促したと言われ、それが、暴走へと繋がることに、熱狂化した大衆は、気付くことなく、手を貸し続けたのだ。だから、民主主義と雖も、絶対的な存在とはならず、扱いようを誤れば、平和が脅かされることが、起こり得る訳だ。現在の状況は、その時代と、似た部分があるが、暴走へと踏み出すかは、更に、幾つかの要素が、必要となる。その幾つかに関しては、それらの段を上がる度に、大衆の熱狂が必要となり、それを防ぐには、冷静な分析と自己制御が、必要となるだろう。果たして、自分達は、それに必要な力を、持ち合わせているのか。そこに危うさがあり、その食い止めには、今とは違う見方が、必要となる。損得勘定のみで動いたり、利害だけを表に出していると、こんな力は失われ、暴徒の一種へと走ることになる。自分達は、それに見合う力を、備えているのか。

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12月29日(金)−甘言

 人気取りの商売は、不安定なものと、相場は決まっていた。だが、最近は、事情が異なってきたようだ。誘いの言葉には、その魅力が高ければ高い程、その寿命が短くなる傾向がある。その為、それを操る人々の人気も、一時のものに過ぎず、繁栄のすぐそこに、没落があった。
 その事情が変わった理由の一つに、人気を支える人々の、考え方の変化、があるようだ。魅力に引き寄せられるのは、昔から変わらないし、心変わりが早いのも、殆ど変化がない。一番の違いは、人気取りの言葉の、真意を汲み取る力にある。次々と繰り出される、誘いの言葉の多くは、その効力が、一時しか持たず、鍍金はすぐに剥がれてしまう。それが、効力を失うだけなら、その存在さえも、忘れて仕舞えば、何もなかった、と同じことだろう。だが、そこから歪みが生まれ、悪影響が残ってしまうとなると、話は違ってくる。負の遺産と、時に呼ばれるものだが、これを遺すことが、将来の不安を、更に強めることとなれば、自らの生活をも、危ういものにしかねない。そこの見極めが、自己防衛にとって、最も大切なもので、人気取りの嘘を、見抜くことこそが、大衆にとって、唯一の武器となる訳だ。だが、その力の衰退が、この所、著しくなっている。一時の利益のみを、追い求める心が、それを操る人々に、力を与えることとなり、安定を手にすることが、できるようになった。結果は、ある意味明白だが、どちらの側も、それに気付く気配を見せない。負の遺産と呼ばれたものが、どれ程の規模となっているか、誰も知らないことになっている。その中では、次のご褒美を期待する、愚衆達が、人気取りに走る人々を、支える図式が、確かに築かれている。不安を口にすることを、常にするのに、その正体を、見破れない大衆は、鍍金のような繁栄に、酔い痴れているのだろう。こんな世界に、明るい未来は、あるのだろうか。

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12月28日(木)−意識改革

 身勝手で、愚かな人間の後始末、組織にとって、頭の痛いことが、山積している。繰り返される不正に、防止策を講じることは、当然と片付けられるが、その手間を考えると、この先、どう遣り繰りすべきか、頭痛の種が、また芽を出す。何故、残されたものだけが、という思うだけだ。
 防止策は、未然に防ぐことに、その目的がある。様々な場面で、不正の可能性があるとすれば、それぞれに、その可能性を無くす為の、手続きが導入される訳だ。さらりと書いて仕舞えば、大したことが、無いように見えるだろう。だが、導入してみれば、どれ程の手間がかかるか、判ってくる。その途端に、皆の表情が、曇り始める。一見、当然の如く扱われる、防止策の導入だが、最近の不正を見ると、そんな対策が、既に講じられていたにも関わらず、網の目を潜り抜け、不正が常態化していたものが、多くあることに気付く。だから、もっと厳しくすべき、という考え方は、取り締まる側のものだが、そうなれば、更に手間がかかり、抜け道を探す手間の方が、遥かに少なく感じられ、それに励む組織が出てきてしまう。当初の目的は、対策を講じることで、達成されたと思われるようだが、実際には、その後に頻出する、抜け道への対策が、必要となってしまう。これでは、鼬ごっこであり、終わりのない、追及の始まりでしかない。本来のあるべき姿、に立ち戻らない限り、この堂々巡りは、いつまでも続く。では、どうすれば、その連鎖を断ち切れるのだろうか。一つあるとすれば、意識の問題だろう。対策によって、書くべき書類が増え、更に煩雑な手続きが導入されるが、それによって、意識は低下し、表面的な手続きだけで、事が済むように、形骸化が進む。実は、それより、正しい意識を持つことで、不正に立ち向かう方が、遥かに、効果的であることが多い。縛ることは、縄抜けを試みさせるだけで、本質的な改革に繋がらないのは、明白で、意識改革を目指した方が、早道と思う。

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12月27日(水)−性悪

 愚かな人間が、大手を振って歩ける時代、なのだろう。責任転嫁を繰り返した挙句、組織の荒廃を招いても、素知らぬふりを続ける。そんな人間が、巷に溢れ、先人達が、築き上げた繁栄を、蝕むだけでなく、崩壊へと導く。彼らの排除が、喫緊の課題となっているのだ。
 規則破りの鉄則は、無知を装うこと、なのだろう。数々の不正が、繰り返される中で、「知らなかった」の一言が、切り札のように使われる。犯罪の多くは、その意識の有無が、罪の重さの判断に使われ、特に、詐欺や殺人は、無意識なものは、刑の軽減が行われる、という話がある。まさか、全てに適用される、などと勝手な解釈を、持っている訳でもあるまいが、無知を装い、罰を逃れようとする人が、かなり目立つようだ。知るべきことを、知らぬのは、責任逃れでしかない、と断罪された時代と違い、皆に優しい時代には、不正を犯した人間でさえ、救いの手が差し伸べられる。その歪みを、更に強く感じさせるのは、知らないことを当然とし、周囲からの援助を、求めようとする心持ちにある。不正に加わる人間全てが、知っておくべきことを、自分が知らなかったとしたら、相手が教えてくれれば、不正が防げる、という論法のようだが、身勝手の極みと思える。大勢の前で、そんな意見を、出す人間に、責任感は皆無だろう。こんな人間が、組織の長となるようでは、世も末なのだが、その見極めさえできない人間が、更に上に居座るのだから、荒廃が進むのも、当然と見るべきか。そういえば、同じ人物が、自らの責任を、放棄する発言をした時、排除を決め、その後の関与を、断ち切ったことを、思い出した。

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12月26日(火)−無競争

 子供が少なくなったからか、大切に育てようとする動きが、強まり続けている。一家族当たりの、子供の数が、減り続けることで、競争は減り続け、今や、一人も子供が居ない、という家庭も少なくない。そんな所に、また、生まれた子供の数が、減ったと伝えられた。
 高度成長を続けていた頃は、複数の子供が居る家庭が、殆どであり、競争も、自然に起きていた、と伝えられる。だが、徐々に減り始めた頃から、家族内の競争は、姿を消し、教室内の競争が、精々という状態に、なっていった。そこに、更なる悪影響を、及ぼし始めたのが、競争させないこと、だったようだ。平等の観点から、などと言われたが、実際には、優劣をつけることに、躊躇する人々が、教育現場で増えたことこそが、真の原因だろう。自らの責任を、放棄することで、皆にいい顔を続けようと、する気があったのかは、定かではないが、競争排除は、予想以上に悪い影響を、及ぼしたようだ。一度、そんな空気を満たすと、それを排除することは、容易なことではない。結果として、競争を促すことは、まるで、人権を侵害するように、受け取られるようになった。差別を嫌う世相に、更に困難が極まり、あらゆる競争が、無駄なものとか、余計なものとか、そんな負の印象を、持たせるものと扱われた。だが、実際には、複数の人が集まれば、そこに比較が生まれ、それが、外から見れば、競争の一つと見做されるようになる。それを、殊更に避けようとすれば、歪みが強まるだけで、心理的にも、悪影響が残ってしまった。優劣をつけずに、評価を下そうとすれば、そこに残る基準は、努力の程度くらいしか、ないだろう。その結果、成果の有無を無視した、努力の評価では、正しい判断が、できる筈もない。そろそろ、正しい評価の為の、正しい競争を、真剣に採り入れる手立てを、考える時が、来ているに違いない。

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12月25日(月)−不平等

 社会の働きアリの割合は、決まっている、という研究があった。昆虫の世界ではなく、人間の世界なので、身近に感じられたのだろうか。反響は、それなりにあったようだ。だが、その意味については、どうだろうか。平等を謳う人々には、異常に映ったのではないか。
 誰もが同じであることを、平等と受け取るのは、単純な誤解なのだが、この思い込みは、社会の奥底にまで、広がっている。だから、分業を前提とする、研究の意図に、戸惑いを覚えた人が、多かったのだろう。その上、環境の変化により、それぞれの立場にまで、変化があるとなれば、環境さえ整えば、皆が平等に暮らせる、と信じる人には、辛い結果を、突き付けたのだろう。本来、平等主義の過ちに、もっと多くの人が、気付いている筈だが、同じでないことから、被害を受けた人への思い遣りから、口を閉ざしたまま、好き勝手なことを並べる、平等主義者の発言に、何の反応を示さずに、放置し続ける。その結果が、彼らのあるべき姿を、社会が受け容れたような、結論へと結びつき、別の不平等が、社会に蔓延する。過労やいじめ、様々な問題が、企業や組織に、あると言われるが、その歪みが、何処から生まれたものか、考えもせずに、権力を持つ人々を、一斉攻撃する。確かに、把握が不十分だったのだろうが、だからと言って、全てに同じ結果が、起きるとは限らない。自死の問題は、様々に取り上げられるが、そこに至る心理について、個々の例に関して、結論が出されることはない。不十分な分析から、感情を優先することとなり、ここでも、思い込みが横行する。冷たく扱え、と言っているのではなく、きちんと扱え、と言っているだけなのだ。一方的な意見聴取や分析を、唯一の材料として、大きな動きへ繋げることは、社会の歪みを、強めるだけで、不平等は、一段と増すだけなのだ。

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