歴史や伝統を、知らないことは、恥なのだろうか。人伝えで、後世に伝えられることが、事実に基づくのか、不確かなことは多い。ほんの少しのきっかけで、全く異なることが、事実と伝えられ、或る日突然、覆されることがある。知っているつもり、に終わってしまう。
事実を、そのままに伝えることは、やはり難しいようだ。それぞれの事情が絡み、不都合を感じれば、手を加えることもある。少しだけ、というつもりが、重ねるうちに、正反対になってしまった、ということもあるだろう。歴史に関わる話だけでなく、自分の経験を語る時も、そんなことを、感じた人も、多いのではないか。個人的なことだから、とばかりに、好き勝手な発言を、繰り返すうちに、以前話を聞いた人から、「この間と違う!」などと、指摘される。素直に謝れば、事が済む訳ではなく、それまでの話全体を、やり直さなければ、事が済まない場合も多い。となれば、何が事実で、何が嘘かが、自分でもわからなくなる。こんな調子で、戦中戦後の混乱を、各人が、思い出話として語る。多くの人が、思い出すのも嫌と、一切触れない中で、告白という形で、語られるものは、恰も事実であったかが如く、勇気ある発言と、受け取られるのだ。それまで、誰にも興味を持たれなかった、自らの人生を、こんな形で話した途端に、注目の的となる。こんなことで、勢いを得て、そのまま、嘘を重ね続けた人の話は、歴史的事実と、なることがある。伝統にしても、同じようなものだろう。口伝を、唯一の伝承法として、続いてきた伝統には、危うさが見え隠れする。大切だからこそ、一人にだけ伝えられれば、それが、嘘か真か、当事者にしか分からず、変えた本人が、それを信じて仕舞えば、嘘も真となる。知らないことより、信じることの方が、時に、恥となるのは、見破る力が、備わっていなかったからだろう。
本質的には、何も変わっていないのに、看板を付け替えるだけで、事が済むと思っている。国や地方の政策において、こんな話は、あまりにも多く、情けなくなる程に、酷い状況にあると思う。何故、解決へと向かわず、口先だけの約束を、次々に出してくるのか。
問題を直視していることは、確かなのだが、それを解決する為の手立てを、講じる気は無いらしい。社会の歪みの多くは、その存在が明らかになるにつれ、喫緊の課題として、取り上げられる。だが、それを解決する手段は、問題が明らかなのに、容易には見出せない。そこで、掛け声の如く、看板を掛け替え、課題を取り上げる姿勢を、見せようとする。施政者の多くが、こんな考えで、政策を編み始めると、資金の注入は、何の問題もなく、行われるにも関わらず、その使い道が、定かにならぬままだから、何も進まぬばかりか、無駄遣いが増えるだけとなる。だが、その流れに乗ろうと、躍起になる人々にとっては、千載一遇の機会となり、群がることになる。ただし、暫く様子を伺えば、何も進まず、何も変わらない状況に、当事者達の不満が爆発する。で、掛け声は、何だったのか、となる訳だ。中身のない、ハリボテに過ぎぬものに、期待したのが、間違いとなるだけなのだ。養護という言葉が、悪い意味を持つと決め付け、その状況を、改善しようと編み出されたのが、特別支援という言葉のようだが、内情は、一切変わらず、言葉だけが、掲げられてしまった。現場では、社会から弾き出された人々の、将来を確かにするように、努力が積み重ねられているが、看板が変わっても、特効薬が処方される訳ではない。地道な努力が、続けられているようだが、その一方で、掛け声に乗せられた、多くの施策が講じられる。混乱に拍車がかかり、問題が拗れてしまっては、まさに、掛け声だけに終わりかねない。さて。
気温が上がると、すぐに、温暖化の話を持ち出すが、下がってしまうと、何も言い出さない。身勝手な人々の言動は、所詮、その程度のものなのだが、これが、世界中に、様々な影響を、及ぼすだけに、無視していい筈がない。では、どうすべきか。科学的な分析しか、答えは得られない。
と、思う人は、沢山いるだろうが、実際の測定データには、様々な不確定要素が、含まれている。だから、多くの人々は、自分の考えに、都合のいい部分を抜き出し、それを根拠として、論を進めていく。どちらの側も、同じ数値を使っているのに、正反対の結論が、導かれるのだ。科学とは、本来、恣意的な部分がなく、飽く迄も、客観的なもの、と信じる人は多いが、実際には、そうなっていないことが、余りにも多い。測定自体は、単なる数値であり、そこに、誰かの意図が、持ち込まれることはない。なのに、何故、こんなことが起きるのか。その原因の多くは、無数に掲げられた数値のうちの、ほんの一部のみを、抽出する作業にある。その際に、都合のいいものを選び、悪いものは捨て去る訳で、これにより、結果も含め、それを基にした議論をも、恣意的なことが、行えることとなる。最近は、ビッグデータと呼ばれるように、大量のデータを分析し、そこから、結論を掘り出すことが、可能となりつつある。そこには、客観性の確立という、一大革新が、期待されているのだが、無から有は生まれず、何かしらの基礎を、未だに必要としているようだ。そこに、論者が付け入る隙がある。場合によっては、強力な武器を得て、更に強気の弁が、出されかねないが、この推測において、何が重要か、そろそろ、きちんと分析する必要があるように思う。気温の上下で、顔色を変えるような、怪しげな連中の、妄言に騙されないように。
年齢を意識したのは、いつ頃だろうか。まだ、それに達していない人もおり、上を目指そうという気持ちを、強く持ち続けているのだろう。だが、誰もが、いつの頃か、できないことを、意識し始め、体力や記憶力の衰えを、実感し始める。始めは、それに、抗おうとするようだが。
それでも、年相応の変化、であれば、どうということもなく、周囲も、見守ってくれる。だが、早い時期から、そんなことが始まると、様子は一変する。若年性、という言葉が、ある症状につけられた途端、周囲も巻き込まれ、様々な支障が、生じ始めるからだ。最近は、特に、記憶力の低下を、気にする人が出ており、齢を重ねたから、とも言い切れない症状に、悩む人もいると聞く。物忘れは、加齢現象の最たるものだが、これも、度を外すと、様々な支障を産む。人の名が、思い出せないことから始まり、そのうち、会話の一部が思い出せず、果ては、自宅への道さえ、思い出せなくなるという。老齢と呼ばれる範疇で、起きる分には、周囲の諦めも、何とか収まるものだが、働き盛りに起きる現象には、納得するより何より、日々の生活の糧を、考える必要が出てくる。最近は、対応策が、様々に講じられるようになり、各自の能力に見合った、作業が与えられるように、なったと言われる。社会が優しくなったのかもしれないが、それが講じられるだけ、余裕があるとも言える。また、患者自身も、自分の変化に、正面から立ち向かい、現状を、受け容れられるようになったことも、大きな変化の一つだろう。しかし、依然として、周囲の理解は不可欠であり、それなくしては、奈落の底に、落とされてしまうこととなる。それにしても、こんなことが、目立ち始めたのは、何故だろうか。患者数が増えたのか、それとも、症状に対する、見方が厳しくなったのだろうか。
平和な時だからこそ、不安を口にできるのか。どうにも、受け容れ難い言動が、社会に溢れている。不安を口にするのが、当然のことの如く、自信を持って、負の発言を繰り返す。あんなものを聞いて、まともな神経を、保つことができるのか。不思議に思うのは、ずれているからか。
安心できる社会が、身の回りにあるからこそ、余計な発言が、繰り返されるのだろう。発言者達の、日々の生活には、何の不安もない筈だが、彼らの口をついて、出てくる言葉は、それらの殆どが、実態とは正反対の、ものとなっている。何故、そんなことになるのか、普通の神経では、理解し難い。だが、誰かが、不安を口にした途端に、その後に続けとばかり、口々に、同じことを発する訳だ。それで、何が変わるのか、さっぱり理解できない。耳を傾ける価値など、そこにある筈もなく、聞き流しておけばいいだけだ。なのに、そういうものだけを、選び抜いて、電波や紙面に載せる人々が、居るのが今の時代なのだ。どんな心理から、そんな馬鹿ができるのか、これも理解に苦しむどころか、理解不能な状態にある。長く続き過ぎたことから、余計なことを、発する余裕ができたのか、不思議と言うしかない。こんな時代には、愚かな発言には、耳を貸さずに、自分の考えを、貫くだけの精神力が、必要なのかもしれない。楽な時代の筈が、いつの間にか、生き難い時代に、なってしまったようだ。そんなことを考えても、結局、何も起きず、平和な時が流れるだけで、大した問題は起きない。であれば、気楽に構え、その中で、自分がすべきことを、行っていけばいいだけだろう。そんな気持ちを、持っているのか、少し確かめてはどうか。
いつもと同じ、ということに、慣れてしまった人間にとって、何かしらの変化を、求めたくなる気持ちも、わからなくはない。だが、同じであることは、確かなものであり、安定を実感させるものなのだ。そこに、変化を取り入れることは、不安を招くことに、なりかねない。
それでも、変化を求めなければ、ならない時もある。それが、不安へと繋がり、調子を外してしまうことも、ある意味、止むを得ない。それに対して、備えることがあるとすれば、気持ちを強くする、ことだろうか。覚悟を決める、というのも、その一つなのだろうが、変化を求める気持ちが、高まる余り、全体の均衡が、崩れてしまうことがある。気の持ちよう、などと言われるけれど、どんなやり方が、正しいのかは、誰にもわからない。それに、変化によって、崩れ始めた時に、どうすればいいのか、わかっていることはない。どうせなら、変化を求めず、今のままで、と思うことも、あるのだろう。それが極端に強まったのが、今時の若者達、と呼ばれる集団の特徴、ではないだろうか。変化を求められても、それに応えることなく、ただ漫然と暮らし続ける。周囲からは、不満の声が浴びせられ、仕方なく、動き出したとしても、少しの変化で、戸惑ってしまい、元の所へ戻る。こんな繰り返しでは、殻を破ることも、できないだろう。一念発起、そんな変化へと歩み出す人もいれば、何も考えずに、成り行き任せで、踏み出す人もいる。どちらが、変化に耐えられるかは、わからない。でも、何かを始めてこそ、次の段階に進めるとしたら、覚悟や意識の有る無しに関わらず、始めなければならない。
年が改まり、人々は、それぞれに、新しい年に、思いを馳せる。今年こそは、という思いが、その大部分だろうが、何を願い、何を目指すかは、人それぞれだ。上を目指そうとする人が、居る一方で、今のままを、願う人が居る。成長の過程にあれば、上が当たり前なのだが。
人生が長くなり、徐々に、老後を、真剣に考える人の数が、増している。以前なら、還暦を過ぎれば、老後となり、隠居することで、気楽な毎日を、送っていた。働く必要もなく、家族と暮らすことで、安定した老後が、保証されていた。だが、今はどうか。定年延長などという言葉が、飛び交うようになり、還暦は、まだ働き盛りと、見做されている。確かに、平均寿命が、男女共に、80を超えたから、還暦後も、平均として20年余りの時を、過ごさねばならない。収入を絶たれ、子供達の世話にならずに、という状況では、国からの支えを期待したくとも、現状は、それを許さぬ環境となっている。では、とばかりに、働き口を探すが、定年前のように、生活を支えるのに、十分な収入を得ることは、困難と言われる。そこで、国からの年金に加え、少しの収入を得ることで、生活を続ける人が、増えていると言われる。これが、始めに書いた、今のままを願う、気持ちへと繋がるのだ。変化を望みたいが、上を見上げるのは、難しいこととなり、下に降ろされるよりは、現状維持を願う。年の初めから、暗い話と思えるかもしれないが、実際には、齢を重ねるにつれ、体力の低下だけでなく、思考力も、低下を意識せねばならない、こととなる。その中で、今のまま、を願うのは、高望みと見ることもできる。だから、という訳ではないが、現状維持も、一つの願いであり、目標となるのだ。恥じることなど、一つもない。高らかに、目標と謳っても、いいのではないか。