パンチの独り言

(1月8日〜1月14日)
(手抜き、良き習慣、無能者、正答、複数解、災い、実力)



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1月14日(日)−実力

 実力を測る。測る側も、測られる側も、皆、必死で頑張っている。だが、世間では、そんなもので、実力が測れる訳がない、という意見が、呟かれる。その多くは、小手先のものやうわべだけのものでは、その人の真の実力は、判断できないとする。これは、本当なのか。
 彼らの主張は、人間が持つ能力は、現行のような、試験の形では、推し量れない、とするものらしい。だが、主張の主体となる、「実力」とは何か、という問題を、論じることなく、こんな議論をしても、意味がないだろう。やらせてみたら、全く違う状況が、見えてくる、ということが、その根拠のようだが、だとしたら、それぞれに、違う尺度を当て、各々別々に、試してみなければ、判らないこととなる。統一的な尺度を当て、同じ数直線上に、置くことにより、全体を見渡すという目的には、こんなやり方は当てはまらない。個別の指標を、使いたければ、それを用いればいい、ということだ。その点から見れば、この手の批判の殆どは、的外れなもの、となるだろう。では、他の見方はどうか。選択式では、真の実力は見抜けない、という批判も、よく聞かれるし、今、その対策の一つとして、論述式の導入が、検討されている、と言われる。この試みの、一番の問題は、評価基準にある。自由記述において、内容の選択肢は、無限にあるとも言える。その中で、どれが正解か、ということだけでなく、何をどの程度評価すべきか、そちらの問題が、大きいと言われる。更に、難しくしているのは、唯一解が、適切かどうか、という問題だろう。社会では、多種多様な考え方が、認められるのに対し、試験では、たった一つしかない、という状況が作られる。それが、様々な矛盾を、産み出していることが、大きい。所詮、人が人の実力を測ること自体、無理があるだろう。だとしたら、それを承知の上で、何ができるか、考えねばならない。

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1月13日(土)−災い

 備えあれば、とは言われるものの、憂が無くなることは、どうもないらしい。不安を口にする人々に、どんな安全策を、授けたとしても、どれも完璧とはならず、別の不安がついて出る。それだけなら、杞憂に終わる、という場合もあるだろうが、そこに、現実が畳み掛けると。
 備えがあったのに、との見解が、事故や事件の後に、聞かれるが、どうも、何かが不足していた、と思える。十分な備えを、という掛け声は、屡々聞かれるが、それでも、防げなかったことが、悔やまれる。だが、その場の判断を、詳しく分析すると、実は、事故を防ぐ為に、対策が講じられており、それを巧く使えば、まさに、事故を防ぐことが、可能になる筈だった。ところが、使いようを誤ったり、備えの能力を、過大評価していた為に、それ以外の対策を、講じないままに、臨んだことが、事故に繋がった、と分析されることが、多いようだ。大丈夫と思った、という当事者の言い訳は、何度聞いても、納得がいかないものだが、それらの場合も、細かく分類して、未然に防ぐことを、目指すべきなのかもしれない。備えとは、単純に、一つの対策を表すのではなく、それに付随して、様々に変化する場合について、それぞれに、細かな対策を、講じる必要がある、という意味だろう。ところが、一つを準備することで、安心に繋がったとする、心理が働くようで、多くは、そのまま、その先にすべきことを、忘れてしまう。こんなことで、被害に遭う人々は、不運としか、言いようがないのだが、現実には、備えをすべき人々による、人災と見るべきなのだろう。安心の為の備え、という考え方が、悪いというつもりはないが、慢心へと結びつくような場合に、どんな備えが、必要なのかを、考えるべきなのだろう。尽きることのない、考えなのだが、安全安心とは、そんなものだと見れば、簡単に信じ込むことは、避けるべきなのだ。

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1月12日(金)−複数解

 一つの答えしかない、という問いに、意味はあるのだろうか。学校に居る間は、ごく当然のこととして、問題の答えを、導いていた。でも、社会に出てみると、その考えが、どこかが外れているように思えてくる。正しい答えは、確かにあるのだろうが、それは、一つだけ、ではないのでは、と。
 子供達に、これを伝えても、大した返答は、戻って来ない。何の疑いもなく、与えられた課題を、こなしていくことが、最重要だからだろう。その中で、疑問を抱けば、他人より劣っている、と見做されかねない。だから、大人しく、従っておこう、とするのも、生きる術の一つなのだろう。だが、最高学府を経て、社会に出てみると、明らかに、様子が違っている。答えは、幾つもあり、その中で、最適なものを、見つけるべき、という課題が、与えられるのだ。それも、その問題に終わらず、次の問題にも影響し、複数の課題に対して、全体として、最適の答えを出すように、指示が加えられる。となると、学校で経験した、唯一の答えを導く手立て、というよりも、そこから続く、幾つもの問題を、全体として見渡した上で、最良の答えを、導くことが必要となる。先が見通せていれば、まだ、全体を考えることも、できるかもしれないが、次に起きることが、予想できない場合には、見えないものを、予想する必要が出てくる。では、それぞれの最適解を、求めるのでは、何がいけないのだろうか。何度か経験してみると、一つの課題に対する最適解は、実は、次の課題に結びつかず、結局、そこで頓挫してしまうことさえ、起こり得る。結果、元の課題に戻り、改めて答えを導き直す、必要が出てくるのだ。となれば、幾つもある答えのうち、どれを選ぶか、ということへの能力が、試されることになる。本当に役立つ、という点で言えば、今の教育は、全くダメ、と言われそうなものだろう。では、どんな方法が、いいのだろうか。

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1月11日(木)−正答

 人生の節目で、不運に見舞われる。そんなことに、めげずに済むだろうか。冬に入り、巷では、そろそろ入学試験の話題に、もちきりとなる。運より実力、と言われる世界だが、時に、不運に襲われることがある。実力を備えていても、どうにもならない、結果と共に。
 試験は、実力を測る為のものだが、正しい問題が、使用されなければ、意味を成さない。唯一の答えを、導き出すことが、受験者に課せられる訳だが、時に、複数の答えが、存在したり、逆に、正しい答えが、一つも存在しないことがある。これらの場合、不適切な問題、と結論付けられるが、その判断の時期が、何時になるかで、運不運の分かれ目が、出来てくる。採点までの期間に、間違いが発覚すれば、調整をかけることが、可能となるが、合格発表後に、発覚した場合には、不幸にも、実力通りの結果が、示されないことに、なることがある。実施した側は、様々な措置で、応じようとするが、その時期が遅れる程、お互いに、困難な状況に追い込まれる。今回の、ある国立大学の事件は、耳を疑う程の状況にあり、手当も、容易ではないようだ。報道では、取り上げられていないが、こういう場合の、手当では、ほぼ全てにおいて、当該問題に対し、全員に満点を与え、採点のやり直しが、行われる。それが正当であるとされるが、実力を測ったことには、ならないことを、指摘する声はない。複数の答えのうちの、一つに到達した人間と、そうでない人間を、同等に扱うことは、別の問題を、生じる筈ではないか。ここまで書いてきて、思うことの一つは、試験問題の答えを、唯一としなければならない、という点だろう。解法も含め、複数の答えが、あってもいいとする、方法に戻っても、いいのではないか。それで、今回の問題が、解決する訳ではないが。

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1月10日(水)−無能者

 仕事ができない人間、誰もが、そんな風には、呼ばれたくない。だが、そう思える人が、身の回りに居ることも、事実だろう。できる、できないの違いは、どこから出てくるのか。呼ばれたくない、と思う身から、その区別を知りたい、と願う気持ちが、出てくるのだろう。
 では、実際に、その区別は、はっきりしているのだろうか。こんな疑問を、ぶつけられて、すぐに、答えを返せる上司は、多くないだろう。個別の例を、示すことはできても、こうなれば、無能者となる、と示すことは、難しい。それほど、できない例は、多種多様であり、これ一つ、とすることは、難しくなる。ただ、何度か、同じことを経験すると、一つ気付くことが、出てくる。それは、同じ失敗を、繰り返すことだろう。学習は、何も、学校に通っていた時代だけに、通用するものではなく、社会に出てからも、経験を積み重ねる上で、必要となる手順の、一つとなる。だが、無能者呼ばわりされる人の多くは、何度も、同じ間違いを繰り返し、それを、未然に防ぐことが、できない。その為、周囲からは、厄介者扱いされ、遠ざけられることになる。本人は、ある程度意識しているのだろうが、事が起きる前に、気付くことは少なく、結果として、同じ穴に落ちてしまう。他の人々は、すぐに気付くことでも、何が問題なのか、気付くことがない。その為、同じ穴に落ちるだけでなく、その気配にも、気付くことがない。周囲からは、失敗する度に、問題を指摘されるが、起きてしまった間違いは、理解できるものの、その前の段階を、見極めることができない。これでは、失敗しない、確実なことを、繰り返させるしか、やらせることがなくなり、閑職へと追い込まれるのも止むを得ない。彼らの多くは、学校に通っていた時代も、同じことを、何度も繰り返すことで、やっと理解を得ていたようだ。その頃に、自分の性質に、気付かなかったことが、今の姿に繋がる。そうならない為の対策は、無いのかもしれない。

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1月9日(火)−良き習慣

 正月はいつまでなのか。これも伝統の一つだろう。三が日のみ、という意見があるが、一方で、新年を祝う中での、暴飲暴食を、戒める意味も含めて、七草粥を食べる習慣もある。これを頼りとすれば、七日が、正月の終わり、と考えられる。だが、それだけではない。
 松の内、と呼ばれる期間には、同じように、七日までを、考える場合と、十五日までを、考える場合があるという。どんど焼きという伝統行事が、行われるのは、十五日とする地方も多く、その考えが反映されているのだろう。一方、嫁達が、実家に戻る為の期間、との考えが、適用されるのが、小正月と呼ばれるものではないか。正月とは別の行事が、行われる場合もあるが、嫁ぎ先で、本家の嫁として、働き続けたことへの、代償として、実家で休む期間、と見る向きもある。隷属的な存在として、嫁という立場を、見る人も多いが、奴隷の如く、働かせられる存在、と見るには、少し事情が、違っているように思う。嫁だけでなく、奉公人に関しても、同じような状況があるが、彼らの多くは、盆と正月に、実家に戻ることを、許されていたという。自由気儘に、振る舞うことができる、現代人には、奉公自体に関して、理解に苦しむことだろうが、一方的な隷属関係ばかりでは、なかったのではないか。伝統と聞くだけで、縛られる印象を、抱く人々には、こんな話も、うわべだけのこと、と聞こえるかもしれないが、伝統として、そんな関係が、続けられたのも、同じことを、一年中続けるのではなく、調子の違いを入れることで、それなりの状況を、保とうとする配慮が、あったのかもしれない。虐げられた存在、と聞くと、まるで、現代の虐めの対象のように、受け取る向きもあろうが、冷淡さについては、今の方が、遥かに上回っているのかもしれない。

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1月8日(月)−手抜き

 伝統が、失われつつある、と言われるが、身の回りの具合は、どうだろう。例えば、新しい年を迎えるにあたり、寺や神社に詣でることは、今でも多くの人々が行う。だが、同じ時期に、祝い膳を用意する、という行事の方は、どうだろうか。昔に比べたら、随分数が減ったのではないか。
 自分で作らずとも、出来合いのものを、買えばいい、とする家庭もあるだろう。一流の料亭で作られたものや、百貨店で売られるもの、師走に入る頃から、広告が賑やかとなっていた。派手な色合いの御重からは、伝統的な御節と共に、洋風の料理なども並び、伝統とは少し違う雰囲気が漂う。それらの値段に、驚くのは、貧乏人の性だが、祝い膳として、考えるのであれば、その位の出費は、覚悟するのが当然か。盆と正月くらいは、親族が集まるという習慣も、今では、殆ど忘れ去られた。各人の負担を、如何に軽くするかが、論じられる時代には、本家の嫁が、全てを賄うという図式は、不平等の典型として、忌み嫌われるものとなった。虐げられた存在として、受け取られることも多く、男尊女卑の典型として、捨て去ろうとする動きが、起きるのも当然、と見る向きもあった。役割分担、という考えは、こういう場面では、殆ど忘れられ、立場の違いさえも、取り去ろうとする、平等化が、強く推し進められた。では、当時の状況を、理解する人は、どれ位居るのか。年末年始に、働き続けて、と見られる、本家の嫁にとって、御節料理は、実は負担軽減に繋がると、見る人は少ない。だが、冷えても食べられ、濃い味付けは、長持ちさせるもの、と考えれば、多くの客をもてなす為に、何度も台所に立たねばならない、状況は少なくなる。好きなものばかりを、食べたいと思う子供にとって、同じ味ばかりで、飽きる存在も、こんな知恵の表れ、と見たら、少しは気持ちが変わるのではないか。出来合いを、と思う気持ちも、変わるかも。

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