パンチの独り言

(1月15日〜1月21日)
(外国かぶれ、魔女狩り、忘れない、筋を読む、未来志向、自負心、呉越同舟)



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1月21日(日)−呉越同舟

 今更ながら、罪作りな政策だった、と悔やみこと頻り、となる。全国津々浦々で、予算獲得の為に、意見の不一致を、飲み込むことで、実現した市町村合併は、次々に噴出する、不一致からの問題に、新生自治体の苦悩を、産み出した。誰の責任かは、明らかなのだが。
 それにしても、大改革と呼ばれたことを、数々実行したとして、一部に高い評価があるものの、あの宰相の時代に、断行された改革の、その後の経緯は、惨憺たる状況を、示している。合併も、大混乱を招いた事業として、未だに燻る問題が、行政に影を落としている。人参をぶら下げて、有無も言わさず、行ったことと言われるが、それでも、金につられて、無理筋を、押し通したのは、現場の人間なのだ。その責任は、無いとは言えないが、既に、多くの首長は、退いているし、鬼籍に入った人も多い。地域の繁栄を、保つ為の政策、とも言われたが、一時金に目が眩み、混乱に目を瞑った結果、今の状況が生まれた。特に問題となったのは、それぞれの歴史の違いから、多種多様な文化が、育まれてきたことに対し、一緒になることは、多様性を失わせ、選択を余儀なくすることで、一部の衰退を招き、結果として、活性を失わせたことにある。その最中には、互いの優位を、主張することで、議論を戦わせ、時に、誹謗中傷に走ったことで、互いに、恨み辛みを残す。別の地域であれば、尊重までは行かずとも、知らぬふりも通ったが、同じとなれば、激論に至ることもある。無駄な時間と労力を、使わせた上に、馬鹿げた選択を、行うことで、失われた地域文化は、数多あるに違いない。掛け声だけの人間に、そんな深慮がある筈もなく、ただの思いつきを、無理矢理通しただけだろう。国は違えども、今、海の向こうで、暴言を吐く大統領は、あの宰相と同類と見えてくる。

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1月20日(土)−自負心

 上に居る人間が、頑なだと、下は苦労する、と言われる。下からの声に、耳を傾ける上司が、好まれるのは、感じる圧力が、弱まるように、思えるからだろう。一方、下が頑固さを、見せる時に、上に立つ人間は、どう感じるのか。反応は、人によるものだが。
 意見を曲げない部下に、堪忍袋の緒が切れる、という場合もあろうが、そうなるのも、耳を傾けた結果、なのではないか。間違っている、と思いつつも、理解ある上司を演じる為に、それを指摘せずに、主張を尊重しようとする。だが、間違いは間違いであり、どう手当をしても、修正不能なことも、多い。延々と議論を続けた挙句に、良い結果が得られず、肝心の部下は、その責任を微塵も感じない。となれば、理解ある上司と雖も、怒りを感じるだろう。では、もう一つの反応は、どんなものか。端的に言えば、叩き潰すのだ。間違いは、間違いと、はっきり伝え、再考を促す。多くの人々は、これに対して、素直な反応を示す。が、一部には、それが出来ぬ程の、頑固さを見せる人が居る。こちらは、過ちを認めず、自分が正しい、と主張する。たとえ、上から見れば、明らかな間違いだとしても、本人には、そんな感覚は、微塵もない訳だ。こういう類の人々は、自信に溢れ、何事にも、積極的に取り組むのだが、いかんせん、自身の考えに、固執することが多い。そこに、自負心が加わると、厄介なものとなる。だからこそ、叩き潰す必要がある。だが、今の社会は、こういう行為を、許さぬ空気を作っている。昔なら、指導とか、親心とか、言われたことが、通用しない。この過程を経てこそ、成長がある筈なのに、その機会を、奪っているのだ。これが優しさであり、理解であると、世の中全体に、誤解が広がる。そろそろ気付かないと、手遅れになる、に違いない。

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1月19日(金)−未来志向

 昨日の話は、以前報道されていた、海の向こうの現状、に関係するものだ。独立心、という点に関して、海を挟んだ二つの国は、全く異なる様相を、呈していた。自分の夢を、実現する為に、進学する、という思いには、違いが殆どないが、そのやり方が、異なっていた。
 親子の依存性、という問題が、こちらにあったが、向こうは、そんな状況には、無関係な状態だった。進学に必要な資金は、子供達が、自身で借金を組み、それを、卒業後に返済する、という図式が、海の向こうの常識だった。夢の実現には、学歴が必須であり、それを手に入れる為の、資金の調達には、親の関与は、保証人という立場以外に、全く無い、という状態だった。それに対し、こちら側では、全てを、親の支えに依存し、それが当然と見做されてきた。この親子関係の違いは、文化の違いによる、などとも言われていたが、実は、社会情勢の違いこそが、その原因だということが、近年の不況から、見えてきた。学歴を手に入れても、望みの職業ばかりか、職を得ることさえ、難しくなった若者達が、嫌々でもなく、実家に戻る、という状況が、報道されていたのだ。その中で、悠々自適を望んだ筈の、親達が、職を辞す代わりに、労働を継続する選択を、しているとの話だったが、これこそが、面前の問題に、囚われるばかりに、誤った選択を、しているという、表れだと思えたのだ。不況で、減り続ける牌が、卒業後に職が得られぬ、人々を産み出したのだが、親が働き続けるとの選択は、予定された交代が、無くなることに繋がり、結果的に、状況悪化を招く、ということだ。無い袖などとも、言われることだが、人生の長さに比べたら、数年の困窮は、我慢の対象とすべき、ものなのではないか。こんな過ちを、繰り返すことこそが、問題を、更に拡大するに違いないのだから。

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1月18日(木)−筋を読む

 目の前の問題を、順々に片付ける。当然のことと思えるが、その後の成り行きは、何とも不安定だ。何がおかしいのか、と考える人も居るだろう。では、このやり方が、上手くいっていた時代は、何が違っていたのか。最大の違いは、成長の有無なのではないか。
 高度成長期にあった時、次々に現れる問題は、全て成長の過程に、乗っかっていた。数は増え、量も増え、何もかも、増え続けるかのように、見えていた。それが、成長が止まり、更に、衰退が始まると、増えるものは、殆ど無くなり、減るものばかり、という状態に陥った。その中で、目の前の問題を、片付けていく際には、将来の縮小を、考えに入れないと、負の螺旋を、下って行くことに、なるだけとなる。先を見通すことの、重要性が取り沙汰されるのも、こんな環境からだが、以前の成功のように、成長の勢いに乗った結果では、見通しが必要なのは、ごく一握りの例だけで、殆どは、何の見通しもなく、運に任せた結果に、過ぎないものだった。だから、こんな時代に、成功を手にしようとすれば、減り続ける牌を、如何に手に入れるかが、重要な鍵となる。その為には、見通しが不可欠であり、それに基づき、戦略を編む必要が、出てくるのだ。だが、組織や国のやり方を、眺めていると、そんな見識に満ちた考えは、皆無であり、依然として、場当たり的で、応急手当的な、対応ばかりが目立っている。愚かな庶民達が、そんな反応を見せるのは、古今東西、常となっていることだが、施政者達までもが、そんな愚策を、弄し続けるのを見ると、将来への不安は、更に膨らむこととなる。愚かな選挙民を、相手にするのだから、分かりやすい話を、などと口走るに至っては、崩壊に突き進むしか、選択肢は残っていないように、思えてくる。だが、こんな時こそ、真剣に考え、先行きを見通し、確実な道を、選ぶことこそが、大切となる。まず、自分のことから、始めてみよう。

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1月17日(水)−忘れない

「忘れない!」、この日が訪れる度に、何処かから、この言葉が、湧いてくる。それぞれに、多くの被害者が居て、彼らのこと、災害のこと、それら諸々を、記憶に留めることの、大切さが、強調される。忘れられそうなことを、覚えておくことの、大切さを。
 その一方で、忘れられず、悩みの淵に落ちた人々は、何も手に付かず、何処から始めて良いのかさえ、見出せない状況が、長く続く。彼らにとっては、一時でも、忘れられるものなら、その方が、遥かに楽なのに、という大きな悩みが、伸し掛かっている。どちらも、重要なことを、私達に伝えている、のではないか。忘れないことの大切さ、と、忘れることの大切さ、そこに、どちらか一方が、と決めることが、できないという、ある意味の苦悩が、あるのだ。人間の心理では、強い衝撃に出合うと、それを忘れ去ろうとする、回路が働くと言われる。そこでは、完全に抹消するのではなく、何かとすり替えることで、衝撃を和らげ、悩みの淵から、浮かび上がる一方で、断片的な記憶は、留めておこうとする。だが、はじめに取り上げた叫びを、訴える人々は、こんな人に対しても、忘れないで、と訴える。たとえ、それが、相手を傷つけることとなっても、自分達の被害を、忘れないで欲しい、と伝えたいのだろう。この葛藤において、どう処すべきかは、確固たる答えが、存在する訳でもない。皆が、それぞれに、これと思うことを、続けていくだけなのだ。それが、たとえ、他人に害を及ぼす結果と、なったとしても。ただ、その最中に、伝えることを、生業とする人々が、客観的な立場から、主張を取り上げようとする。当事者でない人が、発言することで、我が意を得たり、と思う人も、居るかもしれないが、時に、お節介としか見えない、ことも屡々起こる。記憶に留める代わりに、記録を保存することこそ、彼らが行うべきことなのではないか。

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1月16日(火)−魔女狩り

 例年になく、皆が黒い服を着て出席した、授賞式は、肝心の作品への興味は、失われていた。本末転倒、との意見は、出すことさえ、憚られる状況だが、嘗ての名女優が、「魔女狩り」との言葉を用い、歪んだ状況に、警鐘を鳴らしていた。ところが、そこにまた、起きた。
 魔女ならぬ、言葉狩りだが、この状況は、この国で、嘗て大きな社会問題と、捉えられ始めたものが、当然のものとして、確固たる地位を築いた、「いじめ問題」と、似たものがある。その昔、いじめは、する側の意識が、重視されていたが、海の向こうから、harassmentなる言葉が、入ってきてから、正反対の解釈が、施されることとなった。つまり、される側の感覚が、全ての根源であり、それに配慮してこそ、社会や組織が、整えられるというものだった。全てが、悪い方に向かったとは言えぬが、現状は、別の歪みが、強まり続けている。それは、名女優の発言に対する、強い反発にも、現れており、釈明や謝罪を、表明する事態に、陥ったと伝えられる。だが、ここでも、被害者が、どう受け取ったかが、問題として捉えられており、発言者の意図は、覆い隠されてしまう。意図を、正しく伝えるように、言葉を付け加える、という意味での、釈明については、発言者の立場を、守る為にも、重要であるが、誤解を与えたとの謝罪は、ハラスメントの、現代的な解釈の表れを、映したものに過ぎず、現代社会が抱える、過剰反応の一つ、と見ることもできる。受け手の問題が、全てであるとの見方は、弱者保護の観点から、当然のものとなろうが、彼女の発言は、それが過ぎる場合に、別の歪みが、別の問題を招くことへの、警鐘だったのだろう。だとすれば、それに対する、総攻撃にも似た、反応の数々は、それこそが、「魔女狩り」の一つであり、言葉狩りとなるのだ。それも、一方的な解釈による。

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1月15日(月)−外国かぶれ

 舶来品を、崇拝する心理は、何処から来るものなのだろう。古来より、外から来るものを、崇め奉っていたから、ひょっとすると、遺伝子にでも、そんな印が、付いているのでは、とは、冗談が過ぎるが、何処かに染み付いている、と思いたくなる程、尊ばれるもののようだ。
 文化にしろ、それに関わる商品にしろ、この国は、外からのものを、過大評価し、それを基に、崇拝や盲信といった感覚が、築かれてきた。だが、大国の仲間入りをし、愈々、世界の指導者として、確固たる地位が、築かれたと思われた途端に、落とし穴に、足を踏み入れ、経済の停滞から、精神的な衝撃を、受けることとなり、折角築き上げられた、自信も、微塵に砕かれてしまった。だからか、再び、舶来崇拝の傾向は、強まっており、何から何まで、外から来るものを、優先しようとする動きは、当然のものと、見做されている。だが、こんな考えに、取り憑かれた人々は、深く考えることもせず、ただ、思い付きを並べるだけだ。だから、昨日と今日で、正反対な意見を、いとも容易く、述べるばかりか、何方も、必然の如く、自信満々で主張する。地位を得た人々が、こんな転向を、大した考えもなく、実行するのは、表面的な自信の裏付けが、皆無であることを、示しており、確固たる考えは、殆ど存在しないことを、示している。彼らの身勝手に、振り回されるのは、多くが、若者達であり、あちこちへと、走り回される。特に、教育現場の不安定は、著しいものがあり、昨日今日どころか、朝晩で、異なる話が、展開されることさえある。一方、舶来崇拝の心理は、ここでも、顕著に表れており、成長には、留学が不可欠との意見を、実しやかに論じている。自国の文化の上に、立つことの大切さは、彼らの思慮には、意識されず、それを、まるで、無用のことの如く、論じる態度には、何が大切か、見極めるだけの能力が、欠如していることが、強く感じられる。

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