神の使い、とされるのは、奈良に限ったことだが、ニホンジカは、長い期間、そんな考えに基づいて、保護されてきた。しかし、使いと思うのは、人間の勝手であり、野生であることに変わりはなく、畜生であることも、変わりがない。徐々に増える被害に、愈々重い腰を上げた。
増え続ける頭数に、神聖な存在という見方は、脇に追いやられたようだ。間引きが必要との考えは、人間の生活を、脅かす存在となった時に、当然と認められた。彼の地でも、こんな決断がなされる。他の地域では、今や、害獣として、駆除が真剣に検討され、実施されている。身勝手な人間の都合、という保護主義の主張は、ある意味、正しい部分もあろうが、この状況で、一方的な主張は、受け入れ難いものだ。よく伝えられるのは、山に咲くニッコウキスゲの花畑が、失われつつあることで、新芽を鹿が食い荒らす、とされる。信州の山々の景色も、人間による開発だけでなく、獣の仕業で、大きく変わったと言われる。その被害は、尾瀬の景色をも、大きく変えつつあるが、その犯人は、日光から移動した、鹿の群れなのだそうだ。ここも、多くの花が失われ、人間による保護が、追いつかない状況らしい。侵入を防ぐ為に、保護柵が設けられたが、毎冬には、雪を避ける為に、撤去するとのこと、これでは、手間が掛かり過ぎる。もう、元凶を、取り除くしか、方法が残っていないのかもしれない。この近くでも、早朝に、道路に鹿の死体が、転がっていた。様々な野生動物が、里に下りてくる、と伝えられるが、人間が、彼らの生息地を、侵しているから、との見解は、最近は、どうも通じにくくなっている。それより、数が増え、勢いを増し、感じなくなったことに、大きな問題が、あるのではないか。保護を、間違いと指摘するのは、憚られる部分があるが、そろそろ、里山の保全と同様に、共存の為の手立てを、講じねばならない。
東西の壁が、崩れ落ちた時、対抗する主義の凋落が、決定的なものとなった。だが、その後の成り行きは、社会を構成する為の、主義自体が、その形が失われつつあることを、示しているようだ。社会とか共産とか、全体主義に比べて、民主とか自由は、個人を対象としていたが。
個人より社会の利益を、という考え方が、投げ捨てられたのは、時代の趨勢だったのかもしれない。最も大きな要因は、社会を優先する為に、個人を蔑ろにし、抑圧的な制限が、強くかけられたことにある。社会を支えるのは、個人であるのに、それを、冷遇するのでは、皆が離れていく。その矛盾が、高まった時点で、崩壊が始まった。今や、ほんの一部にしか、残っていない制度は、どこも、独裁的で、不自由な環境を、作り出している。だが、その一方で、自由とか民主に関する主義を、通している国の問題も、今世紀に入ってから、拡大している。民主主義の基本である、多数決についても、その偏りが、強まるにつれ、決定に納得せず、反対運動を継続するだけでなく、別の決定を導こうと、画策する人々までもが、登場し始めた。コロコロと変わる、国の政策では、どこにも安定が起きず、大いなる無駄が、費やされていく。一見、自分の主張が通るように、見える制度に関しても、それが、均衡のとれたものであれば、さほど問題とはならないが、近年は、極端さが強まるばかりで、振り子の振れ幅も、大きくなり続ける。こうなると、安定は遠退き、利害も強まるから、どちらに転ぶかで、悲喜こもごも、という状態になる。海の向こうの大統領は、以前から、不見識が取り沙汰されていたが、暴言どころか、妄言までが、飛び出すようでは、国の形が、保てなくなるのも、すぐ先のことに思える。個人を中心にする主義とはいえ、皆が身勝手に動いたのでは、国という形は、崩れていくだろう。その考えに、取り憑かれた人間が、頂点に登ったことは、危うさが、頂に達したと、見るべきことなのだろうか。
科学の発展から、様々な便利が、生まれている。多くは、利益を産むもので、害を及ぼすことは、殆ど無い。だが、経済の成長と相俟って、利潤追求の勢いが、高まり過ぎた時代、様々な害が、世界に広がることとなった。公害と呼ばれる、社会現象が、それだ。
今では、その当時、警鐘を鳴らした、と伝えられる人物の、評価が高まっているが、冷静に眺めると、危険性を、過度に強調した為に、別の歪みを、産み出していた、とも考えられる。経済発展が、全てにおいて、人類に恩恵を、与えるものと、盲信する人々に、気付かせる為とはいえ、科学的な分析に基づく、有害との評価が、時に、悪者を際立たせる為に、根拠の無いままに、主張が先行していたのだ。一度、神格化してしまうと、こういう過ちを、無視する傾向は、主義主張が優先される、論法に屡々見られる。結果として、誤った方向に、改革を進め、別の過ちを、犯してしまう。安全・安心を、追い求める人の多くは、こんな失敗を、何度も犯す。その一方で、日常生活で、飛び付く便利さに、隠された思惑に、気付かぬままなのは、愚かさの表れ、と映る。旧式の携帯電話では、そんな問題に、直面することもないが、新型のものでは、アプリと称する、便利な道具が供給される。その中には、便利さの陰で、自らの生活が、一部始終晒されていることに、気付かぬ人が、居るようだ。支払い決済を、全て賄う仕組みや、支出の管理を、自動的に行う仕組み、これらには、利用者の購買傾向を、示すデータが、含まれている。大量のデータを収集し、その分析から、企業活動の動向を、調整しようとする動きは、高まり続けているが、最重要課題は、いかに集めるかである。そこに、こんな便利さが、現れた時、知らぬ間に、追跡されていることになるとは、利用者は、思いもよらなかっただろう。知らぬが仏、なのだろうが、これも、便利さの、闇の部分となる。
肝心なことは、倫理観なのだ。そんな思いで、報道を眺めた人は、おそらく、多くはないだろう。兎に角、防ぐ為には、罰を与え、権利を剥奪する。そんな考えが、社会全体に満ちる中、何度も起きる不正事件に、更なる圧力を、と望む声が、強まるだろう。
自分の力では、どうにもならないから、制限をかけてくれ、と叫ぶ人々は、どんな罰を与えても、心の中から生まれる、欲望を抑えることができない。性犯罪に手を染める、人々の中には、治療の手立てがなく、拘束するしか、止めさせることができない、と言われる人もいるらしい。監視を強め、行動制限をかけても、社会で暮らす限り、他人との接触を、妨げることはできない。そんな異常者と、同じとは言えないだろうが、不正に手を染める、研究者の欲望は、ある意味、抑えきれないものかもしれない。外的圧力ではなく、内的圧力が、原因だとしたら、その人物を、排除するしか、手立てはないだろう。そんなことを考えていると、別の意見が、飛び込んできた。不正への責任は、直接関与した人間に、限定されるべき、というものは、妥当と思えるものだが、その論旨には、寄稿者の自己中心的な考えが、反映されていると思えた。マスコミの責任を問う意見も、国外脱出をした当時に、その力を借りた人物からのものとなれば、身勝手と映る。その上に、所長の辞任を、問うべきではない、との意見の根拠に、例の割烹着の女性研究者の不正で、マスコミの騒ぎから、自殺者まで出たことを、引き合いに出すのは、論文を書いた人間の責任と、管理者責任の話を、すり替えたものであり、論理性の欠落が、露呈していた。こんな寄稿を、掲載する場を、管理する人間も、マスコミの端くれだろうが、その見識も、他と同様に、低いものと思える。
不正に手を染める、動機は何だろう。企業については、利潤追求が、大きな要因だが、全体としては、そうだとしても、個人の動機は、別の所にあるだろう。出世、昇進、あるいは、歩合制であれば、収入を増やそう、という考えも、あるのではないか。要は欲望なのだ。
そう考えると、別の世界でも、同じことが言えそうだ。研究不正が、頻繁に起きるのに対し、それを防止する対策を、組織が講じている。十分な整備が出来た、と管理者が、自負していた研究所で、起きた捏造事件は、所長の衝撃を隠せない、表情と共に、対策の難しさを、伝えていた。ただ、報道の中には、犯人の事情を、伝えるものがあり、まるで、社会情勢の問題が、事件を招いたが如く、論じていた。要するに、過度な圧力が、動機となった、と言いたいのだろうが、こんな理解では、防ぐどころか、蔓延を招き、暴露なければ、良いという考えが、広がるだけとなる。研究の基本は、知りたいという欲望であり、それを満たす為に、日々努力する。そこに、出世や昇進が、条件として入り込む余地は無く、純粋に、知識欲が、第一となるべきなのだ。ところが、2世紀ほど前から、研究が職業の一つとなり、それが、名誉欲や出世欲へと、結びつくこととなった。それが、結果として、今大きな社会問題となっている、研究不正や捏造へと、繋がったとされる。しかし、この考えでは、研究への意欲は、既に、無いものと見做され、企業活動のように、利潤追求こそが、最大の目的となる。そんな解釈を、施したい人々の、無知蒙昧ぶりは、打ち捨てて、別の要因を、考えなければ、この世界は荒れ果ててしまうだろう。知りたいという欲望を、満たすことを、評価する体制こそが、今必要とされるものなのではないか。
安全・安心を求める声は、強まり続けているように見える。これは、結局、その望みが、叶わぬままだから、なのだろう。日常において、心配を減らしたい、と望む声も、無くならない。でも、こちらは、安全と声高に訴えるのとは、少し違うように、感じられる。
大袈裟に、不安を口にして、様々な要求を、突き付けている人々が、どれ程、身の回りのことに、気をつけているのか、知りたいと思うことがある。当てはまるとは、限らないのだろうが、国や自治体の政策に、難題を突き付けたり、企業の責任を、厳しく追及する人々は、意外に、自身のことに、気をつけていないように思う。世間で、安全の為に、気をつけることが、示されている時に、この手の人々は、気をつけずとも、確保できる安全こそが、重要と訴えているからだ。その結果、一人、無謀な行動をして、他人に迷惑を、かける結果となる。仕組みが不完全だから、こんなことが、起きるとの言い訳に、周囲は、冷ややかな視線を送るだろう。大雪が予報され、不要不急の外出を控え、特に、車の運転には、気をつけるように、と、あれ程強調されていたのに、案の定、不適な装備しか、持たない車が、そこらじゅうで、立ち往生していた。高を括る、という、楽観的な考えも、あるだろうが、大丈夫という、勝手な判断や、誰かが、どうにかしてくれる、という依存体質などが、その要因となる場合もある。まず、自分から始める、という基本を忘れ、責任転嫁に、終始する人々に、発言権を与えることに、違和感を覚える身としては、やはり、という思いと共に、いい加減にしろ、という怒りも覚える。所詮、その程度の人間が、求めることに、耳を貸す必要が、本当にあるのか。自己責任こそ、こんな時に、必要な一言なのだろう。
無免許、の文字に、反応した人が、多かったのではないか。それこそ、編集者の思惑通り、注目を引く為の、戦術の一つ、とされる。だが、そこに、事実の裏付けは、殆どなかった。不祥事、との言葉と組み合わせ、印象を強める為の、過剰表現に、過ぎなかったのだ。
では、何が、問題なのか。外国に住めば、すぐに分かることだが、その経験がないと、この仕組みへの理解は、生まれない。国際免許を、利用する人も、最近は少なくなったが、居住する場合、その国の免許を、取得しなければならない、と書いてあることに、気付く人も少ない。だが、制度から見れば、当然のことで、今回も、同じ事情があったようだ。だが、事情に疎い庶民にとって、無免許の文字は、訓練も受けず、自己流で、という考えを、過ぎらせるものだったろう。それこそが、思惑の一つなのだ。誇張することで、深刻さを、更に強めよう、とする訳だ。あの業界では、常套手段の一つで、罪の意識は、殆ど無い。だが、事実を伝える、という役目からすれば、過誤と断じるべきことだ。こんな手法は、別の場面でも、多用されており、fake(嘘)などと、発言者からの反論が起きる。一部の人は、気付いていることだが、発言そのものは、確かに発せられたものだろう。だが、幾ら頻繁に、発せられるからと言っても、暴言しか、呟かない、という状況に、違和感を抱かざるを得ない。つまり、他人を傷つける言葉だけでなく、労わる発言や優しく語りかけるなど、相手を褒めたり、評価を高める言葉も、時に呟かれている、という事実は、意図的に伝えられていないのだ。こういう偏向に対し、喧嘩言葉で返した結果が、fakeとなるのだろう。問題は、強調しようという目的にあり、それが、偏りを招くことにある。それは、発言者自身にもあることで、そこが、標的となっている。お互い様なのだが、こちらで見る側は、彼らの思惑に、振り回されてはならない。