パンチの独り言

(1月29日〜2月4日)
(守銭奴、愚か者、手放し教育、水面下、卑賤、実質値上げ、科学の本質)



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2月4日(日)−科学の本質

 科学は苦手、と言う人は多い。難しい話を、聞かされても、理解できないから、というのが、理由のようだ。その一方で、科学で解明された、との一言で、購買意欲を、掻き立てられる。理解できなくても、断定されたのだから、確かなのだろう、という錯覚なのだが。
 話が難しくなるのは、論理と呼ばれる過程を、経る為なのだが、一段一段、確実に進む為には、それぞれを、十分に理解する必要が、出てくる。ところが、多くの場合、何処かで、途切れてしまい、その先は、霧の中へと導かれる。そんなことが、何度も起きると、次からは、難しい話より、一気に断定する話の方が、有り難いと思う。結果として、論理の飛躍があったとしても、断定であればいいのだから、騙されるのは、仕方がないのだ。厳しい冷え込みが続き、暖冬がもう何年もないのに、なぜ、温暖化と言われるのか、酷暑のことは、すっかり忘れ、冬の冷え込みだけを、問題視する。かといって、その仕組みを、科学で説明されても、何だか訳が解らない。この場合、一つ肝心なことを、忘れてはならない。説明する本人が、どういう説を選ぶかで、論理の構築は、如何様にもなる、ということだ。つまり、科学は、説明の道具に過ぎず、何をどう使うかは、人それぞれなのだ。正解がある、と信じる人にとって、これもまた、理解不能となる。新たな情報が得られると、正反対の結論が導かれたり、別の説明が施される。そこに、不信感が、生まれる理由がある。だが、科学とは、所詮、そういう存在なのだ。生物多様性の問題を、伝える為の手段として、毎年4万種の生物が、絶滅しているとの説があるが、これも、一方で、毎年何種の新種が、生まれているかを伝えないのでは、無意味との意見もある。見方の違い、と言えば、それまでだが、こんな調子の科学に対して、全面的な信頼は、困難だろう。だが、一方で、非論理的な断定を、鵜呑みにするのは、危険なことなのだ。

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2月3日(土)−実質値上げ

 小賢しい、と一笑に付すべきだろうか。とんでもない、これは体のいい、詐欺行為と呼ぶべきものだ、と断ずるべきだろうか。デフレの時代に、値上げは禁忌である、との判断を下すのは、まさに、世間体のみを気にする、この国の人々の、性なのかもしれない。
 質ではなく、価格で決める、という購買心理に対し、製造者が下せる、最大限の妥協は、中身を減らす、ということらしい。特に、箱や袋で売られる製品では、重量単位ではなく、個数単位が、価格を表すものとされ、それが貫かれる限り、中身を減らしても、値段が変わらねば、据え置きと見做される。こんな馬鹿げた論理を、実しやかに伝えることそ、詐欺行為の片棒を、担ぐものというべきだろう。本来なら、値上げと伝えて、何の問題も無い筈だが、ここでもまた、世間体を気にする輩は、解釈の問題、などと言い訳を繰り返す。単位当たり、との設定に、大きな誤りがある、と指摘するだけで、解釈を引き合いに出す必要は、消し飛んでしまう。それくらい危うい論理を、大上段に掲げる報道に、鉄槌を下すべきだろう。これを、隠れて行えば、それこそ、詐欺行為となる。だからこそ、減量を発表し、苦肉の策と説明する。そんな事情は、消費者には、関係のないものだ。にも拘らず、それが恰も、必然のことのように、伝える。風見鶏のように、あちこち眺めながら、無難な態度を示す、今の報道関係に、有り勝ちな判断だろう。だが、製造者の小賢しさと共に、消費者の不見識を、強調する必要を、彼らは感じていない。高品質と高価格は、当然の関係、と見做すことにも、弱者の味方を自負する人々には、まるで、金持ちにすり寄るような態度、と映るらしく、忌み嫌われる。こんなことでは、貧困からの脱却は、永遠に実らず、弱者は、弱い立場に据え置かれる。実は、それこそが、彼らの思惑なのだ、とは、捻くれた見方なのだろうか。

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2月2日(金)−卑賤

 何故、施しを待つのか。まるで、乞食ではないか、と言われたら、心外だと言い返すに、違いないのだろうが、実態は、やはり、同類と見做すべきだろう。これが、差別用語だとしても、他との区別に、重要なものだから、もっと使うべきではないか、蔑みも込めて。
 補助金や支援を、得ようと躍起になる人々は、当然の権利と、考えているのだろう。でも、国の財政を思うと、何処にその原資があるのか、と思えてくる。特に、税収を増やすことなく、無邪気に、支出を減らすことばかり、主張する中では、支援に回す金など、捻出できる筈が無い。だが、現実には、更なる支援を、求める声が高まるばかりで、火の車の財政に、誰も責任を負おうとしない。子供達に、借金を残すな、との掛け声も、こういう時には、静まるらしく、何の懸念も抱かずに、バラマキを実施する。こんな状況が、長引く不況の中、続いてきた訳で、打開策は見出せなかったが、いつの間にか、景気が回復している、となる。だから、今こそ支援を、というのは、あまりにも筋違いだろう。無い時に、強く要求していたものが、あるのだから、当然の権利として、というのは、身勝手過ぎる論理だ。これは、つまり、金をせびる、恐喝犯の如き者で、相手の懐に、有ろうが無かろうが、毟り取ろうとするだけだ。国を支えるのは、自分も含めた国民であり、それなしに、成立するものは無い。この原則を破り、無心に走るのは、下等な人間の、貧しい心根だろう。普段の生活でも、こんな調子の人間が、何か事を起こそうとすると、まず、資金調達に走る。ただ、確かな見通しがあれば、問題は、起きないだろうが、まずは、計画より資金、となる人間に、その能力は無い。この手の人は、たとえ、予想外に順調に、事が運んだとしても、いつまでも支援を募る。自立化なる言葉が、度々使われるのも、その卑しさを、戒める為でもあるのだろう。

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2月1日(木)−水面下

 閉塞感が、巷に溢れていた。が、今はどうか。相場が上昇を続け、基盤が確かなものになるにつれ、皆の気分も、変わりつつある。だが、庶民の懐は、依然として、満たされておらず、要求の声は、収まる気配を見せない。まだ足らない、とでも言うかのように。
 確かに、何をするにつけ、先立つものが、必要となる。だから、動き始める為、どころか、準備の段階から、支援が必要と訴える。多くの人は、当然と思うらしいが、実際に、事を成した経験のある人は、全く違う考えを持つ。準備段階では、実像が見えず、新たな試みが、どんな効果を産むのか、明確にならない。そこで、支援を頼んでも、多くは、芳しい反応を示さず、徒労に終わることが、殆どとなる。だから、一気呵成に進む為には、少し時間が掛かっても、水面下で準備を進め、ある程度の形が、見え始めてから、周囲に話を進めるのだ。それにより、準備段階では、不明確だったものも、ある程度の形が作られ、実態を示せるだけでなく、将来像も、見え易くすることができる。それが、魅力的に映れば、積極的な支援が得られ、計画を、愈々実行に移す段階で、一気に加速することも、可能となる。成功事例の多くは、こんな経緯を辿るが、未経験の人や、何度も挫折した人は、始めから、支援を要求し、絵空事を、実しやかに伝えようとする。だが、所詮、絵に描いた餅は、食べられず、支援者は、空腹を強いられる。その上、十分な検証のないままに、見切り発車すれば、変更を余儀なくされ、ついには、失敗の憂き目に遭ってしまう。その原因が、どこにあるのか、と検証する人も居るが、始め方が、間違っていたことに、気付く人は少ない。つまり、支援が不十分だったとか、計画が悪かったとか、そんなことでは、同じ過ちを、繰り返すだけだ。隗より始めよ、とは、身近から、という意味だが、それと似て、まず支援を募るのではなく、形作ることから、という意味にも、繋がるのではないか。

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1月31日(水)−手放し教育

 過剰反応から、過度な制限を加えるのは、業界の荒廃の表れ、と思える。だが、その荒廃ぶりは、これに留まらず、以前から続く、独創的人材の育成、にも表れている。他人に無い長所を、伸ばす為の手法、と言われたものは、何の手も掛けず、単なる放置になってしまった。
 その結果、手を掛けねば、次のきっかけを、掴むことができない子供達が、路頭に迷うこととなった。積極性が、尊重される中では、消極的な意見は、殆ど無視される。助けを求める声も、新たな提案と異なり、足踏みを続けさせるから、教える側からは、邪魔なものと受け取られ、無視されることになる。教室内で、一体、どの程度の子供が、自分なりの考えで、自らの進むべき道を、見出せるのか、何の勝算もないままに、掛け声だけが大きくなり、無視とか放置が、横行することとなる。余計な手出しは、無用との考えも、こういう勢いを、強めることとなり、何もできない子供の数を、急激に増加させた。ただ、時代の趨勢で、子供の能力低下が、問題視される中では、自分達の責任は、別の所にある、と勝手に信じる輩が、増えてしまったようだ。自らの責任で、誤った進路を選び、その認識を持たぬまま、暴走を続けた結果、状況を更に悪化させた、という点に、猛省を促すべきだが、肝心の連中は、知らぬ存ぜぬを決め込む。何とも情けない状況なのだ。教えるべきことを、教えぬままに、禁じるばかりでは、進むべき方向は、見えてこない。こんな悩みを抱く若者に、「君の自由に」などと呼びかけるのは、まさに、愚の骨頂というべきだろう。自主自立が、重要な事柄であるのは、当然のことだが、立つ為に必要な力を、授けぬままに、放り出すのは、無責任に違いない。こんなことが、横行しているのが、現場の状況だとしたら、別の圧力をかけてでも、昔のように、教える姿勢を、取り戻させる必要がある。

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1月30日(火)−愚か者

 不正が発覚する度に、厳しい制限が掛けられる。法律上の制限であれば、犯罪防止の為にも、必要なものと、解釈されるだろうが、教育上の制限については、どうだろう。盗用や剽窃など、職業上の不正が、次々に発覚したことから、現場での教え方に、大きな変化が起きた。
 話題となった、女性研究者は、その後、研究の大部分が、捏造だった、と結論付けられたが、その過程で、彼女の学位論文に、大規模な盗用があった、と伝えられた。ある研究所の、ウェブサイトにある記述を、ほぼそのままに、写し取っていた、というのだ。これだけでなく、報道関係でも、多くの盗用が、発覚しており、職業倫理として、考えねばならない、とされる。そこから、教育現場において、盗用や剽窃を、全面的に禁止する動きが、起き始めた。未然に防ぐには、根本から改める必要がある、ということなのだろうが、こんな誤謬が、罷り通るのも、あの世界に巣食う、見識も能力も無い、劣悪な人間が、力を持つからなのだ。人間の成長過程において、模倣が中核となるのは、誰もが認める所であり、言語や運動の習得には、誰かの真似が、不可欠とされている。基本的な能力においても、その状況にあるのに、より高度な能力の獲得に、模倣が必要となるのは、当然だろう。そこに、あらゆる真似を、禁ずる措置に出る。この非常識に、何故、異論が出ないのか、それは、本質を理解せず、上部のみを繕うことに、精を出す人間が、要職に就き、正論を排除しているからだ。愚の骨頂とも言える行為を、さも当然の如く、主張する。その傲慢さを、切り捨てねば、人材育成は、滞ってしまう。先日の新聞に、小さく掲載された記事には、歴史小説の書き手が、先人の模倣により、人気を博する程の、物語を書くことができた、と記されていた。小説の対象、登場人物などの案を編み出す上で、模倣が重要だったとの意見には、初学者とは異なる事情があるものの、その重要性は、誰にも通用するものだ。現場の暴走を、食い止めねばならない。

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1月29日(月)−守銭奴

 老後の不安、高齢化が顕著になるにつれ、自らの将来に、不安を抱く人の数が、急速に増えている、と言われる。寿命が延び、一握りしか居なかった、超高齢者の数も、驚く程増えている。だから、自分も、その範疇に、と考えるのだが、それにしても、少し早過ぎないか。
 画面に出てくる、被害者と紹介される人物は、皆二十代、と見えた。仮想通貨、と呼ばれる代物が、登場した頃、一部の若者を除き、多くは、訝しげな表情を、見せたものだ。初めて、事件が起きた時も、失われた資産の大きさに、驚きの声が、上がるのと同時に、やはり、との思いが広がった。国が関わるべきことが、保証のない状況で、ましてや、仮想空間という、実像のない世界で、遣り取りがなされるのでは、こんな犯罪が、起きるのも止む無し、と受け取ったのだ。だが、その後の展開は、老いた人々の心配を他所に、雨後の筍の如く、次々に、新種のものが登場し、それぞれに、顧客を増やしていった。そこには、単に、通貨としての利用だけでなく、資産として、また、投資の対象としての、客が大部分だった。特に、最近の価値の高騰は、当然の如く、投機の対象としての、価値を高めることに繋がり、多くの人が、資金を注ぎ込んでいる。そこに、今回の事件が起き、安全性の問題が、指摘されるが、所詮、保証のない世界、と見るべきと思う。更に、この騒ぎの最中に、展開される人間模様に、人の持つ卑しさ、欲に駆られた餓鬼の姿、を見る気がする。はじめは、損害の大きさに驚き、失った資金に、呆然としていたが、運営会社が、保証を表明した途端に、豹変する姿に、儲け話に飛び付いた、守銭奴等の、本性を見せつけられる、気がしてきた。要するに、儲けたいだけで、他人の不幸など、目に入らない。なおかつ、他人を貶めることに、何の疑問を抱かない。こんな身勝手な連中に、救済など無用で、勝手に堕ちていけばいい、と思う。

(since 2002/4/3)