パンチの独り言

(2月5日〜2月11日)
(盲従、若年化、犯人探し、将来像、耳を塞ぐ、伝達力、隣同士)



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2月11日(日)−隣同士

 約束を守ることより、自分が得になる事を、優先する。人間関係であれば、崩壊の危機に瀕する、身勝手な行動、と言われる。だが、国の間では、どうだろうか。人間関係では、個々人の間の、特定の関係が、問題となるが、国という集団では、誰に問題があるのか、見えない。
 この気楽さからか、あるいは、同じ国の人間でも、他の連中が、結んだ約束は、反故にしても、構わないとでも、言いたいのだろうか。隣の国との関係は、交流が始まった頃から、ずっと続いてきたものだが、その間には、明確な溝が、存在すると言われる。互いの都合で、様々に変化する中では、約束は反故にされ、関係は、何度も悪化し、冷え切っていた。だが、すぐ近くに居ることは、隣国として、避けがたいものであり、侵略の対象となったり、競合の相手となってきた。一方的な関係は、長くは続かず、相互関係として、どこに立ち位置を、定めるかは、時代ごとに、目まぐるしく変化してきた。だからと言って、昨日約束したことを、自分勝手に、破ることが、許される訳ではない。国内事情を、理由として、変更を提案したとしても、同じ背景で、初めの約束が、なされたのだから、やはり、勝手な都合と、断じられるのが、関の山だろう。元々、北と南に分断された時も、大国の都合が、押し付けられた結果だったが、その先の豹変ぶりには、ある意味、国民性の反映がある、と言えそうに思える。その後、二つの国の情勢は、大きく変貌したが、依然として、勝手な都合を、相手に押し付ける姿勢に、変化はない。こんな状況では、まともに相手をするのは、無駄としか映らないが、脅威の存在となり、暴走が著しくなると、何かしらの働きかけが、必要となるのだ。だが、その中で、民族が同じだからと、安易な合意を、目指す姿勢には、他国を騙してきた歴史を、見る気がしてくる。相互理解は、いつの間にか、相互嫌悪へと、戻るように。

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2月10日(土)−伝達力

 問題は、捉えられているのに、原因が定かでない。こんな話は、どこにでもあるが、この状況に陥っているのは、問題の深刻さを、表しており、喫緊の課題と、見做されているのだ。そんな状態で、できることは少なく、大した効果も、見込めないことが、多い。
 原因も見えず、対策も見当たらず、では、何もできない、と思われるかもしれないが、放置すれば、悪化の一途を、辿るしかない。となれば、思いつく限りを、試してみるしかない。だが、動きはあるものの、何も変わらず、好転の兆しは、見られぬままとなる。解決に走る現場は、疲弊が募るだけで、勢いを取り戻すことも、難しい。何の話かと、訝る人が多いだろう。これは、意思疎通のことであり、自分の考えを、相手に伝えたり、相手の考えを、理解したりする、能力の低下が、著しいという状況を、指している。コミュニケーション能力などと、紹介されることが多いが、それが、実際に、何を意味するのかは、明確にされていない。そんな状態で、山積する問題が、紹介されるが、実際には、何がどう問題となっているか、定かでないことが多いのだ。意見を表明する為に、発言したり、書き記したり、それぞれに、媒体を用いて、表現しようとする。だが、何を言いたいのか、全く分からず、何が書いてあるのか、読み解くことができない。言語表現の不足は、様々に指摘されてきたが、その原因は、見えないままである。不適切な表現を、指摘したとしても、それを、どう直せばいいのか、分からぬ人々には、何の役にも立たない。正解が、どうあるべきか、示されぬまま、厳しい指摘が、浴びせられるのだ。これ程辛い状況は、ないと思えるが、大多数がそうだとすれば、心配する必要もない、となるかもしれない。こんな時代が、長く続いたからか、最近では、教える側にも、力量不足や誤りが、目立ち始めた。これも、悪化の証、なのだろう。

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2月9日(金)−耳を塞ぐ

 泡銭、だったのだろうか。金利上昇を、きっかけとした、相場の下落は、その後、乱高下を続けるだけでなく、これまでの利益を、一気に吐き出すものとなった。業績が好調だから、との解釈から、弾けることはなく、安定上昇が、約束されるとの話は、破裂したらしい。
 投資家心理とは、所詮、この程度のものだろう。儲けが膨らむに従い、気が大きくなり、怖いもの知らず、となる。その結果、過剰な投資に、手を出したり、危険性の高いものに、目が向く。これは、負け続けている時にも、起きる話だが、心理としては、正反対にも関わらず、行動様式が、似てくることに、面白さがある。勝ち続けていれば、次も勝てる、と思う心理と、負け続けたのだから、次こそは、勝ちに転じる筈、と思う心理には、連続性の有無という、大きな違いが、あるにも関わらず、同じ思考回路が、働いているように、思える。では、これだけの下げの中、どう動くのが、良いのだろうか。毎度お馴染みのことだが、絶対的な戦略が、ある訳ではない。押し目買いとか、損切りしての乗り換えとか、様々に、策を講じたとしても、下げ続ければ、損失が膨らむだけだ。塩漬けとは、じっと我慢を決めることで、含み損が膨らむ訳だが、現金化しなければ、所詮、数字の上だけのこと。心理的には、かなりの苦しみを伴うが、焦って動き回っても、同じか、より悪い結果が出るのなら、放置するのも、手の一つだろう。空売りも、下げのきっかけの時には、大きな利益を産むが、いつ、底がやってくるか、見えない中では、別の危険が生じる。手当ての速さが、結果の違いに結びつくのは、当然のことだが、誰もが、日々の取引を、行っている訳ではない。だから、急な変化には、うまく対応できない。一方、日々の取引を、行う為には、確かな戦略を、用意せねばならない。何れにしても、難しいのなら、聞こえぬふりも、手の一つとなるのだ。

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2月8日(木)−将来像

 将来への不安、と言っても、高齢者や熟年層のものではなく、若者達が、抱いているものだ。閉塞感が、社会に蔓延するに従い、徐々に、広がり始めたものが、今では、ごく当たり前のものと、なっている。先が見えず、目標も定まらない、という状況のようだ。
 これから、道を切り開こうとする人にとって、先を進む人々の動向は、何かと気になるものだ。先人の進む道を、追いかけることは、未開の地を、切り開くのと違い、ある程度の安心が、得られるからだろう。だが、停滞、閉塞、衰退、といった言葉が、並び始めてからは、少しずつ事情が、変化してきた。失敗を繰り返さぬ、とか、選択を誤らない、とか、そんな意見が、度々聞かれるように、なってきたのだ。それほど、模範となるものや、模倣の対象となるものは、自らの将来像を、描く上で、重要なものなのだ。だが、高度成長が続いた中では、全く違う状況が、存在していたことを、多くの人は、忘れてしまっている。生活環境が、激変するだけでなく、将来設計においても、状況が変化する中では、身近な人間に、自分の将来を、重ねることは、ほぼ不可能となっていた。社会全体に、安定した職業を、求める中では、手に職は、逆に嫌われる存在となり、特に、伝統工芸などの職人は、跡継ぎが、見つからない事態に、陥っていた。あの時代に、途絶えた伝統は、数え切れぬ程にあり、親子の断絶が、その勢いを強めていた。だが、その後の展開は、予想外のものとなり、途絶えたものが、復活したり、細々と続いたものが、勢いを取り戻してきた。手に職が、重視される中では、身近な存在こそが、模倣の対象となり、描くべき将来像となっている。こうなると、伝えるべきものがあれば、いいのだが、一方で、別の展開を考えると、将来像が、見当たらないとなる。特に、憧れの存在、となると、完成したものだけに、模倣対象とは、なりにくいのだ。かと言って、伝記は、もう流行らないのかもしれない。

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2月7日(水)−犯人探し

 犯人探しが、また始まった。直後は、金利の上昇が、きっかけとなった、と言われたが、その後の、過剰としか思えぬ反応は、それだけでは、説明しきれぬものだった。そこに登場したのが、ここ数年、特に、問題視され続けている、取引の自動化である。これこそ犯人だ、と。
 良きにつけ悪しきにつけ、その原因を追求するのが、経済の世界での、やり方である。学者や専門家と呼ばれる人々は、日々、施すべき説明を、編み出している。だが、その目的は、どこにあるのか、実は、よくわかっていない。誰に説明したいのか、その目的は何か、疑問が浮かぶが、慌ただしく説明し続ける人に、問い掛ける暇は見出せない。結論を導き出す為の、論理を構築することが、学問と認められる為の、大切な一歩となるが、これが満足できない、この世界は、いつまで経っても、学問の成立が起きないのだ。今回の出来事も、説明としては、成り立つものの、そこから、新たに生まれるものは、何も無い。自動取引を、犯人と断定したとて、そこに、問題を解決する糸口は、見出せていない。条件と選択の組み合わせは、実は、想定されたものしかなく、その埒外に、出てしまえば、制御不能に陥る。その原因を、追求しようとする動きは、おそらく、起きないだろう。小さな動きの中で、収益を上げる為の、条件と選択では、動きが大きくなると、正反対の結果に繋がる。それが原因、と断じても、それは、考えた人間の、無能を露呈するだけで、馬鹿げたものにしかならない。その上、それまでの小さな動きでは、確かな収益を上げ、その恩恵に浴していたのだから、そんなものを否定するのは、お門違い、でしかない。人間と違い、機械は、決められた作業を、躊躇なく行う。それが、細かな動きに、素早く対応する為に、不可欠であれば、切り捨ててはいけない。柔軟な対応力を、備えさせるのは、仕組みを作る人間なのだ。犯人探しより、何をさせるかを、考えるべきなのだ。

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2月6日(火)−若年化

 不正は、企業経営だけでなく、科学の世界をも、蝕んでいる。経営は、社会に出てから、取り組むべきことだから、それから考えればいい、のかもしれないが、科学の世界は、まだ、教えを受けている中で、それに接することとなり、そこでは、不正を防ぐ手立てを、講じるべきと言われる。
 企業倫理から、技術者倫理まで、企業の中での不正を、防ぐ為の手立ては、就職後では、遅すぎると指摘され、いつ頃からか、その役目を、大学が負わされている。利潤追求の雰囲気の中では、それを抑えてでも、追い求めるべき倫理の重要性を、指摘することは難しい、と言われ、その前に授けておこう、という考えなのだろう。だが、現実を見ずに、机上のものを、与えられたとしても、当人達は、実感が得られず、肝心なことは、すぐに忘れ去られ、適用すべき時には、欠片さえ残っていない。それでも、施したとの認識があれば、携わった側は、一息つけるのだろう。これと似た現象は、科学の世界にも、起き始めているようだ。早期教育により、未来の科学者を、育てようとする動きは、政府を挙げて、熱心に始められているが、その中にまで、不正の問題に、取り組むべき義務が、課せられ始めた。幼い子供達でも、研究に取り組むのなら、そこで不正に手を染めることがないように、未然に防ぐべく、教育を施さねばならない、という論理なのだろう。人を出し抜こうとさせながら、そこで汚い手は使わせない、というのは、言うは容易く、行うは難し、だろう。倫理観の涵養、を目的とするなら、どんなものでも、まずは、幼な子から、となるのなら、それこそ、家庭教育こそが、最大の要因となる。そこに手を伸ばすかは、不明だが、このままなら、手を伸ばさぬ限り、本質的な変化は、望めないだろう。それができないなら、もう、若い頃から、などと言わぬことだ。

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2月5日(月)−盲従

 実は、科学を理解する必要は、無い。そう思う人が、殆どではないか。日々の生活で、様々に便利な道具に、触れることで、豊かな生活を、送っている人は多い。が、その殆どは、何故、そんな便利が、可能となったのか、理解していない。せずとも、手に入るのだから。
 ならば、何の理解も、しなくていいのか。実は、そうなのかもしれない。今、これを書き込む仕組みも、入力方法さえ、知ってしまえば、その後の処理について、知らずとも、何の問題も起きない。台所に立ち、調理をする段になって、電磁調理器の仕組みを、知っておく必要はない。ただ、使用可能な器具を、知っておけばいいだけだ。同じことが、電子レンジにも当てはまる。何やら、箱の中で起きているが、どんな仕組みで、加熱されるのか、知る必要はない。こんな調子で、上げていけば、日々の便利生活で、それを支える道具の殆どが、どういう仕組みで動くのか、知らなくても、使えるようになっている。では、理解できなくても、困ることはないのか。この疑問に答えるには、少し条件を整える必要がある。何も考えずに、日々の便利さを、享受している一方で、不安を口にする人が居る。その大部分は、危険が存在することによるものだが、それを避ける為の手段に、科学の理解が、必要となることが多い。そこで、大いなる誤解が、生じ始める。危険が起きる原因を、理解する為には、ある程度の知識が必要で、そこに科学への理解が、不可欠となる。誰かの説明が、正しいかどうかの判断にも、理解が必要だが、巷で話題となる不安の多くは、無理解なままでの、恐怖に駆られた結果、と思える。不安は、心理から来るものだから、それを揺さぶる動きに、対応する為には、冷静な判断の元となる、確かな知識が必要だ。だが、現実には、そんなものを持たず、勝手な論理を信じ込み、不安を募らせる。どうせ、理解できないのなら、全体の進む方向に、従っておけばいい。それをせずに、理由もなく、心配するのは、勝手過ぎる。

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