育成を謳いながら、手法の開発に、目を奪われ、それにあたる人材の、開拓に目を向けない。現在の荒廃は、成長が止まり、衰退が始まった頃から、促成栽培を目指すような、焦りに満ちた、空気がもたらしたものかもしれない。特に、教育分野では、長い目が必要なのだ。
元々は、百年はかかる、と言われてきた、教育水準の向上は、維新後の急成長により、違う見方が、定着してきた。だが、あの時は、長く続いた鎖国の中で、実は、綿々と続けられてきた、寺子屋制度による、基礎教育が、基盤を築いていたから、そこに、最後の積み木を、おけば済んだから、との解釈もある。そんな成功から、教育に携わる人々の心には、自信が漲っていた。しかし、一度、衰退が始まると、基盤を支える筈の人々が、自信を失うこととなり、その回復には、長い時間が、必要となっていた。その中で、猫の目の如く、コロコロと変わる政策に、振り回された教育界は、次代を担う人材を、育成する為と称して、無駄な方針変更を、繰り返すこととなり、その任に当たる人々は、成果も上げられず、責任ばかりが、追及される中で、意欲さえも失い始めた。実際には、責任を負わされる側の、人材の育成が、思うようにならず、免許更新の導入などという、小手先の政策に、更に、混乱を極めることとなった。何故、ここまで、教育が荒廃してしまったのか。当時の、過信にも似た自信は、何処に消し飛んだのか。答えを、見出すことは、容易ではない。また、答えを見つけても、何の解決にもならない。では、盲打ちのように、新手法を、繰り出すことで、教育は、昔日の栄光を、取り戻すことができるのか。これもまた、無駄玉に過ぎない。原点に立ち戻り、その年代に、必要な教育を、施すことこそが、彼らに課せられた、任務なのではないか。
人材育成は、喫緊の課題とされる。が、それが、声高に伝えられるのは、満足できる結果が、得られていない、証左に違いない。国家の繁栄を、目指す中で、長く続いた鎖国から、如何に回復するかが、重要となっていた時代も、まさに、最大の課題、とされていた。
では、その時代、どんなことが、行われていたのか。一部の要人を、海外に派遣したのは、勿論だが、支えるのに、必要となる数を、満たす為には、不十分なのは、明らかだった。底上げ、などと呼ばれる、人材育成では、その為の仕組みを、築き上げる必要がある。その為の、第一歩となったのは、先進国から、教師を招くことだった。お雇い外国人教師、などと呼ばれた人々は、まず、教育の水準を、高める為に、必要な一歩を記した。だが、そこから先こそが、この国の、その後の成長を、もたらす歩みとなった。初期に、外国人から教育を受けた人々は、それを終えると、更に研鑽を積む為に、海外に向かったのだ。自国の教育水準を、高める為には、借り物の仕組みだけでは、不十分との判断か、あるいは、自分達で築き上げる、必要があるとの判断か、見方は様々だろうが、兎に角、そんな形で進められた、人材育成の政策は、母語での高等教育を、実現するという、画期的な発展を、遂げてきた。では、今必要なのは、何だろうか。教師は、十分な数居り、後は教え方の問題、と見做したからか、小学校からの英語教育など、教育の早期化が、次々に行われている。だが、猫の目の如く、目紛しく変化する、教育行政では、何を目指し、どう振る舞うかが、確証のないまま、実施されるだけで、成果は、検証されぬままに、次の一手が、進められる。実は、方法ばかり、目が向けられるが、肝心な教師の能力に、目が向けられず、忙しさばかりに、注目が集まる。だが、英語教育で、英会話を重視するなら、それにあたる教師に、海外研修を義務付けるなど、あの頃と同じやり方も、あり得るのではないか。
正論が、通じ難い時代である。皆が、施しを欲し、財源には、目もくれない。誰もが、得られるものに、群がり、毟り取られるものには、嫌悪感を示す。だが、金は天下の回りもの、一方的な流れを、期待していても、社会秩序は、保たれない。損して得とれ、も通用しない。
国が、繁栄を続ける為、と称して、見込みのありそうな事業に、補助金を与える仕組みは、数多ある。成長期には、成功への道として、支給を求め、新しい事業へと、参入していた。その多くは、事業開拓だけでなく、収益を上げ、国の繁栄を支える産業を、創出することへと、結びついていった。ところが、成長に陰りが見え始め、新規開拓も、成功への道とは、繋がらなくなると、様相は一変し始める。頂けるなら、補助金を受け取ろうと、申請するだけでなく、その後も、継続的に、受給を求める姿勢が、強まったのだ。条件をつけずとも、補助金を受給した後、産業創出を目指す姿勢が、示された時代と異なり、こういう状況に落ち込むと、皆が挙って、貰えるものを、と求め始める。そこに、条件が導入されるのは、当然のことだが、その厳しさの度合いにより、申請数が、大きく変動する、と言われる。試したいが、失敗は、困るという事情が、そんな判断へと繋がるが、この問題を、解決することは、かなり難しい。本来なら、試させる為のもので、失敗を恐れずに、と期待したい所だが、施しを待つだけの相手では、その排除をせねばならず、厳しい制限は、本来の対象さえも、排除することへと繋がる。これと同じ状況が、収益を上げる訳ではない、組織を対象とした補助金においても、起き始めている。こちらは、新たな試みを、行う為に必要となる、資金提供であり、それが軌道に乗れば、後は、自立化の形で、自己資金で、継続することが、条件となる。試み自体も、施しではなく、利益に結びつくものであれば、組織にとっての利益が、見えてこなければ、継続できない。補助金頼みの事業は、所詮、施しであり、一方的で終わってしまう。
浮かれた頭に、冷水が浴びせられた。上げ続ける相場に、笑いが止まらぬ様子で、膨らむ含み益に、投資拡大の気持ちは、大きくなり続ける。だが、何がきっかけに、なるのか解らぬのが、この世界の恐ろしさ、あっという間に、奈落の底へと、導かれてしまった。
まだ、それでも、儲けが、吐き出されただけで、損失を、抱えるところまでは、至っていない。きっかけを与えた、海の向こうの相場は、徐々に、勢いを取り戻し始め、まだ、不安定な動きが、続くものの、上に向かう勢いを、見せ始めている。それに対して、こちら側は、依然として、闇の中に居る気分で、戻る気配は、殆ど見えていない。何が、この違いを、産んでいるのだろうか。一つには、国民性と括られる、物事への考え方の違いが、あるのだろう。楽観か、悲観か、というだけでなく、分析に基づく楽観と、根拠のない悲観、の違いによるものだろう。だから、外から、きっかけが与えられると、慌てふためき、悲観的な筋書きが、示されてしまう。それに対して、騒動は起きるものの、一過的なものとなり、冷静な見方が、示されるに従い、徐々に、元通りに戻ることとなる。ここに、海を挟んだ、あちらとこちらの違いが、歴然と示されている、ように感じられる。では、このまま、低迷が続くのだろうか。流石に、企業業績が、好転した上で、それを支えるべき、株価が低迷するのでは、資本主義の根幹が、揺らいでしまう。悲観的な相場では、何かしらの、きっかけが必要となるだろうが、長い目で見れば、戻るのは当然となる。ただ、元通りなのか、どこかで、頭打ちになるのか、それについては、不鮮明だろう。下落前の水準が、上げ過ぎだったのか、妥当な値だったのか、改めて、評価し直す必要があるだろう。
特別な才能を、発揮する必要がある場で、更に特殊な才能が、要求されることは、競い合いの世界では、当然のことだろう。明らかな差が、他との間で、あるならば、普段通りのままで、問題なく、勝つことができるが、僅差の関係では、別の才能の差が、勝敗を決める。
そんな世界では、競技そのものの訓練だけでなく、精神力を含めた、様々な訓練が、施されることがある。それによって、同程度の集団から、抜け出せるのなら、勝負事では、決定的な力と、受け止められる。こんな状況が、画面に映し出されると、多くの人々は、その力を得た人間に、賞賛の拍手を送るだろう。そんな日々が、続く中で、日常は、全く別の姿を、示している。教育の現場では、ある水準を超えた人間を、社会に送り出す為、試験や審査を、実施している。出ること自体が、資格の一つとなる場合もあれば、それに加えて、国家試験等を、課している場合もある。何れにしても、競い合いの世界とは違い、水準を超えているかどうか、が試される訳だ。それを、上回ることが、課題となっているが、中には、それまでの微温湯から、抜け出せず、努力を怠り、敗れ去る人もいる。元々、能力がなかったから、と片付けるのなら、それでおしまいなのだが、本人の中では、それまで同様に、何かしらの救済を受けよう、という気持ちが、働くようだ。怠慢は棚に上げ、努力不足には、言い訳を繰り返す。それでも、周囲の配慮を、期待する訳で、それを得る為の、条件を与えてくれ、と勝手なことを思う。流石に、口に出すことはなくとも、態度には、その様子がありありと現れ、助けを願う、表情を示す。本来なら、点数に制限をかける、試験を使えば、こんな輩の相手を、しなくても済むのだが、審査という形では、数字には現れぬ、不明確な水準が、要求される。そこに、付け込む隙を、見出した人間は、兎に角、救いを求めるのだ。こんな人間が、社会に出て、どんな役割を果たすのか、審査する側には、心配が尽きないだろう。
緊張に、押し潰される姿に、応援の声が、被さってくる。どう感じるかは、人それぞれだが、国民性を、殊更に強調する意見では、仕方無し、と結論付けられる。その中では、一発勝負より、何度も選抜が繰り返される、やり方での、不調が、伝えられる。
緊張がある中でも、一回の試みであれば、時に、好結果が得られる。だが、予選、準々決勝、準決勝、決勝と続く、連戦の中では、徐々に調子を上げる必要があり、それを、緊張が高まる中で、実行せねばならない。この仕組みを、苦手とするのは、国民性の表れ、と見る向きもあるが、本当に、そうなのだろうか。どこかで失敗してしまう人は、確かに、調子を上げるどころか、整えることさえ、思うようにいかず、何やら、言い訳のような言葉を、漏らす姿が映る。こんな時に、必ず取り上げられるのは、反対の季節に、活躍が伝えられる、体操の選手達だろう。以前なら、決められた手順で、演技を、如何に確実に行うか、が戦いの一つだったが、今では、自由な構成の中で、如何に困難な演技を、確実に行うかが、問われている。始まる前の緊張は、今、画面で伝えられる選手達と、同じ程度あるだろうし、感じられる圧力も、尋常ではないだろう。その中で、非常に困難と言われる演技を、確実に行うことが、求められている。伝統が、それを、達成させている、との意見もあろうが、国民性と呼ばれる魔物は、それをも上回る存在ではないか。にも拘わらず、あれ程の能力を、発揮できるのは、何が違うのだろう。同じように、演技で見せる競技では、精神力が、問題とされる。今回も、実力を発揮できず、最低の演技を、披露してしまった選手が、何やら、意味不明な発言を、繰り返していた。本人の中では、実力不足、文字通り、下手くそだから、というのが、原因とわかっているのに、あんな言葉を並べることに、国民性の表れ、を感じさせられる。
一週間、生きた心地が、しなかったのではないか。相場の乱高下に、ついこの間までは、好調な上げに、笑いが止まらなかった人々が、損失を抑え切れず、苦虫を、噛み潰したような、表情を隠せずにいた。こうなると、手の施し様は、無いとしか思えなくなる。
特に、長期保有の投資家にとって、これまでの含み益を、吐き出すような下げの勢いに、じっと我慢を、決め込むしか、手立ては浮かばない。一方、ここ数年、その勢いを増してきた、日々の取引を、繰り返す人々には、上げ下げの勢いに、如何に乗るかが、肝心となる。だが、単なる上下ではなく、全体として、下げの幅が、広がる中では、細かな売買を、繰り返しても、損失が膨らむだけで、終わったのではないか。焦れば、焦るほど、悪くなる数字に、表情は、厳しくならざるを得ない。こんな日々が続く中、端緒を作った、海の向こう側の市場が、振替休日の仕組みから、先に開くことになる。そこでの動きを、一旦眺めてから、こちらの動きが、始まるとなれば、この1日の動きは、皆の注目する所、となるだろう。実際には、その前に、同じような憂き目に遭った、国々の市場が、開く訳だが、影響の大きさは、貿易の額と同じように、あの国の方が、遥かに大きい、と思われる。上げが続いた中で、高額の儲けを、積み重ねた結果、納めるべき税金も、その額を、膨らませた訳で、税収に苦しむ国には、有り難い一年だったが、ここまでの吐き出しが、突き付けられると、来年は、冷え込むかもしれない、と思えてくる。ほんの始まりにしか過ぎず、今後の成り行きは、企業業績などの数字からは、依然として、楽観視されているが、心配性の人々は、納税を、逃れたいとさえ、思っているかもしれない。申告の仕組みは、年ごとなのだから、そうはいかず、悩みが続くだろうが、ここは一つ、期待を膨らませる方に、傾けたらどうか。