パンチの独り言

(2月19日〜2月25日)
(戻るか、甘い誘惑、情報操作、無為自然、叱咤激励、おや?、毀誉褒貶)



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2月25日(日)−毀誉褒貶

 何度も批判しているが、依然として、世の中に蔓延するのは、褒めて育てる、という迷信だ。海の向こうから、やってきた手法は、一部の人々に、持て囃されて、悪影響を広げてきた。その人達からは、効用ばかりが、聞こえるだけで、褒められた人の、行く末は、聞こえてこない。
 効果を主張するのは、一向に構わないことだが、それが、一時的なものか、定着するものかの、区別くらいは、きちんと示すべきだろう。教育においても、社会においても、現場から聞こえてくるのは、褒められた人々の、傲慢な態度だ。と言っても、本人は、傲慢などとは、露ほども思わず、自らの能力を、信じているだけ、のようだ。だが、何度も、褒められてきたことから、固定された信念は、少しくらいの刺激では、揺らぐことがない。明らかな誤りや、見栄えの悪い仕上がりなど、こちらから見れば、何とも見窄らしい結果にも、何の疑いも抱かず、素晴らしい出来栄え、と思い込む態度が、示されている。突然、梯子を外されたように、感じられるようだが、厳しい批判に晒され、反論の余地もなく、引き下がったとしても、信念が揺らがないのでは、何の改善も期待できない。こんな人間を、育てたのは、一体誰なのか、という疑問は、それまで受けてきた、教育の内容を、眺めてみれば解けてくる。褒められるのは、まだ、関わりがあったから、ましな方であり、実際には、花丸のように、内容の質と無関係に、付けられた印だけで、放置されてきたのだ。その結果、改善の機会も与えられず、悪い点が、指摘されることもない。全て、完璧であるが如く、扱われてきた人間が、突然、批判に晒され、改善を強いられる。どんな結果が、生まれてくるかは、人それぞれとなる。それをきっかけに、改善の姿勢を、示せるようになれば、儲けものだろう。多くは、変化を拒み、成長の機会を、失うこととなる。何とも、罪作りな仕掛けは、働き掛けをしたくない、現場の人々に、好まれたに違いない。

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2月24日(土)−おや?

 能力を測る為に、様々な手立てが、講じられている。点数をつけ、その大小によって、順位をつけるのは、当然のことだが、能力を、点数化すること自体に、問題があると言われる。走力を競うのなら、かかった時間を、比べれば済むのだが、全般的な能力には、指標が数多ある。
 その中で、何を、どう、点数化するかに、測る側は悩まされる。特に、成長過程で、問題とされるのは、将来性という観点から、能力を測ることであり、現時点だけでなく、将来をも見通す、計測が必要とされる。だが、今ではなく、未来に必要となる能力とは、どんなものか、多種多様な見方があり、これという決め手は、無いように思われる。だからと言って、何もしなくていい訳でもなく、何でもいい訳でもない。現時点の能力を、見極めながら、将来性をも、含める形にしたいのだ。無い物ねだり、と言われれば、その通りだろう。確かに、将来のことは、今は無い、のだから。では、どうすべきか。実際には、放置するだけで、皆の能力が、伸びる訳ではないから、何かしらの働き掛けが、必要となる。その中で、評価の時に用いた手法では、記憶力が肝心となり、処理速度も、大きな要因となるのに対し、その後は、徐々に、そのような能力より、既存の問題ではなく、未知の問題を、解く能力や、新たな問題を、発見する能力が、重要となってくる。では、それまでの、丸覚えとは、どこが違うのか。覚えていることを、基礎として、そこから何を築き上げるか、が肝心となるが、それを、今問うても、余り効果はない。それより、まずは、記憶力を試し、その上で、何を積み上げられるか、確かめていくしかないだろう。その際に、能力を発揮し始める人は、その多くが、覚える習慣から脱し、疑問に思うとか、疑うとか、そんな行為を、身に付けていく。将来に必要な能力を、身に付ける段階で、不思議を感じることこそが、その人間の能力を、発揮する機会を得る為に、不可欠となるのだ。

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2月23日(金)−叱咤激励

 若者達の才能を伸ばす為に、褒めることが優先される。だが、その成果は、芳しくない。というより、褒めることが、誤解されているのでは、と思えることが多く、的確な指摘をせず、放置しているだけ、に終わっている。その結果、伸びもせず、忘れ去られるだけなのだ。
 それでも、厳しい言葉を、投げ掛けるより、根拠もなしに、手放しで、褒めることの方が、余程気楽なのだろう。誰もが、褒め言葉を、投げ掛けることで、自己満足に、浸っているようだ。頭から否定している、と映ることが多い、批判的な姿勢には、実は、盲滅法で、厳しい言葉を吐くのではなく、そこから生まれる、反省と成長を、促す意図が含まれる。褒めている人は、相手の感謝の気持ちに、浮かれているだけで、相手の成長など、目に入ることはない。言われた側も、感謝は、一瞬のうちに消滅し、傲慢さが頭を出し、怠慢へと繋がる。結局、褒め言葉には、相手を動かす力が、無いことを、気付かされるだけなのだ。と言っても、これも、酔い痴れる人々には、見えないものらしく、自己満足は、その後も長く持ち続けられる。それでも、先頭を進む人々は、自らを戒め、努力を重ねるから、褒められても、違う反応を示す、と言われていた。だが、今開催されている、運動競技の中継で、期待された選手達が、失敗を繰り返し、成果をあげられなかった時に、吐く言葉には、普通の若者達と、同じような思い込みが、現れていることに、驚かされる。調子は良かったのだけど、と繰り返す態度には、自信を失いたくない気持ちと、負けを認めたくない気持ちが、強く表れており、自分を冷静に分析する、潔さが感じられない。言い訳を繰り返しても、周囲は、技術が足りないとか、精神力の問題とか、厳しい指摘はせず、支援を続ける。これでは、成長は、促せないだろう。

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2月22日(木)−無為自然

 高校生でも、とは、馬鹿にされたものだ、と思った生徒が、居たかどうかは、わからないが、それにしても、水準を示す為に、一つの指標と見做されるのだろう。だが、現実は、そんな簡単なことではない。誰もが進む道だから、とばかりに、漫然と席についているだけ、もある。
 進学の機会を、均等にしたい、という掛け声は、様々に繰り返されるが、その結果の検証は、殆ど行われていない。理由は、明確だろうが、それを指摘するのは、憚られる、という空気が、社会に満ちている。均等にする必要が、求められるのは、その多くが、弱者と呼ばれる人々であり、親の困窮や、家族構成の問題など、様々な難題が、山積みとなっているのだ。だが、彼らに伸ばされた、救いの手の多くは、空振りに終わり、そこから、漏れ出てくるのは、もっと、という声であり、自らの努力なしに、不幸のどん底から、救い出してくれる、そんな蜘蛛の糸を、求めているのだ。欲に駆られた若者達が、努力なしに、到達する場所は、所詮、大したものにはならず、結局、ドブに捨てただけのこととなる。義務教育期間が、終了した時点で、最低限の教育は、施されている筈が、今では、それが恰も、全く足らないように、扱われている。更なる教育が、必要となるとの考えに、反論することは難しく、上を目指す意欲を、削ぐのは、躊躇われる。だが、現実は、怠け、緩んだ心を、そのままに放置するだけで、よく言えば、挫折することとなる。だが、本質は、怠け心しか持たない、施しを求める人々に、無駄なバラマキをしただけのことで、社会秩序を含め、何の解決も得られない。では、どうしたらいいのか。簡単には、積極的には、何もしないことだろう。本当に求めるのなら、努力を重ね、何らかの手立てを、見出せる。その機会を奪うのでなければ、何もしないことは、何も悪いことではない。

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2月21日(水)−情報操作

「高校生でもわかること」との発言は、嘗ての宰相の異母弟によるものだが、本人は、正論のつもりで、使ったのだろう。原稿を作成した官僚の、過ちを厳しく指摘したつもりなのだろうが、さて、そんな簡単なからくりに、気付かなかった大臣や宰相は、それ以下ということか。
 傲慢な態度で、恫喝するような態度を見せる、この発言者は、党の要職に、留まり続ける。まさか、異母兄の威光が、輝き続ける訳でもないだろうが、こういう横暴さが、罷り通るのが、政権を担い続ける党の、特徴であり、アキレス腱となっている。ただ、代わりは、幾らでも居り、傷が深くなれば、切り捨てればいいだけのこと、多数派の利点とでも、言うべきことだろうか。この話題において、調査結果を、都合よく分析した結果を、答弁に利用した、という点に、注目が集まっている。その中で、謝罪をしたのだから、それでおしまい、との強弁に、傲慢さを感じるのは、当然のことだろう。捏造などと、厳しい指摘をしている、と思い込む質問者も、実際の調査が、どう行われたかに、目が向くことがなく、基本を押さえぬままに、詰問しているとの思い込みに、酔っているようだ。異なる質問を、比較に使った、という点が、論点となっているが、ここで、最も重要なのは、調査の中で、相手により、違う質問をしたのか、それとも、同じ質問項目を並べた上で、都合よく選んだのか、という点にある。後者は、情報操作の一種であり、データ解析において、基本を外れた手順、と見做される。では、前者はどうか。こちらは、答えありきの調査であり、都合のいい答えを、導く為に、調べたふりをした、ということだ。何方にしても、意図的な操作であるが、その罪の重さには、大きな違いがある。この点を突いてこそ、再調査を求める必要を、論じることができるだろう。はじめの発言に従えば、「高校生以下の愚かな人々が政を行っている」となる。

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2月20日(火)−甘い誘惑

 誰も、聞いていないから、とでも、言うのだろうか。と言っても、話題に、事欠かない、政治の不祥事の話ではない。毎日、画面から流れる、広告の内容だ。誰も、真剣に、耳を傾けていない、のだったら、広告の意味はない。誰かが、注目するからこそ、訴えるのだ。
 だが、その内容は、真面目に聞くだけの、価値を持たない。一般社会であれば、詐欺の一種として、片付けられそうな、言動の連続に、疑いを抱く人は、現実には、少ないのだろう。また、ある意味、周到に準備された、明確な訴えを、不鮮明な言葉で、伝える手法は、犯罪とならない、ギリギリの線に、乗っている。心理的な要因で、振り回される、自らを弱者と信じる、庶民達に、訴える手法の一つに、その肝心な心理を、揺り動かすものがある。確固たる自信無しに、何となく思う、という人々には、断定口調で、否定することで、更なる不安を煽る。そこに、企業の主張を、被せることによって、製品の性能を、過大に見せる。他社の製品との、差異を主張するが、比較には基づかず、唯一のもののように、見せる訳だ。不安を抱かされた人々は、安心を求める為に、こんな宣伝文句に、引き寄せられる。これは、世間で、度々話題になる、詐欺師の常套手段であり、犯罪一歩手前、と思えるものだ。だが、そこから、一歩踏み出すことなく、そのまま、相手を放置することで、連絡先に、辿り着いた人だけを、相手にする。こうすれば、公共電波を用いた犯罪、とはならず、明らかな違法行為、と認定される危険は、避けられる。その代わり、個々に繋がった人々には、更なる一歩に、誘い込み、顧客と成す訳だ。違和感どころか、嫌悪感さえ催す、こんな広告が、堂々と流されるのは、安全・安心という、平和にどっぷり浸かった人々が、溢れる社会があるからだろう。「助けて!」と叫ぶより、まずは、騙されないぞ、と構えた上で、耳を澄ますべきだろう。

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2月19日(月)−戻るか

 急落に、呆然とする姿が、画面に映し出されてから、二度目の週明けとなる。上げ続ける中で、油断があったのか、という指摘には、反論の余地は無い。特に理由が見当たらぬままに、天井知らずのように見えた、相場の動きに、企業業績の好調が、伝えられていた。
 しかし、そこには、大きな落とし穴が、待ち構えていた。相場の動きには、基礎となる数字と、それに基づく心理の、二つの動きが、関係してくる。特に、後者は、確かな根拠の無いままに、不安定で勝手な動きを、繰り返すことが多く、後付けの分析にしか、現れてこない要素である。今回も、様々な数値の変化から、原因追及が行われたが、結局は、何が何やら、解らないというのが、本音となる。ただ、これ程の値幅の動きには、手の施しようがない、という状況に陥り、慌てて手当てを施しても、手遅れの感が、否めなかった。しかし、今改めて、動きを見返すと、例年通りの動きに過ぎず、その幅の大きさに、目が奪われただけだったようだ。底値をつける、とは、相場でよく聞かれる言葉だが、それが、例年通りの形で、起きたに過ぎない、と見る向きもある。それが、正しい分析かどうかは、今後の動きが、証明する訳だが、ここでの、一旦の答えは、底値をつけた、となる。では、今後の上げが、あるかどうかに加え、どこまで戻すのか、という問いには、まだ答えを示せず、様子見を続けるしか、ないようだ。何れにしても、折角の含み益が、一瞬で消し飛んだ、と感じた人々に、嘗ての笑いが、戻ってくるかは、ここ数週間の動きに、かかってくるだろう。企業業績は、依然として、好調が伝えられるだけに、そちらへの不安は、感じられない。おそらく、金利の動向に加え、為替が、どう動くかに、注目が集まるのだろう。

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