パンチの独り言

(2月26日〜3月4日)
(傲岸不遜、反抗期、誰のせい、見ぬふり、恥の上塗り、作る楽しみ、暴走)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



3月4日(日)−暴走

 喧嘩になっても、構わない。とでも、考えているのか、浅はかな考えに、拘るかのような、断固たる発言が、続いているという。様々な状況を、把握した上で、重要な判断を、下すという立場に、就いた人間は、ついこの間まで、独裁的な経営者として、名を馳せていた。
 極端な言動は、一代で築いた、企業の成功の、自信の表れ、とも言われる。だが、一私企業の成功と、国の舵取りとでは、大きな違いが、あるのではないか。収益を上げ、成長を続けることが、経営にとって、最も重要な目標となる。だが、国は、成長を続けるだけでは、民にとっての、利益とならない場合が多い。金銭感覚は、確かに、それなりのものを、持っているように映るが、力の均衡を、保つ感覚は、欠如している、と言わざるを得ない。報道では、その極端さばかりに、注目が集まり、それを懸念する意見が、並べ立てられている。だが、選ばれし者の強みは、支持者の多さに、あるのだろう。そこから眺めれば、極端を、好む風潮が、現代社会の病を、重いものにしている、と思えてくる。このままでは、世界全体が、衰退期に入るのでは、との見方も、最近は、絵空事とは思えぬ程、現実味を帯びてきた。自らの利益を、追求する為に、競合相手を、突き落とすことは、経営では、ごく当然のことだろうが、国の間で、それが起きると、次の段階は、本当の戦いとなりかねない。そんな展開が、起きるかどうかは、彼の決断だけに、よるものではないが、あの過激な発言に、称賛の声が上がるようでは、そろそろ、危険度が高まった、と見た方がいいのかもしれない。ただ、民が支える国では、単純に、独裁が罷り通る筈もない。何処かで、歯止めがかかると見るべきか、はたまた、そんなことさえ、破壊してしまう程、あの人間は、悪質だったということになるのか。まだ、見えていないのだろう。

* * * * * * * *

3月3日(土)−作る楽しみ

 春の嵐が、国の西から東まで、吹き抜けて行く。季節のものは、様々にあるが、これも、その一つだ。それ以外に、春に関係するものには、梅に始まり、桜に終わる、花の競演がある。一方、食べ物についても、様々にあるが、地方色が加わる話題として、くぎ煮をご存知だろうか。
 内海に棲む小魚を、佃煮にしたものだが、ある地方でのみ、愛されている。他では、食べたことはあっても、作ることはなく、できたものを買うのが、当たり前となっている。しかし、海の産物は、この所、話題になっている通り、資源の枯渇が、問題となっている。秋の秋刀魚、うなぎ、それぞれに、原因は異なるだろうが、海産物を、といっても、うなぎはもう養殖物と言うべきだろうが、愛する人々にとって、これから、厳しい時代が、到来するかもしれない。くぎ煮の材料である、いかなごも、ここ数年、激減した漁獲高に、保護の声が、高く上がっている。資源確保というので、獲らずに見守る、というやり方が、数年続いているが、寿命が長くない生き物に、逆に、効果が上がらず、環境の変化、を問題視する人もいる。という訳で、今年も、ここ数年よりは、ましだとはいえ、厳しい状況が、続いているようだ。その地域に、住んだことのある人間にとって、この風物詩は、何とも言えぬ、魅力がある。そんな訳で、今年も、と意気込んでみたものの、やはり、巷から姿を消した、いかなごは、中々手に入らない状態が、続いている。解決法は、どこにあるのか、わからないけれど、毎年楽しみにしつつ、復活を祈るくらいしか、庶民にできることはない。味を楽しみにする人にとっては、店頭に現れれば、それでいいことになるから、製造業者は、競って買い占めを目論むらしい。これでは、簡単には、嘗ての豊漁は、戻ってきそうにない。

* * * * * * * *

3月2日(金)−恥の上塗り

 高校生以下、と書いたが、実際には、その辺にいる、クソガキ以下、だったのだろう。結果が同じでも、初めの反応が、突っ撥ねたことは、問題の本質を、見抜けぬ無能者、であることを露呈し、更に、前言撤回は、反省によるものでなく、単に、嘘を重ねただけなのだから。
 子供達が、親に対して、嘘がバレた時に、更なる嘘を、重ねる行動は、幼子の未熟な心、の為と受け取られる。だが、この発言の主は、大の大人どころか、この国を治める、政府の頂点に立つ人間で、その幼さは、愚かさの現れ、としか見えない。調査の不備を、大臣とともに、見抜けなかった失態を、一時の反発で、打ち消そうとした行為は、あの人物にとって、いつもの突っ張りだったのだろうが、周囲は、異なる見方を示し、諭したのだろう。反省の弁を、持ち出すことなく、前言撤回を、見事に押し通したのも、人格が疑われる要因だ。その上、都合の悪い部分だけを、取り除いたのは、本人が、何としても、成立させたい法律の、全体の均衡を崩し、役立たずの規則を、掲げることへと繋がる。これも、一時の欲望が、引き起こす害悪となり、何処かで足枷となり、矛盾が生まれ、過度な制限が、一人一人の働き方に、掛けられることになる。長期政権を、誇る人物には、汚点とはならぬ、との自信が、現れているが、長きに渡って、居座ることは、この矛盾が、発覚する時にも、責任を負うべき立場に、座っていることを、意味しかねない。だとしたら、子供の嘘の如く、親に厳しく叱られる、そんな場面が、訪れることになる。この話の親とは、国民であり、叱るとは、選挙結果に響くことだろう。読み筋を、整えることのないまま、思いつきを並べ、傲慢な態度を、続ける限り、あの宰相の記憶は、黒い部分のみが、残されるに違いない。

* * * * * * * *

3月1日(木)−見ぬふり

 海の向こうの大統領は、自己中心的な政策を、次々に打ち出し、世界を巻き込んで、混乱を招いている。中でも、近隣国との間で、結んできた貿易協定は、雇用を失わせた原因で、安価な部品が優先され、それを求めて、工場移転が続き、被害を受けたとの主張がなされた。
 身勝手な論理は、彼の得意とする所で、その正当性について、議論を吹っ掛けたとしても、怒りを買うだけだ。近隣国だけでなく、関わりのある企業も、国内外に関わらず、慌てふためき、時に、おべっかを使いながら、自分達の被害を、減らそうと努めている。確かに、独裁者にも似た言動は、危険極まりないものであり、逆鱗に触れぬよう、注意深い行動を、努める必要はある。だが、海の向こうの国は、独裁国でもなく、社会主義でもない。国民は、自由を謳歌し、自らの利益を、自ら求めることができる。そんな背景からか、あの大企業の社長が、おべんちゃらの如き、投資の増額の宣言をしたのと違い、知り合いのある中小企業の社長は、毅然とした態度を、貫いていた。製品を売る為に、価格は、最重要の要素であり、それを求める為に、安価な部品が必要となるのは、自明であるというのだ。確かに、国の間の取り決めを、再考しようとの提案に、一時的な混乱は生じるが、自由経済の下では、落ち着くべき所に、落ちる筈という訳だ。これまでも、企業間では、そのような遣り取りが行われ、下請けは、過度な圧力に、晒されてきた。その時代を知る人物にとって、大企業の坊ちゃん社長の発言は、所詮、綺麗事に過ぎず、その尻拭いのしわ寄せは、下請けに、押し付けられることが、火を見るより明らか、となる。だから、今のまま、生産を続け、嵐が過ぎ去るのを、待つのみとなる。消極的に見えるかもしれないが、慌てて火傷を負うより、遥かに戦略的な、判断なのだろう。

* * * * * * * *

2月28日(水)−誰のせい

 不正が発覚する度に、規制の厳格化が、行われる。防ぐ為には、締め付けが必要、という意味だろう。だが、制限が強まれば、強まる程、手続きは煩雑化し、不正より、誤動作が、増えることとなる。一時的な措置で、不都合が頻発すると、今度は、緩和が始まる。
 ある意味、鼬ごっこのような、馬鹿げた遣り取りだが、どこに問題があるのか、理解していない人が多い。だから、過度に、規制に依存し、締め付けの悪影響に、思いが至らない。本来、不正を働く人の心理は、どうせバレないとか、ほんの少しのことだからとか、自分は大丈夫、といった動きが、強まってくる。しかし、真面目に生きる人々は、そんなことを考えるまでもなく、規則を遵守し、自らの行動を、律しているものだ。彼らにとって、更なる規制は、単純に、お荷物となるだけで、全体の問題を解決するより、一部への注目が、優先されている。その結果、その他大勢は、外からの力に、押し潰され、真面目に生きても、悪い事が起きる、などと思ってしまう。そんなことが、頻繁に起きる中、規制する側は、その力を強め続け、不正を防ぐ為に、最も効果的な措置は、教育にあるという考えで、現場に圧力をかけている。倫理や道徳を、守らせること自体に、何も悪いことはない。だから、倫理教育を、強く推し進めようとする。だが、子供達にとって、まずは、自由な発想を、伸ばすことこそが、第一とされるべきであり、それに、制限を加えるような、厳格な規則は、彼らの心の成長を、妨げることにしかならない。にも拘わらず、これを推進するのは、大人の勝手な都合に過ぎず、また、自らの過ちの責任を、次代を担う人材に、押し付けることにしかならない。こんな身勝手が、罷り通るのが、今の時代の、大きな問題だが、肝心の大人達は、責任回避しか、頭に無いらしい。

* * * * * * * *

2月27日(火)−反抗期

 考えるのが苦手、という人が、多いようだ。「もう少し物を考えろ!」とか、「少しは考えて物を言え!」とか、厳しい叱責を受けた人が、多いだろうが、まさか、それが原因で、考えるのが、嫌になった訳でもあるまい。考えること自体、何をしていいのか、解らないのだ。
 素直に育った人間ほど、人から言われたことを、鵜呑みにすることで、丸暗記ができる。教育を受ける過程では、その能力の有無が、進学の道を決め、水準を決定する。だから、考えるより、覚えることが、優先される。この時期に、少しでも、考えようとすると、そこから疑問が湧き、覚えることを、妨げることになる、と言われる。だが、多くの偉人伝では、正反対の子供時代が、描かれており、それが、立身出世を成し遂げる、理由の一つとなった、とされている。この違いは、どこにあるのか。簡単に答えを、導くことは、できないだろう。一握りの人間の、成功事例を眺めても、自分に、当てはまるとは限らず、ただ、憧れの存在とするしかない。一方、平均的な人生を、送るにあたって、成長の過程は、一つ一つ、重要な一歩を記す。その中で、丸暗記が、推奨された年代から、覚えるより、考えることが、優先される年代へと、成長を続ける。当然、考える為の術は、徐々に、身に付いていく筈だが、現状は、そうなっていないようだ。考えろ、と言われても、何をしたらいいのか、全く思い付かない。ここにある、大きな問題は、何事にも、指南書があり、それが授けられ、従うだけで、実現できる、という教育手法が、溢れていることだ。何をしたらいいのかさえ、考える術を持たぬ若者達を、素直と呼んで、服従させる。何を目的として、人を育てようとするのか、大きな疑問が残る。実は、人の性として、反発の気が起きる筈が、それさえも、抑えつけることで、服従させていることが、大きな問題であり、その状況を、よしとする若者が、急速に増えたことが、今の問題を、招いたようだ。是非、逆らって欲しいものだ。

* * * * * * * *

2月26日(月)−傲岸不遜

 昔、ネット掲示板で、議論を交わしていた時、傲慢だ、などと批判されたことがある。おそらく、気に食わない意見を、突き付けたからだろうが、自分を糾弾する態度を、傲慢と呼んだのだろう。だが、論理的な議論において、反論に窮するのは、単なる負けに過ぎない。
 素直に、負けを認められず、相手の態度に、腹を立てたのは、論理だけでなく、人間としても、負けを認めることになる。喧嘩相手の顔が、見えない状況では、表示された文字のみが、戦いの対象となる。そこに勝ち負けがあれば、言い負かす事が、目的となるのも、止むを得ない。議員が、議論を交わす場においても、同じことが、言える筈なのだが、この国では、そうならないことが、余りにも多い。調査の結果を、歪曲させてでも、自分達の提案を、押し通そうとする企ては、僅かな隙から、崩れ落とされ始めた。そこに現れたのは、まさに、傲慢としか思えぬ姿勢で、頼りとした筈の、調査結果を切り捨てても、自分の主張を押し通す、宰相の本心だろう。以前、多くの人々の面前で、あり得ぬ言葉を吐き、挙動不審を指摘された、同じ人物が、再び、同じ席に着き、同じ役割を演じる中で、ほぼ同じ傲慢さを、見せ始めたのは、経済の好調という、心強い後ろ盾が、現れたからだろう。他にも、噂に過ぎないが、薬の助けという、前とは違った事情もあるし、支えとなる人物への、信頼も明らかな違いだろう。だが、傲慢には変わりがなく、論理も論拠も、全てかなぐり捨ててでも、持論を押し通すことは、また、崩壊の危機を、自ら招くことになりかねない。穢れなき笑顔などと呼ばれた、配偶者の挙動も、夫に負けぬくらいの、異常さが露呈する中で、周囲の不安は、徐々に襲いかかってくる。自己崩壊とも呼ばれた、前回の顛末とは、また異なる環境が、築かれる中で、傲慢さは増すばかりだが、どんな崩れ方を、見せるのだろうか。

(since 2002/4/3)