パンチの独り言

(3月5日〜3月11日)
(選ばぬ権利、翻然、聞こえぬ、無施錠、時期尚早、努力、忘れない)



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3月11日(日)−忘れない

 忘れないで欲しい、と訴えられたら、どうするだろう。時と場合による、というのが、適切なのかもしれない。こうする、と約束することは、できないかもしれない。でも、訴える人の表情からは、懇願とでもいうような、そんな雰囲気さえ、漂ってくる。
 大災害の後、被災者の口から、こんな願いが漏れてくる。その場では、殆ど全ての人が、約束するに違いない。それ程、強烈な印象を、大災害は与えるからだ。だが、時間が経つにつれ、印象は、徐々に薄れていくものだ。それも、日々ではなく、月々でもなく、年々という長さで、記憶は定かでなくなり、多くを忘れ去ってしまう。意識をしていても、こんなことが起きるのだから、思い出そうとしない人々は、本当に、忘れてしまうのだ。そこに、忘れないで、という言葉が届いても、どう反応していいものか、すぐには思いつかない。その反応の薄さに、更に、語気を強めて、迫られる場合もある。ここまでは、人間が、忘れないでおこう、と思ったとしても、時が経つにつれ、記憶が薄れてしまう、という話だった。一方で、ヒトという生き物は、覚えておこうとするだけではなく、忘れようとすることも多い。特に、強烈な印象が、与えられた時に、それを、忘れることこそが、回復の兆しとなる。それができずに、苦しむ人々は、最近は、病気の一種として、認められているようだが、どうあるべきかは、そこからは見えてこない。方や、忘れないで、と要求され、方や、忘れられない、と苦しめられる。本当に、全てを忘れることは、できないだろうが、忘れることも、時に大切となる。では、どちらを選ぶべきか。それは、また、時と場合によるのだ。それを、まるで、一つしか答えがないかの如く、強いられるのは、あまり気持ちがいいものではない。何時になれば、言われずに済むのだろうか。

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3月10日(土)−努力

 できなかったことが、できるようになった時、喜びが頂点に達する、と言われる。それを分け与えようと、様々に工夫を施し、多くの人に、達成感を与えようとする。だが、結果は、芳しくない。関係者達は、気づかぬ様子だが、原因は、努力の有無にありそうだ。
 一人で励んでいる時、その努力を、評価してくれる人も、手を差し伸べてくれる人も、周りには居ない。更に、それが報われる瞬間が、訪れたとしても、喜ぶのは、自分だけなのだ。その中で、得られる感覚は、特別なものとなる。それを模して、達成感を得られるような、機会を味わわせようと、環境を整えてみるが、どうにも様子が違ってくる。仕掛け人にとっては、完璧に整えたつもりでも、何かが違っているようだ。教育と同じように、環境さえ整えれば、誰もが、勝利を手に入れられる。そんなことを、信じる人々は、せっせと舞台を作り上げる。しかし、肝心の演じる人間は、一人で努力していた人とは、多くの点で異なっている。例えば、意欲、手に入れられるなら、という条件付きの意欲は、少しのことで、引っ込んでしまう。例えば、努力、周囲に持ち上げられることで、自己満足に浸るような、努力は、小さなものに、止まってしまう。その中で、成功体験を、とばかりに、煽られたとしても、いつの間にか、意欲は減退し、自力ではなく、他力本願へと、気持ちが萎えていく。こんな話が、巷に溢れているのは、まさに、平和な時代だからであり、他人に手を貸すことを、厭わない人が、沢山居るからだろう。だが、結果が伴わねば、結局、何の意味もなく、関わった人間には、徒労感だけが、残ることになる。そろそろ、そんな無駄を、捨てる気になったら、どうか。努力は、誰かに認められる為のものではなく、自分が、認めさえすればいいものなのだから。

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3月9日(金)−時期尚早

 早ければ、早い程良い、と言われた時代、生まれる前から、となってしまい、そこで、熱狂は冷めてしまった。効果の程は、検証されることなく、熱病が癒えると、別のものへと、興味が移る。鉄は熱いうちに打て、と言われるが、熱する前に、打っても無駄ではないか。
 しかし、教え育むことの、絶対的な効果を、信じる人々は、自分ができないことを、できる子どもを育てようと、新たな手法を、編み出し続ける。こんな時、早期教育への信仰が、大きな提案を、作り出した。その一つが、英語教育の変化だろう。母語でさえ、熟しきっていない時期に、第二言語を、持ち込むことに、効果を信じる人々は、バイリンガルと呼ばれる人の存在を、拠り所としていた。そこに、大きな誤解があったと、先日読んだ本の著者は、何度も訴え続ける。手を替え品を替え、導入を強行しようとする、監督官庁に対し、現場の整備が、できていないとする論調は、一読の価値がある。ただ、何度も主張し続けるうちに、拘りばかりが強まり、的外れが感じられるようになった。意思の疎通に関しても、強い偏りが感じられ、文化に拘る姿勢は、却って、主張を弱めているようだ。確かに、共通の基盤のない人の間では、互いを理解する、あるいは、許容することが、第一となる。しかし、異言語を操るからといって、基盤も異なるとは限らない。共通の論理を辿り、理解を深める中で、共通言語が、大きな役割を、果たすこともある。そこでは、言語を自由に操ることより、明確な論理に基づき、話の内容を吟味することの方が、遥かに重要なものとなる。ここでも、言語を自由に操れない大人達は、その原因を、言語能力に帰するが、実際には、肝心の論理さえ、組み立てられぬことが、大きな要因となることに、気づいていない。何れにしても、早ければいい訳ではないことに、気づかねばならない。

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3月8日(木)−無施錠

「やっぱ知らないんだ!」と、一人二役の兄弟の遣り取りで、業績の好調さを、強く主張していた広告は、あの事件を契機として、画面から消え去った。何が良いのか、という疑問に、物知り兄さんが、答えられない、という筋書きは、思わぬ展開を、招いたということか。
 元々、現実社会での取引を、媒介するものとして作られた、貨幣制度は、はじめの頃は、金本位制のように、価値を確定させることで、国が保証していた。その国が、潰れてしまえば、通用していた硬貨も紙幣も、材料としての価値しか持たず、所謂金属片や紙切れと化す。一方、信用が揺るがないものとなり、本位制が外れると、経済状況の変化により、その価値が、大きく変動することもある。札束を抱えて、日用品を買いに行く姿が、映し出される国は、貧困に苦しむだけでなく、他国からの信用を、得られない。国の格を示す指標として、用いられることも多く、為替相場の動きに、世界中の経済が、一喜一憂し、企業の業績は、大きく左右される。それが、当たり前の仕組みとなってから、かなりの時間が経過したところへ、新たな仕組みが、参入し始めた。現金を持つ代わりに、カードで買い物をする人は、海の向こうでは、当たり前でも、こちらでは、ほんの四半世紀前までは、多くなかった。ところが、借金生活に、抵抗が薄れるに従い、皆がカードを持ち、更には、携帯端末に、その機能が載るようになり、利便性は高まった。そこに登場したのが、現実社会ではなく、仮想社会で流通する貨幣であり、ネット上の取引に、通用するものとされた。いつの間にか、現実の店までもが、ネットに繋がり、それを受け入れるようになると、更に、利用者が増えたようだ。そこに出てきたのが、始めに取り上げた広告だが、件の企業は、管理の不備から、顧客の財産を失う、という事件に巻き込まれた。仕組みの脆弱性が、露呈した訳だが、関係者は、管理の問題と決めつける。何れにしても、監督官庁からの、命令が入るに至っては、安全ではない、と言わざるを得ない。

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3月7日(水)−聞こえぬ

 情報化社会の恩恵は、様々に伝えられるが、負の部分は、無いのだろうか。既に、多くの人が、気付いているように、情報化により、氾濫し始めた情報を、どう扱うかが、肝心となる。特に、種々雑多なものから、取捨選択する能力が、重視されるように、なっているのだ。
 だが、これまで、選ばれた情報だけに、接してきた人間にとって、自分で、その評価を下すのは、そう簡単なことでは、ないようだ。だから、と言う訳でもないだろうが、劣悪な情報に、振り回されたり、偽の情報に、騙されたりする人が、山のように出ている。彼らにとって、情報は、生活の糧であり、それに触れることで、利益が得られる、と信じているのに、その実、正反対の結果を招き、損失だけが、膨らむという事態に、陥っている。だからと言って、今更、情報の流入を断つ、という決断が、できる筈もない。もう、流され続けるしか、ないのだろう。こんな時代に、人騒がせな、海の向こうの大統領は、情報操作に、精を出している。昔なら、巻き込む人間の数は、要職にある人間でも、大したことには、なっていなかったが、無制限な拡大を、確実にさせる、情報発信源を、各自が保有することとなり、それが、注目される人物から、となれば、皆が気にかけ、振り回されることになる。駆け引き、との表現で、済まされていた時代には、水面下で情報を流すことで、相手の出方を、伺うことが常だった。しかし、今や、全てが、公然と流され、人々は、一喜一憂したり、慌てて反応したりする。その結果、一つの発言が、世界を駆け巡り、それがまた、更なる反応を導く。打診する代わりに、こんな形で、情報を使うのは、人騒がせなだけ、なのだが、情報化社会では、選択の余地はない。きっぱりと、拒絶することで、そんな誘いに乗らぬのが、賢い選択なのではないか。

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3月6日(火)−翻然

 中継の時間は、仕事と重なり、見つめることは、難しい。何より、意味不明な議論が、続くだけで、我慢強く、見守るのは困難だ。修学旅行で、見学しただろう、傍聴席に、行こうという気も起きない。だから、報道に頼るしかなく、編集された結果で、我慢するしかない。
 本来、事実をそのままに、伝えることが責務だが、現実には、好悪に基づく、意図的な編集が、施されている。だから、という訳でもないが、疑いを抱きつつ、眺めることになる。何らかの遣り取りが、画面から伝えられても、それが、現実のものか、あるいは、編集後のものかは、それだけで、区別することはできない。だが、たとえ、作為に満ちた編集にしても、ここまで、穴ぼこだらけの議論が、大真面目に、行われるものか、と思えてしまった。例の、裁量を入れるかどうかの話だが、その説明の中で、宰相と大臣が、ある企業を名指しで、指導を行った、と述べたことに関する、その後の展開に、耳を疑ったのだ。過剰労働の結果は、多くが、病気を発症するが、中には、自殺という最悪の結果、となる。その原因を、追求する過程で、過労が要因となれば、労働災害の認定を、受けることとなる。その報道の中に、件の企業の社員がいたことで、この企業への指導が、その認定の後に、行われたのでは、との疑いが浮上したのだ。もし、裁量の範囲を、逸脱するような労働を、強いた結果だとしたら、裁量制の導入には、更なる規制が、必要との論理のようだ。だが、そこでの答弁が、噴飯物に思えた。指導事例の紹介では、自慢気に話していた、大臣と宰相は、「個々の事例のコメントを控える」と述べたとある。あの時、名指しをしたのは、個々の例ではない、とでも言うのか。あり得ないのは、それを追及する質問がなく、そのままで済んだように、伝えられていることで、こんな話は、巷では起き得ない。台本通りに演じる、愚かな政治家達には、通常の論理は、通じないということか。

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3月5日(月)−選ばぬ権利

 どうしても、理解できない。機会が奪われることに、反対の声が上がるのは、近年の特徴の一つだが、奪われる機会に関して、論じられることが、少ないようだ。法律にまで、機会の均等が謳われ、差別を無くす為の、唯一の方策かのように、扱われているのだが。
 性差が、現れないような配慮、と言われることだが、個人差が、確かにある中で、その一部に、性別による差が、現れたとしても、不思議ではない。ところが、法律という縛りにおいては、一定の基準を設け、そこで線引きすることとなる。そのどちらに属するかで、区別を示す訳だが、これが、差別と呼ばれるかどうかは、社会の雰囲気によるところがある。意欲を減退させぬように、様々な配慮が必要、という訳だが、どうにも納得できない部分がある。生物として考えれば、オスメスの区別は、明確であり、それと関係するものについては、差があって当たり前となる。だが、法律は、学問の対象としての生物ではなく、社会の一員としての個人を、対象とするだけに、極端な解釈さえ、押し通されることがある。性差による格差を無くす、という動きは、法律の成立により、目標達成となったが、他の社会的格差については、そういう縛りが、適用しにくいものもある。例えば、貧富の差は、あると自覚していても、それを、無くす為の方策は、社会的な働きだけで、法律によるものは、殆ど無い。だから、という訳でもないだろうが、世論を味方にする動きが、目立っている。進学の機会を、得る為に、金銭的支援を、得ようとする動きは、その後の展開から、問題視されている。支援は、所詮、借金にすぎず、それが、個人の将来を、奪うことになる、と言われる。多くの事例で、語られる話だが、その実態は、異なるように思う。大多数は、全く違う展開を、示しているからだ。これだけでも、怪しさが際立つが、それ以上に、理解に苦しむのは、進学の機会均等、ということだろう。人生の節目は、様々にあり、その道を選ばぬことも、自由選択の一つではないか。それを、押し付けるのは、確かに、機会を奪うことなのだ。

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