パンチの独り言

(3月19日〜3月25日)
(自己流、遅れ、騙される、祝典、手強い、羅針盤、物忘れ)



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3月25日(日)−物忘れ

 物忘れがひどい、と言っても、歳のせいではない。世間で話題となっているのに、以前の事件との関係が、取り沙汰されないのは、何故だろうか、という意味だ。事件の中心は、書類の作成を、外部委託したこと、に始まったと伝えられる。この話、どこかで聞いたような。
 と思っても、事件の報道では、全く触れられない。今回の核心は、個人情報の漏洩、というものらしい。しかし、一方で伝えられるのは、書類の不備から、徴税の不備が起こり、被害を受けた人がいる、という話で、実害は、実はそちらにある、とされる。だとしたら、一体全体、何が問題だったのか。作成の委託については、入札により、その業者が落札したそうだが、それを、再委託したことに、契約違反があったとされる。しかし、見込みもなく、入札額の算定は、どう行われたのか。不思議は、山ほどあるが、その整理さえつかない。それより、この役所紛いの組織が、関わった事件は、今回が初めてではない。年金制度が、破綻を来しかねない、との話題は、今に始まった事ではないが、多くの制度を、統一する仕組みが、導入された時にも、前代未聞と言われた、不祥事が起きた。その時も、書類の作成と称して、外部委託された業務が、杜撰な管理から、出鱈目な書類や業務の遅滞が噴出し、機構の体制を、問い質す意見が、山のように寄せられ、また、議会でも論じられた筈だ。だが、その経験は、またも、活かされることなく、不祥事が繰り返された。こんな話だったと思うのだが、今の所、誰も、この話を取り上げない。こちらの記憶違いか、はたまた、そんな記憶は、あの業界には、存在しないのか。不思議に思えるが、逆の見方をすれば、こんな調子だから、経験が活かされず、何度間違えても、平気でいられるのだろう。役所紛いだから、公僕ではない、とでもなるのかもしれぬ。

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3月24日(土)−羅針盤

 目に余る迷走ぶりも、株価が上昇を続けることで、見て見ぬ振りを、してきたのだろうか。にしても、そろそろ、我慢の限界が、見え始めてきた。実体経済が、好調を続けることで、度重なる失政も、覆い隠されていた、と見る向きも、多いようだが、綻びは、一気に広がる。
 予期せぬ当選、などと揶揄されても、好調経済が、続く限りは、資本主義社会にとって、どうでもいいこと、として片付けられる。だが、就任当初の陣営が、櫛の歯が抜け落ちるように、次々と、姿を消した挙句、独裁的な言動は、誰からも止められず、極端な表現で、周囲を惑わすだけでなく、被害の輪を、広げ続ける。国益、という言葉は、民主主義国家にとって、さほど意味がないのだが、資本主義そのものを、崩壊しかねない言動は、やはり、百害あって一利なし、という状態へと導く。孤立を感じつつ、それを否定しようと、続けられる発言は、迷走ぶりが、増すばかりとなり、意固地も、ここまで来ると、害悪そのものとなり、他国との関係が、損なわれて仕舞えば、国家間の紛争へと、発展しかねない。期待は、依然として、大きいままのようだが、それを抱く人々は、大局を見極めることも、他人の利益を考えることも、全くできない、私利私欲の塊に過ぎない。同様に、私企業を率い、その利益のみを、追求してきた人間に、国という単位で、全体の均衡を、考えることは、不可能に違いない。それほど、自明なことでも、民主主義は、彼らの暴挙を、許す仕組みを作ってきた。良識さえあれば、こんなことは起きなかった、などと、後の祭りと、叫んでみても、何にもならず、途方に暮れても、暴走は止められない。担ぎ出した政党が、その不明を詫び、退陣を促すか、あるいは、議会政治を、優先させるしか、この窮地を救う道はない。対岸の火事では、済まぬ話だ。

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3月23日(金)−手強い

 したたか、という表現が、旧体制の「東側」に属する国の、指導者達に向けられる。交渉の過程で、自分達に有利な方に、向かわせる能力が、高いとの評だ。評論家は、様々な思惑が、巡らされた形の、遣り取りに対して、一筋縄では行かぬ、したたかさが、現れているとする。
 だが、彼らの分析に、耳を傾けても、何処が「したたか」なのか、理解に苦しむ。ああ言えば、こう言う、という遣り取りに、世間は疎いらしく、察することが、できないから、との理由のようだが、ごく自然に、論理を辿れば、誰もが行き着く、結論へと向かう。そこには、何の違和感もなく、奇を衒うという、論理破綻の一種や、論理の飛躍なども、現れていない。そうなると、したたかな相手に、振り回される「西側」の人間に、何かしらの欠陥が、あるように思えてくる。特に、最近は、分かり易い話を、要求する風潮が、異常な程高まっているから、少しの仕掛けでも、簡単に陥る人が、山ほどいるのだ。それは、要職にある人でも、国の中枢をなす人々でも、同じであり、読みを進める能力に、明らかな欠陥が、あるのではないか。手の内を、見せぬ相手に、どう対処したらいいのか、判断できない人は、常に、一つの答えを求め、それを導くことで、能力を発揮してきた。だが、教科書の中と違い、実世界は、多数の答えが入り乱れ、唯一の正答が、存在しないのが、常となる。そこでは、出方次第で、対応を、柔軟に変化させ、荒波を、乗り越えるが如く、進む必要があり、その為の能力は、揺るがない論理性に、基づくものとなる。闇雲に、丸暗記する能力が、測られる年代から、変化への対応を、要求される年代に、人は成長を続ける筈だが、それを欠く人々が、世に溢れている。「西側」では、情報の氾濫が、隠し事を、難しくしており、それによって、何事も、分かり易く見えるが、「東」では、今も隠蔽体制が続き、情報不足が、常態化している。その違いを認識せず、したたか、などと評するのは、無知としか思えない。

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3月22日(木)−祝典

 節目節目で、出会いと別れがある。それに伴い、祝いの席が、設けられる。習慣化したことから、何を目的とし、誰を祝うのかさえ、判らなくなる場合さえ、出てきているが、折角の機会、気持ちを込めて、祝ってやろうではないか。そんな意識を、持ってみよう。
 年度末には、様々な儀式が続く。例年のこと、と片付けてしまえば、それまでで、何の意欲もなく、気持ちを表す機会も、出てこない。組織として見れば、例年のことに過ぎないが、個人にとっては、一生に一度の機会だし、区切りを示す、いい機会となる。にも拘わらず、周囲は、気乗りのしない、態度を示し、ただ、並んでいるだけとなる。個人的な関わりが、重視される筈が、式典が優先され、誰が、そこに居るかさえ、話題に上らずに済まされる。まるで、組織の問題かのように、扱われる話だが、実際には、至って個人的な問題であり、祝ってやりたい、祝いたい、とさえ思えば、簡単に、違った形にすることができる。では、何故、皆は、そうしないのか。式典は、組織によるものだから、という理由であれば、そのままにして、個人的な部分だけ、深く関わればいい。祝いの言葉は、組織からのものでもなく、また、組織に対するものでもない。至って個人的なもので、その関係から、滲み出てくる感覚が、背景にあるのだ。そのつもりで、席に出れば、気分も変わるだろう。また、相手も、その雰囲気があれば、厳粛な気持ちだけでなく、喜びも、溢れ出す筈だ。簡単に思えるが、どうしてか、そういかないことが多い。気持ちを表すことが、苦手な人が増えたことも、一因として考えられるが、実際には、近いと思える関係の有無が、全てを決めているからだろう。節目でもまた、仲間かどうかで、気の持ちようを変える。そろそろ、終わりにしたら、どうか。

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3月21日(水)−騙される

 子供から、大人になり始めた頃、「悩みなさい」、と言われたことは、ないだろうか。先人達の経験を、そんな形で、聞かされた時、どんな思いを、抱いただろう。言われたから、その通りにした、という人もいるだろう。その結果は、どうだっただろうか。
 大人は、自分の歩んだ道を、子供達に示そうとする。だが、その多くは、そのままに伝えるのではなく、別の形をとる。やろうとして、できなかったことを、並べる人もいるし、できたことに加え、更なる課題を、示す場合もある。話を聞く子供は、進むべき道を、示されたと感じ、その通りに、やってみようとする。そこに、何も間違いは、ないように見えるが、実際には、一度も、実現できなかったことを、試みさせられている。時には、運良く、できてしまうことがあるが、多くは、予想通り、うまく行かず、悩まされることとなる。だが、大人を信じる子供にとって、助言は、確かなものであり、指示通りに動けば、尊敬する大人と、同じようになれると思う。思うからこそ、示された目標に向かい、頑張ってみる訳だが、それが、遠すぎる目標だったり、見えもしないものだったりしたら、どうだろうか。一部の無責任な大人は、こんなやり方で、子供達の可能性を、潰してしまう。その意図は、ないだろうが、自分を、大きく見せようとする余り、こんなことが、行われているのだ。疑うことを、知らない子供程、この手の大人の、被害に遭うこととなる。うまく抜け出せれば、大した害も受けず、素直に育つのだろうが、そうはいかない場合もある。世の中には、そんな形で、躓かされた人が、一杯いるのだろう。少し考えれば、怪しげな話なのに、鵜呑みにしてしまう。こんな形で、成長した人々は、また、別の話も、鵜呑みにして、被害に遭い続ける。

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3月20日(火)−遅れ

 周囲を見渡す、余裕がなかった時代、遅れをとった人々への、配慮は殆ど無かった。徐々に、余裕が出てくるに従い、その配慮は、社会全体に広がり、当然のことと、扱われるようになっている。だが、他人との差、という観点からすれば、皆が違うだけではないか。
 歴然とした差が、存在する場合には、今の時代は、配慮をすることで、すべてが解決する、と言われる。だが、微妙な差を、問題とした場合には、簡単ではない。競争原理を、採り入れることで、差に応じた扱いを、施すことが、主体となるが、時に、差を実感させるだけで、歴然とした違いと、まるで違う扱いに、戸惑う人も多い。ここでも、配慮が必要との声も、あるけれど、果たして、どうなのだろうか。同じ水準での、競い合いこそが、基本となる筈が、差を取り込んだ形での、競い合いをさせる。競走馬の、成績に従った、負荷の違い、という原理と同じ、と考えれば、分かり易いだろうか。だが、差を縮めることで、競争を、面白くしたい、という思いが、人間社会に、持ち込まれることには、賛否があるだろう。差別という言葉が、忌み嫌われる一方で、こんな仕組みを、導入しようとするのは、どんな意図があるのか。安定し、将来が見えることで、余裕が生まれた、との考えもあるが、差をつけることで、心の余裕を感じる、という、一種の優越感のようなものは、ないのだろうか。差を埋めようと、道具を開発する人も居て、確かに、差がなくなるだけでなく、勝る部分まで出てくる。こうなると、同じ水準とは見做せず、何かしらの、違和感まで漂うこととなる。差があることを、認めた上で、それを埋める手だてを講じる。何も、間違いはないようだが、対等な競い合いとは、明らかに違う。競技だけでなく、社会での営みにおいても、各人が、それぞれの特徴を、活かすことで、戦い続ける。この域を、超えてしまっては、駄目ではないか。

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3月19日(月)−自己流

 大の大人達が、挙って、自己都合を盾に、書類の書き換えを、行っていた。所謂、改竄であり、作成段階ではなく、決裁後となれば、公文書偽造、明らかな犯罪である。にも拘わらず、平然と嘘を重ね、覚え目出度く、出世までしていた。情けない時代、と言うべきか。
 こんなことが、積み重なった結果、教育現場では、倫理・道徳教育が、急務とされている。その中で、前次官が招かれたと、下らない注文をつけ、服従を示す為か、調査を行ったとされる。これもまた、情けない話だ。改竄と同様に、問題視される行為が、剽窃と呼ばれるものだ。他人の文章を、自分のもののように装い、業績を築く行為には、厳しい目が向けられる。ただ、これを防止する為と称して、現場に持ち込まれた考えには、反対の声も大きい。剽窃は、盗みと同じこと、との解釈から、それに手を染めることを、禁じようとする動きは、教育の手法を、大きく変え始めている。学ぶは、真似ぶから、と言われた、模倣が基準という考えが、嫌われた結果、初めから、独自のものを作り出す能力が、現場で要求されると、異様な状況が生まれる。独自と称する出鱈目が、以前ならば、厳しく批判されたのに、今では、賞賛の対象となる。結果、無能な人間の、野放図な言動が、増長されるだけで、肝心な人材育成が、滞ることとなる。一方で、地道な努力で、伸ばされてきた才能は、この手法では、打ち捨てられることとなり、社会の要請とは、正反対の結果を招いている。成長過程で、様々な模倣が、繰り返されることは、今更、指摘する必要が無い程、知られたことだが、それに逆らってでも、改竄、剽窃を排除しようとする動きは、思い込みによるもので、根本や本質を、見抜くことのできない、無能者の提案に過ぎない。聞く耳を持たず、従前通りのやり方を、現場で続けることこそが、唯一の打開策となる。

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