パンチの独り言

(3月26日〜4月1日)
(意見交換、紆余曲折、常識は?、食べ歩き、花見、解決策、言論の自由)



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4月1日(日)−言論の自由

 言論の自由、とは何か、意識したことがあるだろうか。憲法で保障された、権利の一つ、とも言われるが、自由主義、民主主義の国では、当然の権利となる。市民が、それぞれに、自分の思いを表現できる、自由を保障するもの、となる。だが、多くは、違う意味に使われる。
 市民が、表現する場が、殆ど存在しなかった時代、この自由は、言論を表明できる、権利を持つ人々に、与えられていた。思想や哲学を、扱うことを、生業とする専門家に加え、それらを、市民に伝える立場にある人々も、その権利を行使していた。近年では、一般市民でも、媒体を操ることが、可能となったから、権利の範囲は、広がったように思えるが、依然として、その大きさには、かなりの違いがある。電子媒体は、無制限な流布をも、可能としてきたが、確実な手段とは、なっていない。それに対して、出版物を介せば、既存の流通を用い、確実な手段を得ることができる。書物は、その最たるものだが、先日読んだ新書には、言論の自由の濫用、とも思える主張が、展開されていた。世界的な賞として、確固たる地位を、得ているものに対する、この国の狂乱ぶりを、客観的に捉えた、と勝手に信じ込んだ人々が、著したものだが、その騒ぎを、煽る立場にある人間が、騒ぐ人間達を、批判する姿には、見識の欠片もなく、天に唾する愚か者を、眺める思いがした。世間の人々は、受賞者を、崇め奉るが、その極端さに、批判の矢を向ける。だが、そのきっかけを作り、崇拝を扇動する言論は、彼らの手から放たれている。この矛盾を、知らぬ顔で、堂々と論じるのは、客観とは異なる、不見識しか見えてこない。こんな態度で、周囲を批判し続けた挙句、自分達の責任を、放棄してきたことが、今の為体へと結びついた。それを、如実に表す内容を、評価する人々も、愚の骨頂と、呼ばれるべきだろう。

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3月31日(土)−解決策

 季節の変わり目、不安定な天候が続く。体調も、不安定となることが多く、この季節に、崩す人も多いようだ。季節だけでなく、環境も変化し、うまく適応できない、という場合もあるだろう。どう対処すべきかは、人それぞれだろうし、これという決まりもない。
 経験に基づき、様々な対処を、編み出す人もいて、それが、表に出ることもある。指南書、とはいかぬまでも、こうすれば良い、といった類の話は、この時期に、数多出されるが、どうにも、役立たずのものが多い。不安定が、精神的なものであれば、心理の問題であり、心の持ちようは、人それぞれとなる。なのに、一つの方法が、まるで魔法の如く、通用するという話には、やはり、怪しさしか残らない。その中で、流布されるものは、多分、毒にも薬にもならない。効果を求める人には、これもまた、辛いものとなるだろう。他人の力に、頼るのは、所詮、根本解決にはならない。と思えば、また、違ったやり方に、手を出すかもしれないが、悩みの淵に落ちた、人々が、自分の力で、解決への道を、歩み出そうとすれば、それぞれに、違うやり方で、違う手立てを、講じるのだろう。それで、何とか、道が開けるのなら、結構なことだろう。でも、よく考えたら、皆、同じような道を歩み、それぞれに、新しい方に向かって、進んできたのだ。悩んだとしても、苦しんだとしても、それぞれが、何かをつかむことで、問題は、解決へと向かった。これも、確かに経験なのだが、他の人に、当てはまるとは、限らない。自分で、何とかすることこそが、結局、大切なのだ。

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3月30日(金)−花見

 平年に比べると、一週間くらい、早いのだろう。花の季節が、訪れる中で、国を挙げてのお祭りは、宴酣となっている。色とりどりの共演だろう。
 特に、印象深いのは、山の景色だ。普段なら、緑に覆われるだけだが、冬枯れの季節を越えて、春先には、様々な彩りが、施される。緑だけでは、遠目には、どんな木なのか、全く区別がつかないが、花が咲くと、全く異なる景色となる。山桜の白も、目立つのだが、それ以外にも、コブシの花が、鮮やかな白を、演出する。町の桜は、その殆どが、ソメイヨシノだったが、最近は、新しい品種が、植えられているようだ。赤みの強い、桃色とでもいう感じのものから、淡い色のものまで、桜一つをとっても、様々な景色を、見せてくれる。少し標高の高いところでは、まだ、桜は蕾のままで、梅の花盛り、といった風情だが、すぐそこに、春本番が、やってきている感じがする。この季節だけの、彩色の妙に、ゆっくりと楽しみたい、気持ちも起こるのだが、運転する中では、わき見もできない。それでも、遠くの山々なら、少し余裕をもって、眺めることもできる。少し早めの桜の季節、名所の多くでは、慌てて準備を、しているようだが、ほんの一時の楽しみに、多くの人が、やってくる。見事な桜並木を、眺めるのも楽しみだが、其処彼処に、ポツンと咲いている、木を眺めるのも、違った楽しみだろう。歩く楽しみと合わせて、長い冬で、鈍った体を、動かすことも、春の楽しみとなる。ただ、無理は禁物、余裕をもって、動き回ろう。

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3月29日(木)−食べ歩き

 一時の騒動は、沈静化しただろうか。国民性、と言い切るのも、どうかと思うが、それにしても、騒動が起きると、更にそれが広がる傾向にある。人気が、人気を呼ぶ、などと言われるが、かと言って、増え続けるのには、限界がある。あの経済の悪夢と同様に、凋落の時が。
 この国全体で見れば、各地に名物があり、それぞれに、伝統があったものだ。だが、最近の傾向は、全く違った形を、取り始めている。食べ物好きの人々を、グルメと呼ぶのは、和製外国語だろうが、それに階級をつけることで、別の意味をもたせたようだ。庶民にとっても、という意味らしいが、伝統のあるものでもなく、地域の食材に関係する訳でもない。不思議な存在だが、金にものを言わさずとも、手に入るという意味では、日常共結びつくように、感じられる。だが、今回取り上げるものは、そんな類のものではない。昔から、その地域では、多くの人が、好んで食してきたものであり、伝統も関係する。だが、一部で極端に取り上げられてから、伝統は破壊され、雨後の筍の如く、新店舗が、登場するだけでなく、細々続けられた所まで、大量生産が導入され、姿を変えてしまった。食べ歩くというより、車での移動だったが、幾つか、名の知れた店を、訪問してみたが、評判倒れ、と思う方が多かった。腰は弱く、ただ堅いだけの麺と、味わいのない出汁、では、楽しむことはできない。唯一、古民家を改造した店だけが、同じ味を、貫いていたように、感じられた。海の対岸で、腰を重視する麺を、提供する店の方が、遥かに、喉越し、歯応えを味わえた。そろそろ、騒動も、過ぎつつあるのだろう。庶民達は、次の標的を、探しているに違いない。これでは、グルメと呼ぶのは、やはり無理がある。そんな騒動に、巻き込まれた、旅の一面であった。

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3月28日(水)−常識は?

 これから、社会に出ようとする人々の、知識に触れることがあり、愕然とした。常識とは、何だろうか、とさえ思えてくる。一体全体、学校で、何を身につけてきたのだろう。社会へ出る為の準備、と呼ぶ人も多いが、一般常識が、身についてなくて、何の準備だったのか。
 明日からは、給料をいただいて、何らかの仕事を、することになっている。筈なのだが、これほど、話が通じなくて、どうなるのだろう。社会の仕組みを、知らずに成長した結果、明らかな間違いでさえ、信じ込んでしまう。それによって、窮地に追い込まれても、周囲からは、責任を問われる。大人であれば、一人の人間として、当然のことなのだが、つい、昨日までは、そうはならなかった。何処かで、また何時かは、それがやってくる。自己責任、などと言われずとも、自分で、自分のことは、責任を持たねばならない。その為の常識が、身についていなかったら、それは、誰の責任なのか。簡単なことだ。本人の責任なのである。そう思えば、最低限の常識を、身につける努力も、惜しむべきでないことは、明らかとなるだろう。でも、これを、簡単に片付けられないのが、今の時代なのかもしれない。大人になりきれない、子供のままの人間も、体は、いい大人であり、生物としての機能は、自然に身についている。この不均衡に、どんな問題があるのか。それが起きてから、問題となる。それまでは、いい気なものだ、と言われても、知らぬふりが続けられる。幸せなのだろうか。

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3月27日(火)−紆余曲折

 何がしたいのか、解らないことは、一杯ある。だが、本人の口から、答えが語られることは、おそらくないだろう。というより、多分、本人も、答えを知らないのではないか。これまでも、これからも、答えのないままに、決断を下すだけで、その結果には、関心がないのでは。
 勝ち負けに、拘り続けてきたのだろうが、それは、結果に関心があるのではなく、勝敗に関心があるだけだ。勝つか負けるか、の違いについて、拘るからと言って、いい結果が出るかどうか、気になるとは限らない。勝つことが、必ずしも、いい結果へと繋がらず、主張が通ったからといって、組織にとっての利益に、繋がるとは限らない。では、何故、勝敗に拘るのか。それは、勝ちたいという気持ちだけの問題で、結果とは無関係だからだ。そんなことは、あり得ない、と思うのは、それぞれの自由には違いないが、尋常な考え方が、通用するとは限らない。そんなことが、次々に起こる中で、様々な乱れが、世界を駆け巡る。どこへ向かうのかも、殆ど見えない中で、皆は、何が起こるのか、と心配している。本当に、そうかは、誰にもわからない。では、どうすればいいのか。まあ、どうにもならないだろう。民主主義から出た人間であれば、民主的な決断の可能性もあるが、そうでない国の場合は、どうなるかは、わからないままだろう。だから、どうにもならない、としか言いようがないのだ。

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3月26日(月)−意見交換

 その場限りの議論。そんなものに、どんな価値があるのか。画面で展開される、意見の応酬に、どんな思いが過るのか。自分達の生活に、直接関係する話だが、その実感は、殆ど湧いてこない。調査に基づく、数字が語られても、そこには、実感へと結び付くものが、無い。
 何故、こんな感覚しか、抱けないのか。こちら側の問題では、無いようだ。議場で語る人々には、本当の理解がなく、並ぶ数字を、読み上げるだけに終わる。議論は、感情に訴えるものだけで、論理の欠片も感じられず、結論は、始めから決まっている。そんな中では、議論は、ただ表面的なものに過ぎず、演劇や芝居と、同じになっている。議題が、最も重要であり、その内容を、論じている筈なのに、何が、主題になっているかさえ、見えてこない。悪い事が起きれば、その犯人探しに、明け暮れる。それが、議論の中心となる。結果として、悪者が、引っ張り出されれば、総攻撃に移る。だが、問題は、そこには無い。犯人が誰か、ではなく、何故、そんな事が、起きたのか、に問題がある。にも拘らず、議論は、そこに至らないままに、犯人探しで、おしまいとなる。このやり方が、簡単なのだろう。本質を捉えるより、表面に、留まる方が、楽だし、面倒も少ない。場当たり的な議論も、そこで留まるから、面倒を感じる必要もない。こんな事が、あらゆる場で、許される事自体に、問題を、感じる人も、少ないのではないか。昔のことを、引き摺ると批判されるのも、こんな背景があるからだろう。だが、覚えておくことは、とても重要であり、それを端緒として、全体を分析することが、必要不可欠なのだ。そういう思いを抱きながら、議論に参加することから、始めてみよう。

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