皆が社会に向かって、情報を発信できる時代となった。身近な人としか、話すことができず、情報の受け手でしかなかった存在も、この仕組みを使えば、見ず知らずの人間とでさえ、情報を交換できる。有難い時代となった、と思う人も、居るに違いない。
だが、この所、そんな仕組みに、事件が相次いでいる。特に、発信したい情報ではなく、そこに席を設ける為に、登録せねばならなかった、個人の情報が、不正に漏洩したとされる、事件については、時代が時代だけに、強い批判の声が、上がり始めている。個人を特定できない仕組みでは、身勝手な発言が続き、傷つけられることも、多々あったのに対し、特定できる仕組みでは、倫理や道徳が、優先されるとして、そこに、信頼を傾けた人も居るだろう。だが、それが、標的となるとは、誰も想像しなかったのではないか。発言したい時に、不特定多数とはいえ、社会全体に向けることが、できるところに、この仕組みの利点があり、それを、社会的地位も、収入も、それほど高くない人まで、手に入れられる、という点に、魅力を感じた人々は、挙って登録し、自分の思いの丈を、綴ってきた。個人の特定は、名前や地位など、必要最小に限って、表明することに、何の疑問も抱かなかったろうが、更なる情報提供を、求められた時にも、さほど問題とは、考えずに入力したに違いない。ところが、事件が起きてみれば、それが、個人情報の漏洩、ということに、繋がってしまった。だから、こんな仕組みは、下らないのだ、と断じる人が、居るかもしれないが、どうだろう。最近の、個人情報漏洩に関する事件について、少し考えてみると、騒ぎを大きくしようとする、報道の思惑が、はっきりと見える。彼らの目的が、どこにあるのか、定かではないが、こんな情報、所詮ゴミに過ぎないのだ。何故なら、社会的地位も、収入も、大したことのない人が、大部分なのだから。そんな筈は、と思いますか。
新年ではないが、新しい年が始まった。夢や期待を抱いて、歩き出した人も居れば、夢破れ、第二の選択を余儀なくされた人も居る。はじめは、随分と様子が違うかもしれないが、すぐに、大した違いが見えなくなる。夢と現実の違いに、苦しみ始めるからだろう。
新しい事の始まり、という意味では、何も違いはない。だが、そこに、夢と希望という言葉が、付いた途端に、全く違う様相を、想像してしまう。そこに、大きな落とし穴が、あるように思う。何十年も前に、自分が描いていたものを、思い出してみると、何も特別なことが、なかったことに気付く。夢や希望や期待や、そんなものが、色々と混ざっていたのかもしれないが、それより、何かが始まる、という感覚だけがあり、何かに期待したり、夢を達成したといった、気持ちは、微塵も抱いていなかった。何が違ったのか。現代では、何にも、夢を抱き、目標を持つことで、達成に向けて、努力を積み重ねる、と言われる。だが、そういう姿勢でなくても、何かを達成することはできるし、自分なりの気持ちの高まりも、感じることができる。なのに、何故、取り立てて、夢とか目標を、強調しようとするのか。もしかしたら、そんなものが、前にぶら下がっていないと、何もしないから、なのではないか。意欲を、かき立てるような、きっかけが必要という話は、最近、よく聞こえてくるが、そうしないと、何もしないから、なのではないか。だとしたら、何とも不幸な話に、思えてくる。そんな意識をせずとも、日々の積み重ねにより、一歩一歩、前に進むことはできる。それを、後押しされたり、手を引かれたりしながら、先へ先へと急がされる。それが、まるで、幸せを手に入れる為の、唯一の手立てのように。そうやって、やっと目標を達成したら、次のものが示され、休む間も無く、走らされる。おかしなことだ。
これほどとは、という、呆れた声が聞こえてくるが、確かに、国を司る筈の組織が、杜撰な管理を続け、一部のしたい放題を、放置してきた。それも、一つや二つではなく、幾つも出てくるとなると、もう、呆れるしかない、と思うのも、無理のないことだろうか。
そんな不正を、自らの手で正し、真相を解明したい、との思いから、証人喚問を、という手順が、この所、頻繁に続けられているが、成果は、上がってこない。なぜ、こんな茶番が、繰り返されるのか。宣誓をして、臨むのだから、嘘を吐けば、偽証罪に問われる、との説明も、こう何度も、肩透かしを食らえば、誰もが、興味を失うだろう。嘘はいけないが、別の言い訳なら、許される。「記憶にございません」の反復は、喚問自体が、何の意味も成さないことを、白日の下に晒したが、その後も、別の言い訳が、通用することが示された。「訴追の可能性がある」との説明に、議員達は、追求の手を、引っ込めるしかなく、何の意味も成さない遣り取りに、生中継を、眺めるのを止めた人も、多かったろう。だが、懲りない連中は、何度でも、同じ儀式を繰り返し、貴重な時間を、ドブに打ち捨てている。費用計算を、こんなものに、引っ張り出すのはどうかと思うが、それにしても、一体全体、何億、何十億の国費が、投げ捨てられたのだろう。元々、ああいう組織の人間は、通常の法律で、裁かれることはなく、殆どは、組織による行為として、個人の責任が、問われることはない。だからこそ、喚問で、という考えもあり得るが、それを、訴えられるから、という理由で、逃れることができるのでは、何の意味もない。所詮、自分達で定めてきた法律なのだから、自分達の身を守ることは、簡単なことなのだ。残るのは、倫理や道徳、という感覚だけだが、そんなものは、とうの昔に、捨てているのだ。
模範となるべき、大人達の行状は、褒められたものではない。小さな頃から、嘘はいけないとか、謝りなさいとか、叱られ続けてきた子供にとって、画面の向こうで、平気で嘘を吐き、バレても、平然と謝るだけの大人の姿は、どう映るのだろうか。あれでいいんだ、とでも。
躾とか教育とか、そんな観点からすれば、邪魔者にしか見えてこない。そんな存在が、国の中枢をなし、将来を決めていく。ある時代には、末は博士か大臣か、などと、憧れの存在とされたが、今や、正反対の対象と、なりつつある。不正や改竄が、話題になる度に、研究上の成果が、無に帰するだけでなく、それに関わった人間も、社会的に抹殺される。一方で、後者の場合は、たとえ、不正や改竄があったとしても、それは、直接に関わった人間だけが、処分の対象とされ、時には、それさえも、組織への貢献として、不問に付される。今も続く、茶番の数々も、批判の矢が、放たれ続けても、空を切るだけで、誰にも当たらず、落ちていく。不埒な大人達の行状に、子供らは、どんな思いを抱くのか。模範や見本という存在は、身近に居ることが、最も重要なのは間違いないが、憧れの存在が、居なくてもいいわけではない。このままでは、社会秩序が、崩壊してしまうが、果たして、どうすることが、必要なのだろう。遠い存在など、無視するのが、今必要なやり方なのではないか。それぞれの家庭で、それぞれに、必要なことが、親から子に伝えられる。それこそが、唯一無二の教育法であり、基本なのだ。他人任せにして、放棄することが、恰も権利かの如く、振る舞う人間に、社会を構成する責任は、果たせる筈もなく、権利を主張する資格など、ある筈もない。
書店の窮状が、伝えられる。地域の教養を、支える役割を、長い年数、果たしてきたが、それが、限界を超えて、閉店に追い込まれている。活字離れが、原因の一つとして、指摘されていたが、業界では、それに加えて、黒船の存在が、大きいと言われている。
外国から参入した、新たな販売の仕組みは、従来の店構えとは異なり、仮想空間に、商品を並べている。この国の、出版業界の特殊性は、外国資本の参入を、難しくしている、と言われ続けてきたが、現実には、何の障壁もなく、売り上げは伸び続け、同業者の多くが、廃業に追い込まれてきた。業界全体の売り上げが、落ち込み続ける中で、一人勝ちが起きたのだから、窮状は、予想をはるかに上回るもの、となっていた。従来の商売が、直接交渉により、成立していたのに比べ、仮想空間を利用する商売では、全く異なる方法が、取られる。人の手を借りずに、画面上で、スイッチを押すだけで、売買が成立する中では、経費削減は、限界まで達成できるし、その他の経費に関しても、周囲を巻き込む形で、極端な程の、削減を実現してきた。書物の場合、現物を手にし、中身を眺めてこそ、購買欲が、高まると言われてきたが、情報社会では、必要な情報が、次々に流布され、それを元に、購入を決める人々は、外出する必要もなく、手間を省きつつ、好みの書物を、手に入れられるのだそうだ。どの手間を省くか、人それぞれに異なる筈が、いつの間にか、多くの人々が、同じような購入法を、使い始めると、客離れが、その速度を高めていく。そこに、問題を指摘する声も、あるのかもしれないが、業界全体の低迷の原因は、そこにある訳ではない。この辺の歪みが、どこから出てきたのか、誰か、指摘してくれないだろうか。図書館で、ベストセラーを借りる人、古書店で、文庫本を安く買う人、彼らは、活字から離れてはいない。しかし、業界にとっての客とは、言えない。この矛盾を、誰も、感じていないのか。
活字離れが言われて、久しい。文字に頼らぬ情報収集、ということか、最近は、画像や動画による、情報伝達が、主体となりつつある。とは言え、依然として、書類提出は、事務手続きの唯一の方法であり、定型であろうが、なかろうが、文字で伝える技術が、不可欠となる。
教育の最終段階において、最低限、身につけておくべきこと、と言われるのは、文書作成技術である。専門知識が、問われることが、嘗ては、多かったが、今では、専門性が高まることで、それを獲得する為に、必要な時間が延び、在学期間が、足らないとの指摘もある。となれば、それは、先送りするとして、別の能力を、保証することが、大学教育に、課された使命となる。その一つが、情報を的確に収集し、それを、適切な表現で、伝達する技術と、言われている。本来なら、入学時には、ある程度の能力を、備えている筈だが、最近の傾向は、それさえも不足しており、それを補った上での、訓練の必要性が、強まっている。とは言え、歩むべき道筋は、同じままであり、教則本的な書物は、長年、重用されてきたものだ。ところが、そこにさえ、時代の趨勢が、押し寄せ始めた。著者が、最近他界したことは、無関係かもしれないが、書類作成技術を、伝えるための手段として、画像、所謂漫画が、持ち込まれたのだ。文字を媒体とする技術を、画像によって伝えることに、違和感を抱かない時流に、首を傾げるのは、時代遅れの表明だろうか。それとも、こんな手法でしか、伝わらない相手に、書類作成を課すのは、大いなる過ちだろうか。このままでは、書類は姿を消し、全てを動画で記録し、それを、そのまま提出する形に、将来は、なるのかもしれない。その時には、改竄は、不可能となり、世間を騒がす問題も、解決するのだろうか。それとも、動画でさえ、改竄を可能とする、新技術が、登場するのか。
効率とか効果を、強く追求し始めたのは、高度成長期だったのではないか。それ以前とは、様相が変化することで、新たな要求が高まった。従来とは異なる要求に、新しい試みが必要となる一方で、既存のものを、如何に効率よく片付けるかが、課題となってきたのだ。
だが、本来、時間をかけねばいけないものに、効率のみを追い求めると、均衡が崩れ始める。教育荒廃、と呼ばれた現象が、始まったのは、こんな背景から、だったのかもしれない。じっくりと時間をかけ、それぞれの成長に合わせて、気長に構えられた時代と違い、促成栽培にも似た形で、最適な環境を整え、そこで全力疾走を強いる。走る力を、備えている人々には、新たな課題が、次々と現れることで、急成長の機会を、得ることができただろうが、それ以外の人間にとっては、目まぐるしく変わる、標的の転換に、目が奪われるだけで、十分な理解も、能力の獲得も、程遠い状況に、追い込まれてしまった。自分達で招いた窮地に、解決を図ると称して、導入された方策の多くは、空振りに終わっているが、それより、悪い結果を招いたのは、本分を外れた、試みの方だろう。例えば、留学の機会を与えることは、大きな成長を、促す手立てとして、今も、盛んに行われており、成果を誇っているように、見えているが、大学教育における、留学の役割は、付加的なものに過ぎない。本来の教育は、学校の中で行われるべきで、それを修めることで、十分な能力の獲得が、可能となることを、保証しなければならない。だが、今の状況は、それでは不足するから、留学に頼る訳で、本分を、果たしていないばかりか、義務さえも、放棄していることとなる。こんな馬鹿げたやり方が、罷り通るのも、成長期の、ある意味のゆとりが招いた、崩壊が始まりだったのだろう。手遅れとはいえ、本分を、見直す動きを、急がねばならない。