パンチの独り言

(4月9日〜4月15日)
(乗り放題、社会のゴミ、愚政、退陣、後の祭り、役立たず、救われる)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



4月15日(日)−救われる

 信じる心、と書いて、信心となる。何を信じるのか、と言えば、神や仏なのだそうだ。人を信じたり、金を信じたり、そんなことを、指す言葉ではなく、実在ではなく、神や仏などの、仮想の存在を信じる。偶像、と呼ばれる存在を、信心の対象とするのだ。
 宗教と言われると、何となく身構えてしまう人も、信心くらいのものなら、近寄り難いとは、思わずに済む。そんな解釈があるのか、よくわからないが、ありそうだと思える話が、番組として流されていた。大震災の爪痕は、各地で残っているが、人々の記憶は、薄れていくばかりと、心配する向きも多い。だが、その場で、経験した人々にとって、覚えておく辛さも、忘れる辛さも、同じように、辛いもののようだ。そこから、少しでも逃れたい、と願う人も居て、別の土地へ、引っ越すのも、一つの考えとなる。だが、失くした人々への記憶が、それで変わる筈もなく、苛まれる心に、体までが蝕まれることがある。そこに、信心が、大きな救いを、もたらすという訳だ。だが、この番組では、少し違う形の信心が、紹介されていた。僧侶が彫った仏像が、信者に分け与えられ、それを手にすることで、彼らの心が、救われるという話なのだ。寺院に安置された仏像は、尊い存在で、遠くに崇めるもの、との印象が強いが、円空仏のように、民衆の身近な存在として、各地に残る仏像もある。それと似た存在として、その僧侶は、信者に与えるものを、毎日彫り続ける。円空とは、違う心なのかもしれないが、頂いた人々は、失くした人々の、生まれ変わりとして、身近に置き、話しかけ、撫でる。様々な思いが、過るもののようで、その時間が、辛い心を、癒してくれると話す。信心とは、まさに、そういうものかと、感じさせられる内容だった。神も仏も、信じるつもりはないが、こんな形で、救われることこそが、信仰の根源なのだろう。

* * * * * * * *

4月14日(土)−役立たず

 人の役に立ちたい、と願わぬ人は、少ないだろう。自分だけがよければ、それでいいと思う、という人は、色々に注目されるが、実際には少なく、多数派は、他人と一緒に動き、社会や人の為に、頑張りたいと思う。その為に、必要なことは、何だろうか。
 一方で、こんな考えを、押し付けられた経験も、多いのではないか。支え合って生きるのだから、役に立てるように、努力しようという掛け声が、強まった時代もあった。最近は、そんなやり方が、いじめへと繋がったり、掛け声ばかりで、何も起きないことに、嫌気がさしている。だから、という訳でもあるまいが、役に立つのは、人間ではなく、知識である、との考えは、依然として、社会に蔓延している。私達の頃は、そんな説明もなく、ただ、与えられたものを、丸覚えすることを、強いられていた。勉強の強は、強いられること、などと考えたものだ。いつ頃からか、そんなやり方は、影を潜め、勉強することは、将来に役立つこと、という説明が、施されるようになった。思い起こせば、何事にも、無駄はなかったから、こんな説明も、妥当なものと思えるが、現実には、分かり易い説明で、すぐに役立つと言われ続け、勉強とは、そんなものと解釈されている。だが、これが全てに当てはまる筈もなく、説明に窮するものも、沢山出てくる。そんな時、子供の心に、疑いが芽生える。役に立たないことを、押し付けられていると。だが、この間違いに、気付くのは、ずっと後のことだ。また、気付くことなく、無駄と言い続ける人も、多いようだ。自分の知識の繋がりを、解きほぐすことのないまま、それぞれを、個別のものとして、頭の中に押し込める。能力の限界を、感じるのは、この瞬間だが、どうしたらいいのか、解る筈もない。役に立つのは当然で、いつかわかること、とすれば、簡単に見えてくるのだが。

* * * * * * * *

4月13日(金)−後の祭り

 半世紀ほど前、予知が可能と考えた人は、科学の進歩の著しさを、根拠の一つと上げていた。この速度で、事象の真相が、明らかになり続ければ、起きる前の予兆も、見極められる筈、という訳だ。だが、彼らの夢は、脆くも砕け散り、前言撤回を、余儀なくされた。
 そんな経緯から、自信たっぷりの傲慢さから、謙虚な態度への転換が、見られるかとの予想は、これまた、大きく外れることとなった。本質を理解しないままで、大ぼらを吹く、似非科学者達は、何の反省もなく、将来の確率などという、不思議な数字を操り、人心を惑わし続ける。直接的な予知に関しては、失敗の連続により、店を畳まざるを得なかったが、一度味わった魅力に、予想屋の習性は、そう簡単には、引っ込められない。彼らの不見識は、社会的影響の大きさから、厳しく糾弾されるべきだが、弁舌で生きてきた人間を、叩き潰すのは容易ではない。検証不能とも思える、確率提示に関して、そろそろ無視する必要を、感じる人も多いのだが、煽動を好む、報道界には重宝される。同じように、災害が起きる度に、原因を主張する人々にも、強い違和感を覚える。豪雨や地震と、無関係に発生した崖崩れに、当然のように、原因を解説する専門家は、自信満々の様子で、持論を展開する。なるほど、と思う人もいるだろうが、それほど、明白であったのなら、何故事前に警告できなかったのか、反省の弁も含め、頭の一つでも下げたらどうか。被害に遭った人から見れば、彼らのしたり顔は、怒りを催すだけで、何の役にも立たない。それを紹介する報道も、まるで鬼の首を、取ったかの如く、上から目線で、伝え続ける。ここまでの話は、実は、科学の本質を、大衆が誤解している現状を、表している。科学とは、所詮、解析に過ぎず、説明を与える為に、知識を駆使するだけのものなのだ。その説明さえ、考えの一つに過ぎないが。

* * * * * * * *

4月12日(木)−退陣

 前回の退陣と、同じような環境が、整ってきた。唯一の違いは、本人の奇行の有無、くらいだろう。所属政党からも、責任追及が始まり、側近の支援も、薄れつつある。依然として、強気を保とうと、努めているように見えるが、前回同様、崩壊の兆しが、見えている。
 今、始まったかのような、管理体制の崩壊だが、現実には、昔からずっと、同じことが起きていたのだろう。現在の惨状が、際立っているように見えるのは、その体制の頂点に立つ人間が、強気を押し通すことで、周囲が、所謂「忖度」を強いられ、それが、矛盾を次々と産み出し、ついには、改竄や隠蔽という、最終手段に出ざるを、得なくなったからだ。しかし、これまでにも、目立たぬ形で、こんなことは、日常的に行われていただろう。特に、この国では、公文書の公開は、殆ど行われず、たとえ、その対象となったとしても、不都合な部分を、隠すことが許される。情報公開とは名ばかりで、個人情報などの秘密には、それが適用されないとされる。何十年も経過し、当時の関係は、既に消滅した、との考えから、公開に踏み切る筈が、それをしないと決定できる。これでは、何の意味もない。さて、話を戻し、宰相の末路は、如何に。結局、平穏無事に、座に居座ることは、できなくなるだろう。となれば、国民に問う、との決断がなされる。だが、このままでは、政権交代が起きた時と、同じ図式となる。自らの地位どころか、肝心の船までも、沈めかねない状況に、乗船員達は、そろそろ決断せねばならない。茶番劇は、依然として続くが、恥を、いつまで晒すのか、そこに、大きな問題がある。奇行が始まっては、取り返しのつかない事態に、再び陥る。そんな愚かさを、再び晒すつもりか。ただ、交代には、乱立が妨げとなりそうだ。

* * * * * * * *

4月11日(水)−愚政

「記憶にない」とは、日常の惚けに使う言葉ではない。国の行く末を、話し合う場で、責任を問われた人間が、発した言葉だ。その意味では、気軽に使われた訳ではなく、自らの責任を、問われている場面で、それを回避しようと、絞り出された言葉なのだろう。
 庶民派宰相と呼ばれ、人気を誇っていたが、汚職により有罪となり、政治生命を奪われた人物を、追い落とそうとする勢いの中で、証人として呼ばれた人間が、発した言葉として、世間に広がってから、既に40年程経つが、今だに、これを連発することで、責任回避を目論む人間が、大きな顔をして、動き回っている。嘘ではないから、という説明は、詭弁に過ぎないが、だからと言って、何の手立ても持たずに、糾弾することは難しい。何を、手をこまねいているのか、などと、心配の声を、発する人も居るが、何奴も此奴も、何を惚けたことを、考えているのか。記憶にあるかないかは、本人の問題だから、問うても仕方のないことで、だからこそ、窮余の策として、発せられた言葉なのだ。だが、記録はどうか。嘗ての証人は、記録に残さぬよう、細心の注意を払い、金銭授受の証拠は、一切残さなかったという。そこに、思い出せと言われても、記憶にないとの返答で、何の問題もなく、罪に問われることもない。そのまま、有耶無耶にされ、闇の中に留め置かれた。だが、今回はどうか。役所の人間同士が、会合を持ったかどうか、問われているのに対し、記憶云々を、持ち出す人間は、愚かとしか思えない。それも、一方の備忘録から、会合場所が、機関内とされるとなれば、記録を辿れば済む話だ。それが、抹消されたとすれば、無責任極まりないが、電子情報の時代、完全抹消は、不可能に違いない。となれば、出せないとは、勝手な都合となり、それを、させているのは、現宰相を中心とする、内閣でしかない。これほど分かり易い話が、何故、これほどに拗れるのか、愚かさ以外に、あり得ない。

* * * * * * * *

4月10日(火)−社会のゴミ

 どうなってしまったのか、と考える人も、多いと思う。自己責任が、声高に問われた時代を経て、今は、責任転嫁の時代、と言えそうだ。何事につけ、最終責任は、自分で取るべき、との強要に、悩まされた時代から、今度は、他人から、責任を押し付けられる、時代となった。
 偶々、そういう時代の流れで、齢を重ねてきた人の中には、常に、責任を取らされている、と感じる人も多い。理不尽を、強く感じるだろうが、その展開に、自分が手を貸していない、とは言えないだろう。自身に、責任を課すことで、主張を通そうとした。それが、社会全体に広がった結果、自己責任なるものが、高々と掲げられることになった。若気の至り、とも言えることだが、一部の人間が、自らの権利を、主張しようとした結果、周囲に、歪みを広げた訳だ。次に来たのも、同じような展開であり、自分の責任を逃れる為に、他人の責任を、問うた訳だ。年数が経てば、したいことは、少なくなり、他人に、させようとする。本来なら、責任を取ればいいが、そのつもりは、毛頭ない。自分でやることで、責任を、という考えからすれば、他人のやることに、責任を感じる必要はない。だから、あいつの責任、という一言が、簡単に呟かれるのだ。大人の世界が、こんな状態になれば、子供達も、それでいいと感じる。自分が、成長できないのは、大人のせいだとか、自分が、理解できないのは、きちんと説明してくれないからだとか、そんなことが続く。こんな連中に、真面目に付き合うのは、所詮、無駄なのだが、だからと言って、放置しても、ろくなことは起きない。こちらの考え方の、一番の問題は、努力を、怠る姿勢にある。何事も、地道に努め、目標に向かって、歩き続ける。これ程簡単なことは、ない筈なのに、それさえもしない。その上、周囲に、不平不満を、撒き散らす。ゴミ人間達の、愚行だ。

* * * * * * * *

4月9日(月)−乗り放題

 青春とか、18とか、如何にも、若者達を対象とした名称、と受け取る向きも、未だに多いのかもしれない。だが、現実には、全年齢層を対象とし、JR各線に、1日定額で乗車することが、できるというものだ。但し、新幹線や特急には、それ用の切符を追加しても、乗車できない。
 そんな制限があっても、工夫をすれば、千キロを超える旅程を、実現できる仕組みに、安いものを求める時流は、参加者を増やし続けている。年に三回の、期間限定であるだけに、いつでも、という訳には、行かないが、青春や、18に関係する形で、長期休暇の時期と、合わせられており、季節的にも、好都合ということだろう。だが、最近の利用者は、高年齢化が、著しくなりつつあり、元気な高齢者が、外に出かけるきっかけを、与えるものとなっている。登山などでも、高齢化に注目が集まるが、車内に、大きな荷物を、担いだ人々が、入ってくるのに対しては、一部、批判があるのではないか。都会では、平日の通勤客を、押し退けるような勢いに、不満の声が上がるし、地方では、経費削減を目指し、編成を短くした列車に、多くの客が、突然押し寄せる勢いに、自身も含めて、不満の声が大きい。誰もが使える、便利な仕組みとあれば、こんな事態を、招くのもやむなしだろうが、それにしても、一部の賑やかさには、驚きと共に、疑問の声も、上がってくる。普段はどうなのか、また、観光の季節に、こういう動きは、邪魔と見られないか、といった具合に。所詮、一時的なものに過ぎない。との判断もあろうが、便利さが極まると、こんな事象が起きるのか、という所に、人間の行動に対する、不思議な状況を眺める気分になる。もう何十年も続く仕組みに、反対の声は聞こえないが、合理化とは、正反対なやり方だけに、今後、どう維持していくかが、問題となりそうだ。旅行の楽しみを、どう手に入れるか、長い老後にとって、重要な課題となる。

(since 2002/4/3)