パンチの独り言

(4月16日〜4月22日)
(教育県、愛飲料、一本化、誤対応、懲戒対象、暴力反対、下品)



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4月22日(日)−下品

 傲慢、不遜な態度を、取られることで、腹を立てている。今の状況は、こんなものだろうか。だが、この表現は、重要なものが、抜け落ちている。それは、その態度の裏にあるもので、嘘や悪意に、満ち溢れた中で、それが発覚しないように、している。
 弱みを見せないように、強がりを、押し通す。そんな時に、傲慢や不遜が、表面に現れる。しかし、これを、逆に見ようとする人が、世の中には、居るようだ。つまり、強い態度に出ている人間は、その裏に、弱みを隠しており、欺瞞に満ちた、行為を続けている、と見るのだ。それも、自らの弱点を、突かれた時に、そんな分析を施し、正当化を図ろうとする。だが、嘘や悪意は、自分の中から、出ている訳で、結局、始めに取り上げたような、不遜な人間は、自分自身であることに、気付きながらも、誤魔化しに走っているのだ。こんな人間に、接する機会が多いのは、実は、こちらの問題らしい。本質的な問題を、指摘し、間違いを、正そうとする。そんな態度を、取り続けていると、周囲には、敵が増えてくる。都合の悪いことを、指摘する人間は、仲間ではなく、敵に違いない、と思い込む人間が、最近とみに増えているが、これも、能力の低い人間同士が、互いを慰め合う気持ちから、仲間を求めるだけで、何の役にも立たない。その中に、正論を唱える人間が、入り込めば、四面楚歌の状況が、生まれることがある。その上、不正を暴かれる人間には、毅然として、厳しい批判を浴びせる人間は、傲慢とも不遜とも、映るようだ。それを、仲間内で、共有することで、敵対視を、強め合う。こんな下らないことを、続けるのも、無能の印であり、不正を押し通そうとする、悪意が、表面化しているからだ。敵の多い人間は、実は、正しいことをしているだけで、それを容認できないのは、間違っているからだ。

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4月21日(土)−暴力反対

 暴力はいけない、という考えを、強くしたのは、小学生の頃の経験からだろう。普通なら、2年毎に、担任が交代するのに、その年、私達の組では、予期せぬ交代があった。子供心にも、他の組は、変わっていないのに、何故、自分達の組だけが、と思ったものだ。
 だが、この交代劇は、一部の児童にとっての、悲劇の序章に過ぎなかった。中学校の担当から、小学校への赴任が、何故行われたか、子供に理解できる筈もなく、また、親達が、そんなことを囁き合っていても、気になる筈もない。だが、彼の行状から、薄々、何か問題を起こしたことが、子供心にも、理解でき始めた。それまで、女性教諭の担任しか、経験していない子供の中には、何かしらの期待もあっただろうが、現実は、厳しい叱責の嵐、でしかなかった。忘れ物をすれば、男児にはビンタを振るい、女児には尻を叩いた。今なら、虐待の一言で、簡単に、処分されるだろうが、当時は、まだ、先生の立場を、親達が慮るのが、常だっただけに、何かしらの意図を、考えた人も居ただろう。だが、標的を定め、繰り返される虐待は、収まる気配を見せない。特に、頻繁に忘れ物をする子や、服従を示せない子は、処分が過激化していた。中の一人は、ついに、首から、「悪い子」と書かれた、札をぶら下げられ、廊下に立たされてしまった。入学時の担任の女性教諭が、指摘することで、その刑は、二度と行われなかったが、彼の心の傷は、深く残り、他の子供達の心にも、傷を残した。数年後、このことを思い出した同級生は、何人も居ただろう。何故なら、浪人中に、失恋を理由に、彼が命を絶ったからだ。影響を考えたら、今なら、再び、処分が及んだに違いない。だが、ここでも、不問とされ、件の教師は、仕事を全うしていた。首から下げる、という事件から、こんなことを、思い出す。半世紀近く経過して、同窓会が、開かれた時に、面と向かって、暴力のことを、許さないと伝えたのも、傷の深さからだ。ただ、あの子のことは、流石に、触れなかったが。

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4月20日(金)−懲戒対象

 辞める人と、辞めない人。違いが何処にあるのか、気になる人が居るようだが、殆ど意味が無い、と思う。要職にある人を、辞任に追い込めば、まるで、鬼の首を取ったように、騒ぎ立てる人々は、実は、良識の欠片も、品格も、持ち合わせていない。攻撃だけなのだ。
 確かに、上に立つ人間を、追い落とせば、溜飲を下げる、ことができるかもしれない。だが、それは、単に自己満足に過ぎず、何かを、良くすることに、繋がることは、全くと言っていい程、ないのだ。首を挿げ替えたとしても、体制が変わる筈もなく、腐った中身が、清浄になる訳もない。特に、まずいと思うのは、騒動を起こし、満足を得ることで、手柄を得た、と誤解する向きで、無能な人間ほど、こういう愚行に、精を出すのだ。これ程の騒ぎで、国政は滞ったままとなり、肝心の議論は、棚に上げられ、通すべき法律も、仕舞い込まれ、一部の窮状は、解消されないままとなる。時間の無駄だけでなく、仕事を放棄する姿には、無責任の権化が、映し出されている。こんなことに、手を貸す人々も、肝心要を、意識することなく、騒ぎの火に、油を注ごうとするだけだ。ここでも、非常識が、横行している。辞めさせることに、躍起になる人々は、本来ならば、議論の対象となることに、目が向かない。不穏当な発言により、相手が、心理的な傷を、負ったとすれば、加害者として、組織に罰せられるものだ。懲罰ということで、本来ならば、懲戒の対象とすべきことが、辞任要求で、全てが片付いたと見る。欲に駆られた人間に、屡々見られる傾向だが、今回も、そんな成り行きで、あとは民事だ、とでもいうのだろう。愚の骨頂と思えるが、国の中枢が、こんな具合では、圧力を減らすことは、不可能だろう。ただ、もう一方で、こんな圧力話が、如何に下らないものか、批判すべきと思うが、どうか。

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4月19日(木)−誤対応

 対応を誤った、という話題が、次々に出てくる。騒ぎに乗じて、利益を得る者と、損失を被る者で、これ程の違いが、出ることに驚くが、一方で、事情と背景が、大きく異なることに、注意する必要がある。中心人物の、社会的責任は、同様に問われるが、内容は、全然違う。
 答弁における、嘘やごまかしを、発端とする事件については、改竄の事実が、露呈した時点で、関係者の運命は、定まった。関与した人間の、責任については、軽重の違いが、あったにしても、問われずに済む筈はない。特に、公僕たる人間が、率先して誤魔化したことには、倫理・道徳の問題が、強まるに違いない。同じ筋とはいえ、面会の有無を、誤魔化し続ける人間も、公僕としての品格を、捨て去っている。選挙で選ばれた人間は、一部の利益を、追求する立場にあるが、公僕は、国全体への寄与が、何よりも優先される。にも拘わらず、自己弁護に似た、言動を続ける態度は、既に、その任を解くべきものに見える。その中に、飛び込んできたのが、まさに不穏当な言動を、異性に対して放った、省庁の頂点に立つ人物だ。軽口をきくのが、持ち味と言われていたようだが、相手が悪かった。と言っても、本物の、性悪女であれば、直接脅迫され、金品や情報を、剥ぎ取られただろうから、職を失う方が、まだマシだったのかもしれない。ここでも、担当大臣の、不適切な言動が、話題となっていたが、この問題に関しては、対応について、共通理解が得られず、見解の一つが、厳しく批判されたと言える。慎重な対応が、求められる場面で、べらんめえ調の、言い切る態度では、自らの立場をも、苦しくしたのだろう。だが、この話題については、続編が出ている。件の人物が、批判を常とする組織に、属していた為で、対応という意味では、更に拗らせている。ここまでで見えてきたのは、批判ができても、対応ができない、この国の人々の、情けない姿だろう。

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4月18日(水)−一本化

 維新後の発展を、支えたものは何か。様々な意見が、あるようだが、最大の要因と、思われているのは、教育の水準のようだ。それまでにも、一部で受け入れられていた、欧米からの知識は、鎖国が解けて、一気に、国内に行き渡るようになっていた。
 富国強兵の第一歩として、最新の知識を得た、人材を育成する手立てが、講じられたそうだが、遊学させるにせよ、高等教育を整備するにせよ、その基礎となる能力が、それまでに整えられていた仕組みで、培われていたことが、大きいとされる。上級武士の子息であれば、藩校なりの教育制度で、高度な教育が、施されていただろうが、下級武士や一般庶民の子息となれば、特権を得ることは難しかっただろうが、そこに、寺子屋なる仕組みが、国中に行き渡っていたとされる。これにより、読み書き算盤、と呼ばれる、最低限の教育が、多くの平民に、施されていたことが、最も大きな要因と、考えられている。その後、教育制度は、義務教育を始めとして、高等教育に至るまで、政府が整備するものとなり、ある水準を保つためと、教科書の検定など、画一化が図られてきた。全体の水準を、向上させる為に、効果的な手法として、誰もが認めるものだが、一部の人材に、特別な教育を施すことが、必要とされる時代となり、まさに、時代遅れの仕組みと、批判されることが、急増した。個性を伸ばす、という意味での、英才教育に、批判が集まったのも、従来同様に、一つの手法で、育てようとした点に、大きな問題があったからだろう。多彩な才能を、伸ばそうと、画一的な手法を施せば、ある一定の水準に、到達させることができたとしても、突出した才能は、芽のうちに摘まれることになる。多様な手法を、実施することで、適不適はあるものの、それぞれに、伸びる芽が出てくる。そんな期待を、裏切るのは、役所が、全てを制御しようとするからで、その枠を、自分で外さぬ限り、失敗だらけとなる。一時、無駄が増えても、突出する人材が、得られれば、それでいいのだから。

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4月17日(火)−愛飲料

 拘りと言う程ではないが、コーヒーを楽しむようにしている。毎朝は勿論、日中も数杯飲み続けている。銘柄への拘りは、強くなく、どちらかというと、酸味を好むと思う。最近は、専門店に出かけ、月ごとの安売り銘柄を、買ってくる。味の違いも、少しは分かる。
 以前は、どんなものでもいいから、とばかりに、スーパーで売られる、ブレンドを飲んでいた。だが、一度、単一銘柄のみのものを、専門店で手に入れて、飲んでみると、やはり、その違いに、改めて驚かされる。計算上は、おそらく、倍くらいの値段だが、それで楽しみが手に入るのなら、安いものだろう。安売り銘柄も、店の指定だから、別の味を楽しめる。酸味の強い、キリマンジャロ、モカなどとは別に、ごく普通の苦味を持つ、ブラジルやコロンビア、特殊なものではなく、名の知られたものだから、こちらも、安心して買える。その上、時々、聞いたことのないものを、試す楽しみもある。ポイントやら何やら、最近は、難しくて、理解する気は起こらないが、この店は、比較的に単純な仕組みで、購入量が、ある程度を超えると、別の銘柄を半額で、求めることができる。そこで、無名な銘柄を、試してみる訳だ。もう一度、という気は起こらないが、不思議な味に、驚くことも多い。それ程、コーヒーの味は、多彩なのだろう。その中で、最高級品種と言われる、ブルーマウンテンが、売り出し対象となっていた。半額になっても、いつものものの5倍くらいの値段だが、思い切って、買って飲んでみた。確かに、美味しい気がするが、その価値はどうか。まあ、難しい所だろう。昔は、収穫量より、市場に出回る量の方が、遥かに多い、という不思議が語られたが、今は、どうなのか。それに群がるのも、国民性と揶揄されたが、今は、少しは事情が変わったのだろうか。

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4月16日(月)−教育県

 能力は、幾らでも伸ばせる、という考えが、教育を重視する根拠、と思っている人が、多いのではないか。現実に、そんな考えに基づき、教育環境を、整えようとする動きは、様々になされている。だが、効果の程は、期待を裏切り、更なる整備の必要性が、訴えられる。
 こんな調子で、投資が続けられているが、いつまで、過度な期待を持ち続けるのか、また、いつまで、検証もないままに、教育の効果を、信じ続けるのだろうか。本来、教育の効果が、現実へと反映されるにしても、それには、長い期間が、必要となる。今、教室に居る子供達に、効果が及んだとしても、彼らが、それによって手にした、能力を使いこなすのは、少なくとも20年、時には40年近くの期間が、必要となる。逆に言えば、検証の必要性は、たとえ訴えたとしても、現状を変える為には、殆ど役に立たず、時に、尚早な判断により、失敗を繰り返すことになる。では、どう考えればいいのか。簡単には、能力を、無限に伸ばせる、という夢を、まずは、捨てることが、必要だろう。でも、教育に力を入れる為には、その目標は、不可欠である、と思う人が居る。彼らに、伝えるべきことは、教育とは、各人の持つ能力を、引き出す効果を、持つという点だろう。能力が、無限に膨らむなどという、夢物語を、語る人々は、まさに、詐欺師の如くであり、信用に値しない。一方で、昔から、教育県などと呼ばれてきた地方は、夢を追う為とはいえ、本人達の持つ能力を、最大限に伸ばそうと、その環境を整えてきた。山間地であり、農業には適さず、近代産業も、誘致できない地域では、教育によって引き出された能力を、他の地域や産業において、役立たせる形で、地域を豊かにすることが、最大の産業となる。つまり、人材育成こそが、財産となるのだ。そこでは、過度な期待はなく、堅実な教育が、長く続いている。

(since 2002/4/3)