生殖の問題は、明らかに、歪曲されている。生殖医療は、その最たるもので、この所、取り上げているのは、そのほんの一面に、過ぎない。個人の欲望は、どんな扱い方をしても、所詮、その場限りのもので、後々、どんな影響が及ぶのか、考えられていない。
欲しいから、との要望に応えるべく、様々な治療を施す。そこで実現されるものは、個人の欲望に基づくもので、どこに限界があるのか、全く見えていない。優秀な遺伝子を、残すことを目指した、不遜な学問が、抱えていた本当の問題は、優秀か否かが、自分で決められる、と信じたところにある。特に、全体を俯瞰する能力なしに、一部のみを捉えて、議論する姿勢には、狭量な人間が犯す、大間違いが明確に現れている。成り行き任せとは、無責任の極みのように、思う人が多いが、実際には、運命と受け取ることで、諦めではなく、ある意味の責任を、果たしていることになる。これと同じとは言えないが、性に関する問題も、理解できないものが、次々と、出されている。性別とは異なる、性を自覚する人間に、権利を与えることは、人権問題として、不可欠なものだという主張に、異論を唱えるつもりはないが、生物として考えると、これは、明らかに誤った判断となる。生殖活動に、関わることができない、という決断に対して、人間としての権利を、奪うつもりはないが、子孫を産み育てる、権利の放棄は、ヒトという種の、存続を危うくする、と言えなくもない。その点に関しては、毅然として、問題を指摘すべきであり、社会的な権利とは異なる、別の問題として、扱うべきだろう。その上で、生物として、どう扱うべき問題か、議論を進める必要がある。一方的な権利主張が、弱者保護の立場から、偏った扱いを招くのは、誤謬でしかない。
外からの力は、正反対の方向にも、かけられる。病気になれば、治療を受けることができ、元通りの生活を、送ることができる。医療の発達の恩恵に、浴せない人は、先進国では、殆ど見られないが、貧困の問題は、途上国に、限られる訳ではなく、深刻化している。
その一方で、正常な生活を、手に入れる為の治療でなく、別の形の医療行為が、広まっている。美容整形は、その一つであり、様々な問題を、生じていると伝えられるが、美醜の問題は、人それぞれに異なり、統一的な理解は、築けそうにない。よく似た現象が、家族構成に関係する、医療行為にも起きている。結婚もせず、子供も持たない、という若者が、増える一方で、子供を欲する夫婦に対して、様々な医療行為が、施されている。生き死にに関係せず、世間的な見栄えの一種と、解釈されるだけに、保険制度は、成立しないのだが、高まる欲求に、金も時間も惜しまない、という人が居るようだ。彼らが得る力は、まさに外からのものであり、人工的な操作により、待ち焦がれた分身を、手に入れた人の数は、増加の一途を辿っている。優生学の立場から言えば、五体満足であり、裕福な家族にとって、子孫を得ることは、当然の権利であり、生殖における障害は、除かれるべき、と考えるのだろうが、これは、別の意味で、自然の摂理に反することだ、と言えるだろう。表面的な問題がなくとも、通常の状況では、得られないものを、手に入れた結果、潜在していた問題が、徐々に表面化する可能性は、否定できない。或る日突然、それが種の絶滅へと、繋がったとしても、手遅れとなるだろう。そんなことは、起きる筈がない、と考えるのも自由だが、摂理とは、それを未然に防ぐ、という見方もある。各人の欲望を、満たすことを、権利と見做すのも、危険を孕んでいる、ことかもしれないのだ。
前の大戦の際に、ある独裁者が唱えた主張が、人々の恐怖を煽った。優秀な民族は、台頭すべきだが、その一方で、劣悪な者達は、絶やされるべきだと。今なら、突飛な考えとして、厳しく糾弾されるが、当時は、研究者までもが、大真面目に論じていたのだ。
だから、政治家が、そんな考えに耽るのも、当然と書くつもりはない。生殖行動は、生き物が、生き長らえていく為に、必要不可欠なものであり、そこに、外から力を加えることは、自然の摂理を、侵すものなのだ。この国でも、国策と称して、そんな動きがあったことが、徐々に明らかにされつつある。重篤な病気に、冒された人には、子孫を持つ権利はない、とばかりに、ある特定の病気に、罹った人々に、その措置がとられたことは、以前から知られていたが、今度の話は、それが、遥かに広い範囲に、及んでいたとある。精神遅滞や重病などの要因ではなく、異常行動を、措置対象として、取り上げていたとされるに及んでは、流石に、昔の専門家達も、呆れたことだろう。特に、その判断の基準が、曖昧なばかりか、それを下す人間が、専門的な知識を持たず、ただの思い込みが、広がる中で、蛮行に及んだとのことで、無能な人間ほど、権力を得た途端に、異常行動に走ることが、理解できる。集団心理も、大きな要素だったろうが、大元では、非専門家に、判断を任せた施策に、非常識が蔓延した、原因があると思う。専門家でさえ、自分の能力を、過大評価することで、傲慢な考えを、押し付けるようになる。それが、無能なばかりか、本来、無力な筈の庶民が、権力を得ると、こんな事態が起こり得ることは、容易に理解できる。にも拘わらず、それが実行されたことに、施政者を始めとする、権力者の無能ぶりが、現れているのだ。権利とは、どんなものかを、考え直さねばならない。
政治とは、これほどに場当たり的なものか、と思った人も、多いのではないか。悪事を働いたから、辞めるべきだとの主張が、実際に、辞めてしまったら、更なる要求を掲げる。当然の流れのように、感じる人も居るかもしれないが、この経過には、大局観が欠けている。
辞めるか、辞めさせるか、別の言葉で言えば、辞任か解任か、の違いは、目の前から、その人間が、消えて欲しいと願う人には、殆ど無いように思える。しかし、実際に、辞めたとなると、別の問題が、起き始める。つまり、悪事を働いたのに、正当な退職金を、受け取ることができる、という事実だ。世間的に見れば、罪を犯せば、懲戒という処分を、受ける。これは、自ら身を引くのではなく、その任を解かれるのだから、本来得られる筈の権利を、失うこととなる。特に、この手の犯罪では、その地位にあるからこそ、実行できたとの解釈が、適用されるから、地位との繋がりが、重視され、それを解くことが、処分の主体となる。こんな事例は、企業や組織において、これまでにも、数え切れない程あり、当然の処分、と受け止められる。だが、今回の顛末は、その見通しのないまま、部分的な要求を、突き付けた結果、馬鹿げた遣り取りが、続くことになった。世間知らずの典型は、あの世界の人々には、よくあることと、受け取る向きもあろうが、国民の代表が、この為体では、政を、操る資格はない、と言わざるを得ない。それでも、勢いを得た人々は、次の標的を、とばかりに、同じ矢を放ち続ける。その要求が通ったとして、何が成果と見做せるのか、真意を伺う気配もないが、問い質したとしても、大した返答は、できないだろう。兎に角、目の前のことしか見えず、視野も狭窄する中で、攻撃するだけでは、モグラ叩きのゲームに、興じる子供と、変わりないのだから。
機会均等とは、などと考えたくなることが、巷に溢れている。機会を得られない人に、与えようとすれば、環境を整えるべき、という考え方には、大きな落とし穴が、あるからだ。現状では、二進も三進もいかない、という人には、新たな環境が、必要というのだが。
その為に、新たな方策が、講じられると、救われる人が、沢山出てくる。好転したとの分析が、なされることが多いのだが、その一方で、別の歪みが、出てくることに、気付かぬ人が多い。救うべき対象に、絞り込んだ方策では、それまで、差別を受けてきた人々が、優遇される訳だが、その一方で、別の差別が、産み出される。典型的なのは、男女共同参画、と呼ばれる施策で、女性の社会進出を、促そうとの動きは、徐々に、効果を上げているが、現場では、逆差別の声が、絶えない。困っている人を、救おうとする動きは、その多くが、狭い視野に限られ、全体の均衡を、保つことには、配慮を施さない。その為、一方的な圧力が、別の部分にかかり、逆差別の環境を、招くことになる。弱者と呼ばれる人々にとって、こういう救いは、ありがたいものに違いないが、その後にかかる、逆差別という別の圧力は、却って逆効果になり、前よりも悪い状況を、招いてしまうことがある。特別扱いが、特別な人間を産み、結果的には、全体の歪みが、是正されないままとなる。同じように、障害者に対して、環境の整備が、様々に進められているが、それに携わる人の中には、過剰な施しを、当然のこととして、押し通そうとする人が居る。彼らの為、と称して行われることは、その多くが、自己満足に過ぎないものであり、百害あって一利なし、という結果になる。平和な時代だからこそ、余裕を保てるのは確かだが、だからと言って、やり過ぎは困る。時には、厳しい批判も、必要なのだと思う。
素直、という言葉を、誤解している人が、多いようだ。素直な子供、素直な人、そんな表現は、言うことを聞く人間、指示を守る人、といった場合に、用いられる。だが、これでは、単純に、従っているだけで、別の言い方をすれば、服従しているだけのことだ。
確かに、その面が、無い訳ではないが、素直とは、様々なことを、そのままに、受け取ることであり、命令を守るかどうかは、それを正しいと判断するか、にかかっている。服従では、そんな判断が、入り込む余地はなく、ただ、単純に、命令を守るだけで、それが、間違ったことでも、異論を唱えることもない。今、社会で使われる「素直」には、どちらかと言えば、後者の用法が、含まれているように思える。生き方として、それを選択する、という場合には、人それぞれの人生だから、そのままに、放置するしかないが、子供達を対象とした場合、かなりの危険性を、孕んでいるように思える。従うだけの人間を、子供の頃から、訓練で作り出すのは、一種の洗脳であり、善悪の判断も、正誤の判断も、全くすることなく、命令された行為を、実行するのでは、まさに、人間ではなく、機械でしかない。だが、そちらを優先するような、考え方が、世の中に溢れ始めている。それが、安心できる社会だとまで、思う人が出てくると、危険度は、最高値に高まる。この様子に、気付かされるのは、例えば、職場での指示に、質問もなく、ただ従って間違いを犯す時だ。でも、その行為は、明らかな誤解に基づいたもので、間違いでしかない。ところが、本人は、従ったと思う。誤った解釈も、素直に受け取っただけ、という具合に、疑問を抱かない。疑問を抱けば、すぐに見えてくる筈のことも、服従では、見えてこない。こんな人間を、素直さだけを優先する事で、育てているのだとしたら、大きな間違いだ。学校教育でも、最終段階で、素直さよりも、扱いにくさを評価するのは、こんな背景なのだが、気付かぬ人が多い。
困窮に、苦しみ、喘ぐ人々に、光が当てられる。それも、政府などによる支援ではなく、仲間内の支援となれば、物珍しさも手伝い、注目度が高まる訳だ。我武者羅に、走り続けた時代には、将来の保障は、示されたが、落伍する人々には、誰も目を止めなかった。
窮地に陥った人々に、目が向けられるのも、時代が安定したからだし、それを謳歌するだけでなく、全体を、見渡す余裕が、出てきたからだろう。景気が回復したのに、職に就けない人々が、街に溢れて、住む所さえ、失っている。そんな状況に、政府の支援を求める声が、高まる一方で、身近な仲間達が立ち上がり、支援を呼びかけている、と伝えられる。折角、最高学府を出たとしても、それに使った借金を、返す為の収入を、得る機会が手に入らない。家族の手助けも、期待できない中で、街を彷徨うのも、無理もない、という状況にある、と伝えられる。と言っても、これらは全て、海の向こうの話だ。昔なら、こちら側は、事情が違うから、などと言い返せたが、困窮を、殊更に取り上げる人々は、声高に、訴え続け、それらに関する書籍は、店頭に山積みとなる。現状を知らねば、とばかりに、読む人も居るだろうが、どうにも、創作としか思えぬ内容に、騙された気分を、味合わされる。安定した時代に、そこから落ちこぼれる人々に、どんな手助けが必要なのか。あちらの事情では、当人達から、少しの支援さえあれば、自力で何とかなる、との返答があったが、疑わしいものに見えた。一方、こちらで、騒ぎに火をつける著者達は、一部の問題を、歪曲した上で、誇張し続ける。だが、本当に重要なことは、どちら側においても、困窮者が、その状況に陥った、原因の分析が、なされていないことにある。こんなことを続け、人道主義者を、騙る人間の、言い分を聞いていては、社会の歪みは、強まるだけだろう。