機械が、人間に近づいている、と言われる。もう超えてしまった、との意見もあるが、将棋や囲碁の世界で、天才と呼ばれる人が、登場した時と、同じ状態に思える。絶対的な実力を、誇っていても、敗れ去る時が来る。数多の選択肢から、一つを選び出すだけだからだ。
唯一の正解が、あるものであれば、速度さえ増せば、優位が得られる。しかし、この手の競技には、今の所、そんな正解は、ないとされている。まして、人の営みの多くには、種々雑多な選択があり、一つを選んだ途端に、異なる展開が、始まると言われる。答えを、求めようとすることには、何の違いもないが、どれを選んだとしても、それぞれに、異なる正解が、与えられるだけのことだ。長い人生で、あの時、と思い出すことはあっても、その場に戻って、やり直すことは、誰にもできない。そんなことに、勝ち負けもないだろうが、話題として、注目を浴びるからだろう。機械と人間の、戦いのようなものが、紹介されている。それでも、人間同様に、知識を増やせば、選択を絞り込むことは、可能となる。この段階に来れば、速さの点で、機械の優位性が、築けるのかもしれない。そんなことを、思い描いていたとしたら、当てが外れただろう。機械の向上より、人間の劣化が、深刻な問題として、捉えられ始めたからだ。簡単なことを、繰り返して、失敗を減らすやり方が、教育手法として、持て囃された結果、それに曝された人間の多くは、いい成績を、手に入れたものの、全般的な能力は、著しく減退している、との指摘が増えている。特に、最高学府において、この問題は、偏差値の高低とは無関係に、深刻化しているらしい。問題を解かせようとしても、何を問われているかが、解らない人間に、課題解決は、不可能となる。双方向の意思疎通は、滞り始め、成長を止めた人間は、社会の荷物と化す。一方で、機械の理解力は、知識肥大に従い、増すばかりだ。こんな比較、無意味ではないか。
書き残すことの大切さを、改めて実感する内容だった。海の向こうの、靴の会社の創業者が、書き記したのは、創業当時から上場までの、紆余曲折の記録、題名は”Shoe Dog”とある。世界的な企業が、今の繁栄を築けたのは、この国の人々の御蔭、というのだ。
と言っても、それは、番組制作者の主張、だろう。確かに、それが事実には、違いないのだが、こちらの心に響いたのは、それだけではなく、彼の言葉の一つだ。上場以降の、企業の歴史だったら、誰もが知る所だろうが、創業当時からの、初期の歴史は、ほんの一握りの人にしか知られず、特に、窮地を救ってくれた、商社の人々の話は、ここに書かない限り、誰にも知られない。語り伝えることの、大切さを、強調する意見を、耳にすることの多いこの頃、我が意を得たり、と思える言葉だった。危険を冒さず、無難に生きる、というのが、この国の人々の、特徴であり、欠点である、などと、勝手な批判を、繰り返す人々にとって、無視すべき内容だろうが、この国の繁栄を、築いた人々の多くは、自身を信じる一方で、無謀であったことに、気付かぬ人は多い。それに対しても、著者の一言は、鉄槌を落とす、ものとなっていた。自分の国にも、そういう時はあったが、今は違う。どの国にも、波があり、それを乗り越えてこそ、次の繁栄があると。語り伝えることを、強調する人々は、恐らく、興味を引く点と、重要と考える点に、焦点を当てて、話を進める。しかし、書き残しておけば、そこだけでなく、それぞれに、興味を引き、重要性に気付かされる、新たな発見があるのだ。その上、語り部が、次の世代に継がれると、中身は良くも悪くも、歪曲されてしまう。彼らや社会の都合が、いとも容易く、捻じ曲げてしまうのだ。こんな思いを抱いたからこそ、本を書いたのだろう、と思わせる一言だった。
本を読む目的は、と尋ねられたら、どう答えるか。人それぞれに、違いない。例えば、駅の売店で、購入した本を、読むのは、ほんの暇つぶしだろう。流行本を、図書館で借りて読むのは、時流に乗り遅れぬ為か。だが、読んでも、楽しくなければ、意味はないだろう。
では、何が楽しいのか。小説であれば、話の流れに、乗ることで、そこに描かれた、風景や物語に、引き込まれる気分になる。その楽しみは、筋を追うだけでなく、その後の展開を、思い描く所にもある。一方的に、受け取る訳ではなく、こちらからも、働きかけている訳だ。読む事を、受け取る事と、考える人は多いが、それだけでは、楽しみは、半減してしまう。少し難しい話題の本は、更に難度が増すようだ。気楽に読み進めず、未知の言葉や事柄が、次々に登場すると、その度に、どういうことか、と立ちどまらねばならない。時に、辞書を開き、意味を調べたり、類書を辿る必要まで、出てくることがある。ただ、ここでの決断は、読み手に任されている。そのまま放置して、読み進めるか、徹底的に、調べ尽くすか。楽しみが、奪われないように、それぞれの判断を、下す。理解を優先させれば、調べるのが一番だが、それで、立ち止まっては、勢いがなくなる。普通の読書では、やはり、後回しにしてでも、その場の楽しみに、耽ることが、多いのではないか。だが、学習の過程で、こんな事態に陥った場合、中途半端な知識で、先に進んだとしても、解決が遠ざかるだけでなく、疑問が増すばかりで、本を調べる意味は、殆ど無くなる。だから、中断してでも、理解を得る為に、調べざるを得ない。ところが、そういう満足を、得たことの無い人間には、その意味さえ、見えていないのが、実情だろう。その結果、後回しにし、無知を放置する。結局、学習は成立せず、成長ができない。こんな若者達が、平気な顔をして、学校を出て、社会に進出する。その後も、この状態が続けば、役立たずの烙印が、押されるだけだ。
何度も取り上げてきたが、やはり、何か言い足りない、気持ちが残っている。学びの場が、荒れ果てている、と伝えられるが、その実態について、事実が正確に、示されているのだろうか。瑣末なことも含め、小さな問題が、様々に伝えられるが、本質的な問題は、何処にあるのか。
素直でさえあれば、それが一番、という姿勢で、管理教育を施す場は、成果という点で、それなりの結果を、示している。重要なことを、正確に記憶させる、という手法は、服従する態度を、示す子供を相手にすれば、問題なく実行でき、結果も得られる。だが、そのまま大人になった人々を、目にした現場の人間は、愕然とさせられる。確かに、命令に従うし、与えられた仕事を、済ませることができる。しかし、いつまで待っても、同じままで、成長がない状況では、費やす労力を、減らそうとする努力は、起きることがない。過剰労働、などと言われる問題も、実態は、こんな原因によるものなのかもしれない。教えられることに慣れ、従うことに疑問を抱かず、自分から動かぬ人々を、育て上げたのは、現代の学びの場なのだ。では、どうしたらいいのか。何処かで、手を離す必要があり、自立を促せば、いいのかもしれない。なのに、それが起きないのは、何故なのか。素直さを、最優先すれば、こうなるのもやむなし、なのか。反発を恐れ、道を逸れることを恐れる。そんな子育ても、教育も、自立を妨げる。こちらが、そう仕向けているのに、そうでないと信じる。皆が、被害を受けている、と信じるからこそ、こんな事態にも、手をこまねくしかない。だから、もう仕様がないんだ、となる。負の連鎖、としか思えないが、では、どうすればいい。簡単には、厳しい言葉を浴びせ、反発を引き出すのが、一番だろう。ただし、少しの覚悟は、必要だ。被害者を、出すことが、当然となるから。
高齢化社会となり、様々な問題が、表面化している、と伝えられる。確かに、人の寿命が延び、昔なら珍しかった、年齢に達する人の数は、急増している。だから、問題が増えるのも、当然とされるが、少し考えてみると、そのまま鵜呑みにしては、いけない気がしてくる。
例えば、昔は痴呆症と呼ばれた、物忘れをし易くなる、認知症は、ただ、忘れることを、問題とするのではなく、判断などを含めた、認知と呼ばれる、機能の低下を表す症状だが、患者として紹介されるのは、高齢者に限らず、働き盛りの人も、含まれている。若年性、と付けることで、通常とは異なることが、伝えられるものの、この状況からは、全ての原因を、高齢化に押し付けることが、間違いと思えてくる。この年齢で、発症するのであれば、昔から知られていても、不思議はない筈だが、そんな噂さえ、流れてきたことがない。何が、変わったというのだろう。おそらく、社会問題として、認知症が、認知されることで、それまで、個々の事例とされたものが、社会全体の傾向として、扱われ始めたことが、こういう事態を、招いたのだろう。一方、社会問題としての認知症患者は、見守りを含め、様々な問題を生じている。中でも、彼らが起こす、事故に関しては、賠償問題として、大きく取り上げられているから、知る人も多いだろう。最近の判例では、家族の責任を、問わないとの判決が、出されることで、状況に、変化が起き始めているが、依然として、事故の責任を、負えない患者が、事故を引き起こした時に、誰が責任を、負うのかという問題は、家族に伸し掛かっている。そこで、責任の一部を、自治体が負担しようとする動きが起こり、救いの手として、紹介されていたが、何かがおかしい、と思えた。加害者家族の問題として、補償を考える時に、何故、被害者家族のことが、表に出てこないのか。確かに、見守りが難しい面もあるだろうが、だからと言って、事故の原因を、取り除けない、とは限らない。奪われた命は、補償では戻ってこないのだから。
差別意識を、増大させるから、という理由で、公共の場では、使えなくなった言葉が、沢山ある。はじめのうちは、社会的には受け入れられたが、一部の小説家は、偏った措置として、反対の声を上げ続ける。それぞれの言葉の、起源を無視して、制限をかけられたからだ。
例えば、目や耳が不自由な人、という表現が、代わりに出てきた時、ある子どもが、「じゃあ、あの人達は、心や頭が、不自由なんだね!」と話していた。肢体不自由が、使われる一方で、精神に対しては、使われていない。異常という表現は、使いにくさもあり、避けられているようで、こちらでは、病名として、表現されることが多い。だが、その一方で、分裂病という名称は、誤解を招くからとの理由で、別名が当てられた。では、失調というのは、どう理解されるのか、的確な表現となるのだろうか。こんな調子で、差別とか過敏な反応を、排除する為と称して、様々な変更が、巷で起きる。だが、それを催す人間の持つ、意識についての言及は、殆ど行われない。差別を押し付ける人間を、排除するのは、別の差別を招くだけだから、それを避ける為には、言葉の選び方に、注意するしかない、という考えなのだろう。だが、所詮、言葉の扱いに過ぎないから、別の解釈を、新たに当てることも、可能となるだろう。これでは、まるで、鼬ごっこであり、根本解決は望めない。言葉の排除により、人間の排除を、避けているとの理由も、極端な対応を、続けることにこそ、重大な問題がある。差別を、殊更に取り上げる人々に対して、厳しい対処をすることを、真剣に考えるべきだろう。弱者保護を掲げ、権利主張を押し出すことで、これまでは、強い圧力を作ってきたが、その考えに潜む、別の差別意識こそが、この問題を作り出している。まともな社会にする努力を、怠ってはならない。
言葉選びに、苦慮する人も、多いと思う。失言を、謝罪するのは、政治家の専売特許、などと思うかもしれないが、立場のある人々は、気を抜いた途端に、厳しい批判の矢に、晒されることがある。軽率な一言が、ハラスメントと糾弾され、時に、地位さえも失いかねない。
こんな事態が、頻繁に起きるのは、何故なのか、そちらの議論は、殆ど行われない。失言は、あくまでも、配慮を欠いた発言であり、それを発した人間の、責任とされるからだ。だが、同じ発言でも、その場では、和ませる役目を、果たす場合もある。隠し録りされた、音声記録にも、爆笑が起こる場合も多く、発言者も、思惑通りと、考えたに違いない。にも拘わらず、後日、それが失言として、糾弾されるのは、何故だろうか。別の立場から、その発言を分析し、明らかな差別が、あったとされる場合など、屡々起こることだ。それに対して、発言者の多くは、発した場での意図を説明し、始めは、謝罪の必要を、感じないのは、そんな背景があるからだ。だが、世論とは、社会全体の扱い方が、映し出されたものであり、次々に出される批判の声に、ついに、頭を下げることになる。だから、場のウケを狙うだけでは、配慮が足らないとなる。何処に出ても、文句のない言葉を、選ばねばならない。この勢いからか、専門用語として、認識される言葉にも、目を向ける人が増えている。優ると劣る、という区別が、能力を想起させるから、不適切との指摘に、専門家達が、導き出した答えは、顕れると潜む、という区別らしいが、誤解を招きかねず、受け入れ難い。そんな差別意識が、如実に現れているのは、障害という表現だろう。害をなすもの、との認識から、ひらかなを当てたり、妨げるという意味の「碍」を当てる場合もある。最近は、症状を表す、〇〇障害に、銃口が向けられ、〇〇症への転換を、図る動きもある。だが、ここでも、過剰な配慮が、別の誤解を招いたり、説明不足を起こしかねない。何とも、生き難い時代なのだ。