パンチの独り言

(5月7日〜5月13日)
(叱る、支配関係、偶像崇拝、丸腰、夢幻、異端者、私服)



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5月13日(日)−私服

 意味不明な言葉を、操る若者達、年寄りを、馬鹿にする態度と、相俟って、傲慢さを、見せつけるように思える。だが、新語と呼ばれる、聞いたこともない言葉とは違い、誤用としか思えぬ、勝手な使い方には、論理性の欠如と合わせ、非常識しか、感じられない。
 学校に通った頃、制服を廃止した所があるとの話に、羨望の思いを抱いた、仲間達が居た。それが、子供の時代には、中学校までが、そんな制度を導入していた。自由を謳歌する時代、と言えば言えなくもないが、放置に過ぎない場合が、本当は多かったのではないか。また、一方で、一部業者の収益を、不当と訴える、筋違いの世相も、関係したのかもしれない。当時の、制服と私服の違いは、明確に付けられていたが、無知な子供達には、正しい意味は、通じていなかったようだ。それが長じて、社会に出ようとする頃に、制服などがない環境で、「私服」を、ある限定した意味に、使うようになる。背広が、仕事着だと思い、それを、制服の一種と見做すからか、少し着飾ると雖も、背広ではないものを、「私服」と呼ぶのだ。色形が、決められていない、背広を、なぜ、制服の一種と見做すのか、論理の欠片も無いが、私物である以上、それは私服に違いない。意味不明と、断じたくなる気持ちは、理解されるだろうか。若者に、苦言を呈したことも、数え切れぬ程あるが、先日は、公共放送の報道で、あろうことか、「私服」の一言が、使われていた。就職活動において、従来とは違う仕組みで、普段着で臨む姿が、紹介されていたのだが、そこでの言葉は、「私服」であった。若者の破壊活動に、手を貸す人々は、こんな所にも出てきた。言葉を大切にする立場から、昔から、厳しい制限を加えていたが、ついに、こんな事態が起き始めた。「してあげる」の誤用が、番組中に、厳しく糾弾されていたのも、遥か昔の出来事か。

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5月12日(土)−異端者

 皆で渡れば、怖くない。一世を風靡した、集団心理を、表すものだが、国民性を、指摘するものと言われた。確かに、今でも、同じ状況であることに、違いはない。隣が、同じことをしていれば、安心するし、その前に、隣が、何をしているかを、気にしているのだ。
 初めに書いた言い回しは、その前にある言葉が、肝心な意味を伝える。知る人も多いだろうが、それは、「赤信号」である。規則に縛られても、それを当然と考える人々に、他人の行動は、心強く映る。一人なら、絶対に渡らないのに、誰かが一緒なら、安心して踏み出すことができる。たとえ、違反でも、皆と同じかどうかが、判断基準となる、という意味に繋がる。善事を、行うのに、皆と同じであれば、それは、それで、構わぬことだ。だが、悪事を、他人もするから、と実行するのは、単なる言い訳でしかない。集団行動を、主体とする社会では、これが、大きな影響を及ぼす。上を目指す気持ちを、たとえ持っていたとしても、皆と違うから、と断念するのは、異様に感じられるが、これもまた、集団心理の現れ、なのだろう。競い合いを、意識することが、向上のきっかけとなる場合も、こんな圧力が掛かれば、皆と同じ所に、留まることを、優先する。成長を妨げる力が、働いていても、集団を優先する空気が、満ちていれば、それでよしとなる。自分で築いた、そんな状況を、正当化する為の、言い訳の一つが、皆で渡れば、ということになるのだ。こんな連中が、巷に溢れる中で、努力を続ける人は、異端と見做される。それが、結果を手に入れれば、羨望の目が、敵を見つめるものへと、変わっていく。皆と同じを、望む気持ちは、その異様な視線に、耐えられないから、起きるのだろうか。

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5月11日(金)−夢幻

 人間の才能は、先天的なものではなく、後天的なもので、決まる。教育界の、迷信の一つだろう。自らの存在意義を、これによって、確かなものにしたい、という思いがあるようだ。だが、現実は、全く違う方に、向かっている。力を入れるほど、無能な人間が、増えている。
 知的活動に比べると、体力がものをいう、運動能力の問題では、生まれながらの才能を、持ち合わせていない人間を、どんなに訓練したとしても、大した才能は、育たないと言われる。何も教えずとも、走るのが速い子供や、飛んだり跳ねたりが得意な子供は、その良い例だろう。ただ、それを、一流の水準に、到達させる為には、それぞれに、正しい方法を、教え込む必要がある、と言われる。先天的な才能の上に、後天的な教育を、施すことが、重要である、ということだ。この組み合わせは、当然と見做される一方で、教育の力を、誇示したい人間共は、拡大解釈を、適用し始める。それが採用された結果、教育改革などと呼ばれる施策が、実行に移されたのだろう。その結果は、惨憺たるものだろう。到達すべき、能力の水準は、ある線に設定され、誰もが、そこまで進める筈、となっている。が、多くは、ついていけなくなり、落伍者となっていく。絵に描いた餅は、そのまま、金科玉条の如く、掲げられているが、見込み通りの成果を、上げられないまま、遠くの目標と化している。高い目標を、設定するのであれば、それに見合う才能を、持ち合わせた人間を、対象として選ぶべきだろうし、誰もが到達すべき目標を、設定するのであれば、どこまでが求められるのか、きちんと検討すべきだろう。これらを混ぜこぜにして、いい加減な提案を、し続けた結果、今の荒廃を招いた、と糾弾すべきだろう。これ以上、あの連中の戯言を、放置してはならない。

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5月10日(木)−丸腰

 課題解決の能力が、必要不可欠と言われる。それに加えて、課題発見の能力が、備わっていれば、鬼に金棒、とも。だが、現状は、厳しい状態にある。出された課題を、解決することの、できない人々が、巷に溢れているのだ。難しいものだけでなく、簡単なものまで。
 与えられた問題を前に、呆然と立ち尽くす人々は、解決法が伝授された途端に、せっせと動き出す。同じことを、繰り返す能力は、備わっているようだが、早晩、単純作業は嫌、とばかりに、怠け出してしまう。一体全体、こんな人間を、どう使えというのか、現場では、押し付けられたお荷物を、何処に回そうかと、躍起になっている。しかし、その数が、ある水準を超えれば、他に回したとしても、他から別のお荷物が、やってくる。まさに、手詰まり状態、にある。いつから、こんな状態に、陥ってしまったのか。多分、昔から、こんな状態は、続いていたのだろう。ただ、それが目立たぬくらいに、ある程度の能力を備えた人の数が、確保されていたのだ。特に、進学率が、低い時代には、壁を乗り越え、上位の学校に進んだ人間の多くは、課題に取り組む姿勢が、確立されており、時に、新たな課題を、見出すことが、できる人も居た。その結果、組織としては、指導者が、構成員に解決法を伝授し、課題を順調に片付けることが、可能となっていた。その上、従う人間の多くは、単純作業を、自らの役目と感じ、それを当然と、取り組んでいた。ところが、進学率の向上から、有象無象が、挙って進むこととなると、種々雑多な人間の大部分は、能力を備えず、その為の手立ても、持ち合わせぬこととなる。結果は、現状を表すこととなる。だが、皆ができねば、心配する必要はない、と考えるのが、今時の若者らしい。これでは、解決は望めない。少なくとも、できないことを、明確に示し、それを克服させるしかない。時に、叱責も、必要だ。

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5月9日(水)−偶像崇拝

 時代が、変化したから、なのだろうか。人の評価の仕方が、昔とは、大きく変わったように思う。昔なら、一度や二度の成功では、信頼を勝ち得ることは、できないとされたが、今は、一発屋だろうが、何だろうが、皆が挙って持ち上げ、偶像化が、進むこととなる。
 読んだこともないから、評価もできないが、ある漫画家が、番組で取り上げられていた。初めて出版した作品が、爆発的な流行を得て、皆が崇拝している、と伝えられる。たったそれだけのことに、世間が騒ぐのも、最近の傾向で、流行に乗る為と称して、作品などを飾る施設まで、作られたとあり、驚くのを通り越し、呆れるしかない。人気を左右するのも、実際には、作品の中身より、誰がどう取り上げたか、それも、庶民の発言が、重視されるようだ。火が着くと、次々に飛び火し、それが、急激な広がりを見せる。群集心理が、物理的に集まらなくても、発揮されるのは、最近の傾向なのだろう。だが、その危うさは、今後の展開を見れば、すぐに理解できるだろう。偶像と化した人間は、特別扱いを受け、それが当然となるが、その基盤が崩れれば、百日天下が、すぐにやってくる。本人の発言が、紹介されていたが、これもまた、品格を感じさせるものには、程遠かった。好き勝手を繰り返し、自分を押し通した結果が、今の繁栄に結びついた、という点は、彼の作品に心酔する人々には、大きな魅力と映るだろう。だが、自分にも投影したい、と願う姿には、確かな実像は、存在していない。所詮、虚像に過ぎないものに、何故、これ程の魅力を感じるのか、昔の人間には、理解できない。ただ、これが群集心理として、表面に出ていることには、強い危険性を感じる。特に、その為の仕組みが、蔓延する時代には、操作が容易になり、操られる人々が、巷に溢れているだけに。

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5月8日(火)−支配関係

 愛玩とは、どんな意味なのだろう。可愛がる対象を、持つことは、依存される意識へと、結び付くから、それが自信へと、繋がると言われる。だが、周囲を見渡すと、それとは異なる状況が、溢れているようだ。依存より、服従を、優先させる考え方が、主体となっている。
 何度も書いているように、素直さを、最優先とする子育てが、巷に溢れるようになってから、愛玩動物に対しても、そんな気持ちが、強く表れているように、見え始めた。自分を、頼ってくる存在が、いつの間にか、絶対服従を、条件とするように、なったのだ。一方で、癒しという言葉が、頻繁に使われるようになって以来、ここでも、その役を、動物に果たさせる考えが、強まってきた。服従する相手が、自分を救ってくれる。飼い主の気分として、支配したいという気持ちが、出てくることは、当然なのかもしれないが、それが、動物だけでなく、人間に対しても、出てくるようになると、状況は一変する。支配する人間と、服従する人間の間に、働く力関係は、様々なものがあるが、一方的であることに、変わりはない。だが、素直さが、そんな支配関係を、作り出すとしたらどうか。言われた通りにしておけば、何事も、無難に済み、傘の下で、成功のお零れを、頂けるのだ。それで良し、とする人間が、増え始めた頃から、全体として、閉塞感や停滞感が、強まったように思う。打開に必要な人材は、命令に従うより、独自の路線を歩む人間であり、時に、扱いにくさが、目立つものだ。だが、それまでに、重用してきた人間は、言う通りにし、逆らわない連中で、問題を、解決する方向には、向かい難い。その原因を作ったのは、上に立つ人間であり、愛玩動物と同様に、扱い易さを、優先した結果、失ったものが、大きいのだ。

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5月7日(月)−叱る

 常識が、変わってしまったのだろうか。よく言えば、遠慮深い、悪く言えば、引っ込み思案、とされた国民性は、普段の常識にも、適用されていた。だから、何も言われずとも、してはいけない、という雰囲気があったのだ。ところが、最近の状況は、大きく変わった。
 自意識過剰、と呼ばれる、新世代にとって、何も言われなければ、好きにしていい、と判断するらしい。積極性を、促す為と称して、余計な口を、極力出さないようにして、自己判断を、させるようにしてきた。子供心に、叱られることを恐れ、世間の規範を、身に付ける筈の年代で、放任主義に、曝された結果、起きたことが、現状を表しているようだ。自己流を押し通し、できないことは、周囲に、責任転嫁をする。教えてくれない、との叫びも、わかるように、との願いも、自分の努力に、思いが至ることなく、ただ、現状のままで、成長できるとの、過信とも見える、誤解に基づいていた。しかし、周囲は、本人の為と慮り、そのまま、成長を見守ってきた。だが、この常識は、ほんの一握りの成功の反面、夥しい失敗を、積み上げる結果となった。その上、そのまま、大人となった人々は、自己責任の言葉にも、揺らぐことなく、自己流を押し通したまま、周囲への悪影響を、及ぼし続ける。それが、次代に継がれるようになると、流石に、不味いと気付く人が、出てきたようだ。しかし、叱られ慣れていない人間を、叱ること程、難しいものはない。いい大人が、初めて叱責された、とばかりに、強烈な反発を、示すのも問題だが、そのまま、悩みに沈んで、壊れてしまうのは、もっと大きな問題となる。その殆どが、叱った側の責任を、問う結果は、更に、問題を拗らせている。駄目なことは、駄目と言わねばならず、駄目と言われずとも、欲望を抑える姿勢を、築かせるように、育て方を、変えるべき時が来ている。手遅れでは、ないだろうから。

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